ショートショートの置き場
@cozmos
特に異常なし
窓の向こうから降りそそぐ午後の陽光の中、診療所のドアが開いた。
無口な少年と母親が入ってきたとき、緊張が満ちた空気が診察室に流れ込んだ。
「この子、何かがおかしいんです!何でもいいから診てください!」
母親の声は震え、言葉が早口で飛び出してくる。診察室に入る前から廊下にまで声が響いていた。
「まずは落ち着いてください。ゆっくり診察してみましょう」
私は穏やかな声で言ったが、内心は不安でざわついていた。研修医2年目。こんな感情的な親にどう対応すべきか、まだ心許ない。
少年は音もなく診察台に座り、私ではなく壁の鏡をじっと見つめていた。その瞳には退屈さが漂い、ただ気まぐれに母親に付き合っているだけのようだった。
「どうしたのかな?何か気になることはある?」
私の問いかけに、少年は反応を示さなかった。
母親の言葉にも答えず、ただ虚空を見つめている。アイコンタクトの欠如、言語反応の遅れ—。
自閉症の初期症状の典型だ。研修医2年目の私でも分かる。
「自閉症じゃありませんよ」
突然、静寂を切り裂くように少年が口を開いた。
私の背筋に冷たいものが走った。
「先生、今、自閉症かもしれないって思いましたよね」
私の喉が乾く。確かにそう思ったが、口には出していない。
まさか…人の心の声が聞こえるのか?
信じられない思いで、私は心の中で算数の問題を出してみた。
(2+2は?)
「4です」
少年は即答した。その目は私を貫くように見つめている。
(17-9は?)
「8です。簡単すぎます」
少年の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
震える手で診察記録を置き、私は母親に向き直った。
「彼は…人の考えていることが聞こえるようです」
母親の顔が一瞬で歪んだ。
「そんなはずないわ!正常な子よ!」
悲鳴のような声が室内に響く。
少年が静かに母親を見つめた。その瞳に何かが宿る。
すると母親の表情が不思議と穏やかになり、
「そうね、この子は特別な子なのよ」と言った。
その目は一瞬、光を失い、空虚に見えた。
寒気がした。
母親のあまりにも急激な態度の変化に違和感を覚えたが、それよりも少年の謎めいた能力に興味が湧いてきた。
「もし本当なら、これは素晴らしい才能かもしれません。人の気持ちを理解できる、誰よりも優しい人になれるかもしれない」
母親はゆっくりと頷いた。
「だから、いつも優しかったのね…」
声は自然なのに、表情と声のトーンは妙に機械的だった。まるで操り人形のように。
この能力、医学界に衝撃を与えるに違いない。社会にも役立つだろう。考えただけでも心が躍る。
私の興奮を察したのか、少年の表情が一変した。
冷たい氷のような目で私を見つめ、
「ボクは実験台になるつもりはありませんよ」と言った。
その冷徹な視線に一瞬たじろいだが、研究者としての好奇心は抑えきれなかった。
「君の能力は素晴らしい。しかし、もっと客観的な証明ができればいいのだが…」
少年の唇がわずかに歪んだ。
「証明はもうしています。先生はいつから自分の姿を忘れたんですか?」
「どういうことだ?」
混乱した私が鏡を見ると、そこには見知らぬ中年男性の顔が映っていた。
若い研修医のはずの自分の姿はどこにもない。
冷や汗が背中を伝った。
震える手で診察記録を開くと、ページをめくるたびに同じ筆跡で「特に異常なし」という言葉が何十回も書かれていた。
日付だけが違い、最も古いものは10年前—。
少年は立ち上がり、
「僕の力は心を読むんじゃない。思考を植え付けるんです」と微笑んだ。
その笑みには勝利の色が浮かんでいた。
少年は母親の手を取った。
母親はぎこちない動きで立ち上がる。その表情は空虚なまま、少年の後について歩き出した。
二人は診察室を出ていき、扉が静かに閉まった。
瞬間、私は何かを思い出そうとしていたことさえ忘れた。
「次の患者さん、どうぞ」
と明るく声をかけながら、私は次の診察記録を開いた。
ショートショートの置き場 @cozmos
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