第15話 待ち合わせは久しぶりです。

 ――まぶたの裏に、やわらかな緑色の光がまだ残っている気がした。

 ぼんやりと目を開ける。カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の空気をやわらかく染めていた。

 天井を見上げたまま、昨夜のことが胸の奥で静かに蘇ってくる。

 契約の証。草原の夜。ヴェルトの声。

 あの温もりは――夢じゃ、ない。

 枕元のスマホに手を伸ばすと、画面の隅に小さな通知が光っていた。

 時刻は午前十時を少し回っている。思わず「やべ」と声が漏れる。休みだからといって寝すぎた。

 受信ボックスに、一通のメール。

 開いた瞬間、胸の奥がじわっと熱くなる。


『おやすみなさい、ユーマ。また、明日』


 ――昨夜、ヴェルトから届いたものだ。

 短い文なのに、文字の奥にやわらかい温度を感じる。

 目の奥がじんわりと熱くなった。

(……やっぱり、夢じゃなかった)

 その実感に、胸の中で何かが静かに溶けていく。

 スマホを胸の上に置き、もう一度天井を見上げる。

 そうしていると――新しい通知音が、小さく部屋に響いた。

 慌ててスマホを手に取る。

 差出人は――やっぱり、ヴェルト。


『おはようございます。よく眠れましたか?

 今日も来ますか? それならきちんと準備してから来てくださいね。

 ご飯を抜くとか、ダメですよ。

 昨日のリベンジをしましょう』


 読み進めるうちに、息を呑んだ。

(……こんな機能、あったっけ?)

 胸の奥で、小さな波紋が広がっていく。

 公式の告知なんて見た覚えはない。

 眉が自然と寄る。

 こんなこと、説明書きにもなかったはずだ。

 疑問が頭をかすめ、指先がわずかに止まる。

 スマホを握ったままベッドを抜け出し、机に向かってブラウザを開く。

 「NPC メール」「エルドレイズ・アルカディア メッセージ機能」――思いつく限りのワードで検索する。

 けれど、出てくるのは公式のアップデート情報や、プレイヤー同士の掲示板ばかり。

 どこにも「NPCがプレイヤーに直接メールを送ってくる」なんて話は載っていない。

(……やっぱり、公式機能じゃない?いや、もしかしたらヴェルトとのクエストをクリアしたから、とか)

 頭の中で疑問が渦を巻く。

 ふと、もう一度受信画面を開く。

 丁寧な文章。気遣うような言葉。

 定型文とは違う、体温のある文面。

 まるで、ずっと前から知っている友達から届いたみたいだ。

 胸の奥で、不思議な感情がじわじわと膨らんでいく。

 ゲームなのに、どこか現実の心をくすぐられる――そんな奇妙で楽しい感覚だ。

 だったら、今は細かいことは考えないでおこう。

 軽く息を吐き、簡単に返信を打つ。


『おはよう。……ちゃんと食べてから行くよ』


 送信を終えて立ち上がり、部屋のドアを開ける。

 静かな家の空気が迎えてくれた。

 廊下を進むと、リビングには誰もいない。

 ダイニングテーブルの上に、小さなメモ用紙が置かれていた。

 青いボールペンの走り書きで――


『休みの日だからって、あまりダラダラしないこと。ご飯は冷蔵庫に入れてあります。夕方には帰ります』


 声の調子まで想像できて、ちょっとだけ苦笑が漏れる。

 僕以外の家族は、休みの日でも外に出て誰かと会っている。

 友達と予定を詰めて、楽しそうに出かけていく姿は、きっと社交的な人の見本だ。

 昔は、そんな家族が少し羨ましいと思っていた。

 自分もあんなふうに誰かと予定を組んで、笑いながら出かけられたら――そう願ったこともある。

 けれど、その願いはいつしか胸の奥にしまい込むようになった。

 「無理だ」と思えば、余計な期待も失望もなくなる。

 そうして心に蓋をしてからは、静かな休日がただの『いつもの景色』になる。

 その景色の中で、家に残るのはいつも僕ひとりだ。

 ……いや、「残る」というより、「残らざるを得ない」に近い。

 出かける相手がいない。友達と遊ぶ予定なんて、何年も組んだことがない。

 ちょっと前までは「たまには友達と出かけたら?」なんて言われていたけど、僕が曖昧に笑ってごまかし続けていたら、最近はもう言われなくなった。

 たぶん、気を遣ってくれているんだろう。

 そういう気遣いが、ありがたいような、少し胸に刺さるような――そんな気分になる。

 でも、今日は違う。

 ヴェルトが待っている。

 そう思うと、自然と足が速くなった。

 冷蔵庫からオムライスを取り出し、レンジで温めてスプーンを動かす手にも力が入る。

 食べ終えて皿を洗い、部屋へ戻る途中でふと気づいた。

 ――これって、友達との待ち合わせみたいだ。

 ゲームだけど。相手はNPCだけど……。

 ほんの一瞬、胸の奥がくすぐったくなる。

 気づいた瞬間、口元に小さな笑みが浮かぶ。

 指先がヘッドセットに触れた瞬間、昨日の草原の風とヴェルトの声が一気によみがえった。

 まるで、放課後に友達が待っている場所へ走っていくみたいだ。

 ゲームなのに。相手はNPCなのに……胸が少し高鳴る。

 僕は迷いなくヘッドセットをかぶり、ログインを開始した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る