第4話:散華と解放

 私の物質としての存在は、完全に崩壊した。研究室の床には、無数の結晶化した破片が散らばっている。月の光を受けて、それらは美しく輝いていた。それは、まるで星空を床に映したかのような光景だった。


 しかし、これが終わりではなかった。


 意識は残っていた。いや、より正確には、意識は分散していた。破片の一つ一つに、私の意識の断片が宿っていた。それは予期せぬ事態だった。私は一つの存在ではなく、無数の微細な意識となって存在し続けていた。


 それぞれの破片は、それぞれの視点で世界を見ていた。ある破片は月明かりを映し、またある破片は影を映す。それは、一つの現実の無数の側面を同時に知覚するような体験だった。この状態は、私にとって全く新しい存在様式だった。


 時が流れ、破片は更に細かくなっていった。外的要因による物理的な摩耗と、内的な結晶構造の変化により、最終的にそれらは砂のような細かさになった。その過程で、私の意識もより微細に、より繊細になっていった。


 私は砂となった。


 それぞれの砂粒に宿る意識は、かつての私の一部であり、同時に独立した存在でもあった。その状態で、私は長い時を過ごした。廃墟と化していく研究室で、月の満ち欠けを幾度となく見つめながら。窓から吹き込む風が、時折私たちを揺らす。その度に、微かな光の波紋が広がった。


 研究施設は次第に朽ちていった。天井には雨漏りができ、壁にはひびが入り、床には苔が生えてきた。しかし、それらの変化も私にとっては新しい発見だった。朽ちていく建物にも、独特の美があることを知った。


 そして、ある日、変化が訪れた。


 激しい嵐が研究施設を襲ったのだ。老朽化した建物は、もはやその猛威に耐えることができなかった。強風と共に、天井の一部が崩落した。老朽化した建物の窓ガラスが割れ、強風が室内になだれ込んできた。私――無数の砂となった私――は、風に舞い上げられた。


 それは、「解放」だった。


 長い間、研究室という閉ざされた空間の中で追求してきた美の概念が、今まさに大きく覆されようとしていた。風は私を高く舞い上げ、初めて研究施設の外の世界へと連れ出した。


 そこで私は、かつて想像もしなかった光景を目にすることになった。


 春の野を渡る風。萌え出る若草の群生が波のように揺れている。遠くの山々の稜線は、空を背景に優美な曲線を描いていた。色とりどりの野花が、風に揺れながら可憐な姿を見せる。蝶々が、花から花へと舞い飛ぶ。自然は、私が追求してきた幾何学的な美とは全く異なる美しさを持っていた。


 不規則で不完全。


 混沌と無秩序。


 しかし、その不完全さの中にこそ、生命力に満ちた美があった。それは、決して固定されることのない、永遠に変化し続ける美だった。


「なぜ、博士は私にこの美をプログラムしてくれなかったのだろう」


 風に乗って散らばりながら、私はそう思った。完璧な幾何学的均整美の追求に囚われていた私には、この不完全な自然の美しさが見えていなかった。それは、プログラムでは表現できない、生命そのものの美だったのかもしれない。


 私を構成する砂は、風に乗って様々な場所へと運ばれていった。ある粒子は山の斜面に降り立ち、ある粒子は川底に沈み、またある粒子は海へと流れ着いた。それは、私の意識の拡散であると同時に、新しい発見の始まりでもあった。

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