特別だ、と口にしなくても。

葉月 望未

ある夜のこと



「……何、そんなに見つめて。ん?」


 ひとつ、キスが終わった直後だった。


 長い睫毛がゆっくりと上がっていき、扇情的な熱っぽい瞳が私を捉え、ほんの少しだけ現実へと引き戻る。


 一度私から目を外し、飛鳥あすかくんは、ふっ、と笑った。口元に浮かべた緩やかな笑みからは余裕が見える。


ホストのくせに染めていない黒髪は癖がなく艶やかで、けれど、その真面目な風貌とは相反し、耳にはピアスが三つずつ着けられていた。


そのピアスたちを見ていると思わず触れたくなってしまう。——それは、私が持っていないものだからだ。


けれど、触れてしまえば、憧れていることがバレてしまいそうで恥ずかしく、私は指先をくるむように拳を緩く握っていた。


「……何?」


 飛鳥くんが甘ったるい声を出しながら、私の腰に回していた片手にもう一方の手を近づけ、自分の指先を絡めた。飛鳥くんはそのまま私を引き寄せ、さらに距離を近くし、私の頭に額をくっつける。


 人の熱ってこんなにも感じるものなんだ、と、私は手の力を緩めて。


「……漫画みたいだな、って」


 自分の声があまりにも小さく掠れていることに驚いた。それ以上に、ふわふわと頼りなく、高く甘えた声だったことに衝撃を受け、唇を軽く噛んだ。


「ああ、少女漫画みたいなシチュエーションが好きなんだっけ?」


 さっきよりも明瞭な声の飛鳥くんにコクリと頷いた。自分の声が恥ずかしくて出せなかったからだ。


瑠衣子るいこ、顔、上げて」


「……やだ」


「その反応こそ、少女漫画っぽいと思うけど?」


 飛鳥くんの手が私の頬にそっと触れる。


「……可愛いね。瑠衣子、真っ赤」


 眉を顰めてしまう。恥ずかしいのと可愛いと言われたことに対しての嬉しさで顔が綻んでしまいそうなのを隠すためだ。


 そんな私の心中なんて露知らず、飛鳥くんはまた顔を近づけながらゆっくりと目を閉じていく。それに合わせ、私も今度こそ目を閉じようとして。


「……抱けるに、決まってる」

「……え?」


 唇が触れそうになった瞬間、飛鳥くんが囁いた。私に言っているようでいて独り言のように。


 目を開けようとした刹那、唇を強く重ねられ、そのままベッドに押し倒される。




 ——飛鳥くんに「私のこと抱けますか?」って、聞いたことがある。


 銀行勤務で男性と一度もお付き合いをしたことがなく、告白をしてみるも振られる一方で、どうせ恋愛ができないのなら人生で一度くらい遊んでみようと金曜日の会社帰り、バーに初めて入った。


そこでカウンターに座っている飛鳥くんと出会った。途中、綺麗な女性がお店に入ってきて飛鳥くんに話しかけていたが、彼が何かを返答した後、彼女は怒って帰ってしまった。


 その後、完全にお酒を注文するタイミングを見失った私に飛鳥くんが声をかけてくれたのが始まりだ。それからお店へ足を運ぶようになり、飛鳥くんと話すようになっていった。



「……飛鳥くん」


 私は飛鳥くんに手を伸ばし、頬に触れた。温かい、愛おしいと感じる。




——飛鳥ね、一度抱いた女はもう抱かない主義なんだよ。


 バーテンダーさんが言っていた。

 だから、これが最初で最後。私は思い出が欲しかった。


 飛鳥くんのピアスのような、私にはないものが欲しかった。



「俺がひとつキスしたら、ひとつ返してくれようとすんの、好き。健気」


 初めて胸の奥が締めつけられた。この柔らかさと甘さを含んだ声は私だけが知っているものじゃないんだ、って。



 その夜を最後に、バーへ行くのをやめた。


 朝目覚めて窓を開ける瞬間、通勤電車の扉が開く瞬間、窓口業務の椅子に座る瞬間、夕飯のお箸を握る瞬間、布団に入った瞬間——。


 いくつもの、その刹那の中に、飛鳥くんを入れ込んでしまう。


今日もあのバーにいるのかな、


女の子と話したかな、


私のことを思い出すことってあるのかな……そんなこと、ないか、


飛鳥くんが飲んでいたあのお酒はなんていう名前なんだろう、


瑠衣子って呼んでくれたあの瞬間は、きっと私だけのものだ、



「……思い出、だから」


 シャワーを浴びていたら、また、思い出しちゃった。


 辛いもなにも思い出だ。それ以上でもそれ以下でもなく、もうどうなることもない。


 でも、じゃあ、目が熱くて鼻の奥がツンてして、お湯に当たっているはずなのに体が微かに震えているのは、何故なんだろう。








 お風呂から出て、ぼうっとしていたのが悪かったのだろう。


 私は風邪をひいて、病院へ足を運んだ。名前を呼ばれて診察室に入る、と。



白田しろた——」


 先生が不意に唇を止めた。不思議に思っていると彼はカルテから顔を上げて。


「——瑠衣子、」


 いつもとは違う、前髪を分けて、薄暗い、まるで夢なのではないかと思うようなあの夜の世界ではなく、白色光の元、きっちりと白衣を纏っている飛鳥くんが目の前に座っている。



「……あの後、俺ずっとあの店で待ってたんだからな」


 飛鳥くんの、今にも泣き出してしまいそうな顔をして小さく息を吐き出し、ふわりと笑う顔を見たら、思い出になんてできないと、そう強く感じた。




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特別だ、と口にしなくても。 葉月 望未 @otohana

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