原罪

秋野 公一

告白



 生前に重大な罪を犯した者は、ゲヘナ――燃え盛る地獄へ堕とされる。キリスト教の地獄に限らず、イスラム教のジャハンナム、仏教の無間地獄もまた、その類であるという。だが、それが罪の償いとなるのかはわからない。ただひとつ、私はこの場で自らの罪を告白しようと思う。


 私は長い歳月を、他人の幸福を自身の幸福として生きてきた。街を歩く夫婦の笑顔、隣人の出産の喜び、友人の成功――そうした他者の幸せを、自分のもののように感じ、それを糧に生きてきた。しかし、それは決して崇高なものではなかった。自己の葛藤や努力の末に手にした幸福ではなく、ただ傍観者として眺め、消費するだけの幸福だった。言わば、幸福の窃盗だったのだ。


 人々は「他人の幸せを喜べるのは素晴らしいことだ」と言うかもしれない。だが、ことはそう単純ではない。私は恥ずかしかった。何も行動せず、失うことを恐れ、傷つくことを避け続けた人間が、幸福を享受していいはずがない。労働の対価が賃金であるように、幸福もまた、挑戦と努力の果てに得られるべきものではないのか。挑戦なき者は、何も享受する資格などない――私はそう信じていた。


 若い頃、私も幸福を求め、挑戦したことがあった。高校生の頃、片想いの相手と隅田川の花火大会に行ったのを今でも覚えている。あの時、勇気を出して手を繋いでいたら、未来は変わっていたのだろうか。今でも彼女と一緒にいられたのだろうか。

 もしも、あの高校時代の彼女と結ばれていたなら、私の人生はもっと幸福だったに違いない。彼女ならば、若く、美しく、私のすべてを受け入れてくれたはずだ――そんな幻想にすがる自分が、なお一層、惨めに思えた。


 私は、幻想に惑わされ、他人の幸福ばかりを消費して生きてきた。自ら捨てたチャンスを拾い上げる勇気さえあれば、また恋愛に挑戦する機会さえあれば人生は違ったに違いない。かつて愛した彼女は『女』となり他人の所有物となってしまった。あの花火大会の、あの火花が地に落ちる瞬間こそ私の人生で最大の幸福であり、最悪の後悔だった。その後の窃盗の人生は恥いるばかりであり、この報いは受けなければならない。これまで何も幸せを掴めなかったことこそ、これこそが罰なのかもしれない。あるいは、死後に焼かれることこそが、その報いなのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

原罪 秋野 公一 @gjm21

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ