お題「約束」

ゔぁんほーてん

2025.02.22

「あの、これは…?」

唐突に先輩が差し出したチョコを受け取っていいものか、私は手を伸ばしつつ尋ねた。

「この前、小説貸してくれたでしょ? お礼するって言ったの、忘れた?」

忘れっぽい私に比べて、先輩は何でも覚えている。口約束も、物の貸し借りも、ちょっとした雑談の一つも、食べ物の好みなんかも。

律儀な先輩はそれらを忘れたことはない。

「あ! …いただきます…」

「もう」

私はカカオ70%のビターチョコを即開封し、舌の上で転がす。先輩は何でも覚えている。


夕陽の射し込む私の部屋に、先輩の溜め息が溶けて消える。私は先輩の困った顔が密かに好きだったりする。

あ、好きとは言っても百合ではないですよ。尊敬してて、仲良くなりたいなって思ってるだけです。女子が二人登場するからって、全部がそんなパターンとは限らないでしょ?

そう。これは単なる憧れで。

これは健全な関係です。


「親切の見返りを求めないのは美徳かもだけど、求めないどころか忘れちゃうのってどうなの? お姉ちゃんは心配です」

「あ、お姉ちゃんって…いいですね…先輩、私のお姉ちゃんになってほしいなぁ」

先輩には妹がいる。思春期真っ盛り、ワガママ放題で手のかかるお年頃だそう。ときどき、妹に手を焼いているような話を聞くことがある。

そういえば先輩って家ではどんな感じなんだろう? しっかり者の先輩以外想像つかないや。もし私のお姉ちゃんになってくれたら…もっと遠慮なく叱られるとか…?

一人っ子の私が妄想を膨らませていると、げんなりした様子の先輩が目に映り、慌てて誤魔化す。

「あ、いやその、冗談ですよ」

二度目の溜め息。先輩はやれやれといった風に苦笑する。

「まぁ、いっか。お姉ちゃんになってあげよう。物忘れしなくなったらね」

「そ、そんな……」


先輩はこの春、地元のそこそこ大きな企業に就職する。頭良いんだから進学すればいいのに、と言ったが、そこははぐらかされてしまった。

「大人になるんだなぁ…」

「嫌なんですか? 大人になるの」

先輩は視線を宙に泳がせる。返答に窮していたようだったが、

「精々頑張るよ。みんな私に期待してるしね」

と、最終的にぽつりと呟いた。


「……じゃあ、卒業しても家にいるってことですよね? 妹ちゃんが羨ましいですよ。いいなぁ、頼れるお姉ちゃんがいて」

卒アルのページをめくる先輩の手が止まった。何を思ったのか、先輩は私を、卒アルを、自分の手を順繰りに見ながら懊悩しているような。

「…私は…そんなんじゃなくて。みんなが思ってるような人間じゃ、なくて」

​───あれ? 私、もしかして何かまずいこと言った?

「先輩? そ、その、すみませ……」

「……私さ。本当は」

長い沈黙の後、先輩はついに口を開いた。

「お姉ちゃんじゃなくて。立派な大人じゃなくてさ」

先輩はおもむろに立ち上がり、私の膝の上にちょこんと座った。


「私、本当は妹になりたかったんだ。子供でいたかったんだ」


唖然とする私の胸に、先輩は軽い身体を預ける。小さな身体。膝に座っても、頭の高さは私より低い。私の首に手を回し、先輩は私に愛おしげに頬擦りをする。白い頬。細い指。

……先輩って、こんなに小さかったんだ。

先輩はおずおずと私に向き直り、私を真っ直ぐに見据えて言い放った。

「あのね、お姉ちゃんになってほしいの。私の」

「……」

理解できなかった。あの先輩が。

私のものに……?

「……うん」

いいの? いい訳ない。おかしいでしょ。そう考えるより先に、返事が口をついて出てしまった。

「えへへ。お姉ちゃんだぁ。優しい、私の……」

先輩は私に身を寄せ、私はされるがままに抱き締められた。華奢な、少し力加減を間違えれば、途端に折れてしまいそうな身体。

凛とした声色がふにゃっと緩んだ。これまで聞いたことのない甘い囁きが、耳元にまとわりついて離れない。

「せ、先輩…?」

「先輩って呼ばないで。イヤ」

「​……██、ちゃん?」

「そうそう。ふふ、嬉しい。なでなでして」

彼女は私の左手を掴んで頭に置く。艶のある黒髪をなぞる。その髪に指は絡まず、さらさらと抵抗なく流れていく。

状況が飲み込めない。私、何して​───

「あのね、もうひとつチョコあるんだ」

そう言って懐から赤い箱を取り出した。お互いの熱で溶けかけた一欠片のミルクチョコレートをつまみ、ふっくらとした唇に咥える。

「いっしょに食べようよ」

額が触れる。黒い髪が余計な視界を遮る。今見えているのは端正な顔立ちだけ。長いまつ毛。澄んだ目を際立たせる涙袋。その瞳の奥から目が離せない。

このままでいいの? よくないでしょ。私たちそんな関係じゃ……けど……

逃げようにも思考がままならない。唇ひとつ動かない。

逃げる? どうして? 憧れた人から?

いや、だって​……そう、これは、健全な​​───


「ね? おねえちゃん​​───」


宵闇が私の部屋を飲み込んだ。

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お題「約束」 ゔぁんほーてん @ban_ho_ten

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