末摘花の私と君と
深山心春
第1話
「光源氏はさ、頭中将と争って、結果、末摘花と一夜の過ちを過ごすのよね」
私がそう言うと、風早君は興味なさそうにふうん、と頷いて手元の本に目を落とした。茶色味を帯びた緩やかなウェーブのかかった前髪が、青縁の眼鏡に落ちる。風早君は同じ大学の文学部。ゼミも一緒。ゼミの中では仲良くて、時々お昼を一緒にとったりもしている。
「ねえ、聞いてないでしょう?」
「聞いてるよ」
「何読んでいるの?」
「落窪物語」
やっぱり聞いていない! と私は憤慨する。
それで? と風早君は気のなさそうに私の話の続きを促した。
「一夜だけの過ちで結ばれるんだけど、顔が光源氏の好みじゃなくて……お世話はするけどそれだけ」
「なるほどね」
風早君はそう頷くと、ぱたんと本を閉じた。
「それで、宮野さんは、俺との夕べも「一夜の過ち」にしたいって言ってるの…?」
真剣な眼差しを向けられて、私はう、と視線を彷徨わせた。手に持ったマグカップを持て余すようにいじる。
「だって…そうでしょう…?」
ここは、風早君の借りている部屋。私が風早君のが一人暮らしの家に来たのは初めてで、昨夜はお酒も入っていたせいか、なんとなくそういう流れで、そういうことになってしまった。風早くんに借りたシャツはダボついて大きい。
「それで俺は、宮野さんを捨てて他の女の人の面影を追い続けて探し続けるわけ?」
「いや……そういう意味で言ったわけじゃないんだけどね……」
少し開けた窓から春風が舞い込んで、レースのカーテンを翻す。風早くんのウェーブのかかった髪も、風にそよいだ。
風早君はため息をつく。怒らせたかな…?と私は不安になる。もう風早くんと喋ることも、お昼を一緒にとることもなくなるかもしれない……その考えは私をひどく追い込んだ。
「宮野さん」
「は、はい?」
「宮野さんは、俺が光源氏みたいに友人と争って勝つため……な感じで宮野さんを抱いたと思っているんですか?」
声に密やかな怒りを感じで、私は内心焦った。
「そういう、見下げ果てた男だと思ってると理解していいのかな?」
私は首を竦める。じわりと涙が浮かんで視界がぼやけた。
「聞いてる?」
「聞いてるよ!」
私は、ばん、とローテーブルを叩いた。
「だって、そう思わなきゃ辛いじゃない! 好きだと言われたわけでも、付き合ってるわけでもないのに、そういうことになって。男は誰でも良いから欲情できるんでしょうけど、女は違うのよ!!」
やけになって一気にまくし立てると風早君は、ぽかんとした顔になった。
「待って、待って。宮野さん、夕べのこと嫌だったんじゃないの?」
「誰もそんなこと言ってない。私はね! ずっと風早君が好きだったの! だから嬉しかったけど! 私、自分に自信なんて、ないもの」
堪えきれずにポロポロと涙が落ちていく。顔だって平凡だし、お洒落と言うわけでもない。
密かに人気のある風早くんに似合うとはとても思えない。頭の中も顔もぐしゃぐしゃになって、私は泣いている顔を見られたくなくて涙を懸命に拭った。
ずっと風早君が好きだった。だから一緒にお昼も食べました、お茶もしました、男の人の家にも初めて上がりました、そういう雰囲気になったから、思い出欲しくて身を任せました、男の子で、仲が良い人なんて今までいなくて、全部、初めてでした、重くてごめんね!! そこまで吐き出して私はまた、ポロポロと涙をこぼす。
呆気に取られてた風早君が、ローテーブルの向かいから、静かに私の隣にやってきたのに気づいて私は泣き顔を見られたくなくてそっぽを向いた。
「宮野さん。ごめん」
ずきりと、胸が痛む。謝ってほしくなんてない。一夜の過ちでいいから、今まで通りに接してほしいだけなのに。もうそれは叶わないのかと私はますます子どものように涙を流した。
「宮野さん、聞いて」
風早君を見ると正座をしている。そして酷く真面目な表情をしていた。
「順番が逆になってごめん。宮野さんが好きです。付き合って下さい」
「は?」
「は? じゃなくて。顔を見せて」
風早君は、私の両手を掴んで。泣き濡れた私の顔を覗き込む。
「ごめん。俺、光源氏みたいにかっこいいわけではないけど、アレみたいに、最低な男のつもりもないんだ」
光源氏に対して凄い発言するな、と私はびっくりしてしまう。
「それに、俺は光源氏じゃないし、宮野さんは末摘花じゃない。赤いというなら、この赤い唇がとても可愛い」
私の涙をハンカチを取り出して丁寧に拭ってくれると、風早君は頭を下げる。
「順番が逆になってしまって申し訳ないけど。宮野さんが、ずっと好きだったんだ。だから付き合ってほしい」
「本当に…?」
「本当に」
「一夜の過ちにしなくていいの……?」
「いや! しないでほしいよ! 俺がどれだけ幸せだったか、わかってる?」
私は顔が熱くなって、自分が真っ赤になっているのを、自覚する。
「顔、見ないで。いま、ひどい顔してる」
「してないよ。宮野さんはいつも可愛いよ」
風早君はそう言うと、遠慮がちに私を抱きしめた。温もりがとても優しくて私はやっとほっと息をついて体を預ける。
「宮野さん……返事聞かせて欲しいんだけど」
「……よろしく、お願いします……」
そう言うと、風早くんは、良かったあ……と情けない声をあげて私をぎゅっと強く抱きしめた。
目が合うと、そっと啄むだけのキスをくれる。
私は幸せに目が眩みそうになりながら、風早くんに、抱きついた。
良かった……一夜の過ちにしなくて良いんだ。
そうもう一度つぶやくと、しないで欲しいよ……と弱々しい声が上がる。でも! と風早君は私を離すと、厳しい声で言った。
「据え膳食わねば……の、男はいるからね。申し訳ないけど、もう、男と二人きりにならないで」
その声があまりに真剣で、私はくすくすと笑ってしまった。
はい、なりません。あなたとしかふたりきりになりません。その気持ちを込めて風早君を抱きしめると、風早君も抱きしめ返してくれる。
それは、生まれて初めて感じる愛しいと言う感情だった。開けた窓から優しい風が舞い込んで、2人をそっと撫でて行く。
「それに宮野さんは勉強が足りないね。光源氏はね、末摘花の顔には衝撃を受けたけど、その清らかな心根に好意を持っているんだよ。俺にとって宮野さんは末摘花じゃないけど、その性格も全部好きだよ」
私ははにかんで風早くんの腕に身を任せる。
紫式部には悪いけれど、源氏物語をバイブルにするのはもう、やめようと私は心のなかでそう誓ったのだった。
末摘花の私と君と 深山心春 @tumtum33
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます