銀貨を沈めた娘と、泉に住む天使と悪霊の話

たけながなお

前編  祈りの銀貨



銀貨が水面に落ちた瞬間、空気が変わった。


 澄み切った泉の水が、どこまでも深く、底の見えない闇へと姿を変える。悪霊はそれをじっと見つめ、静かに笑った。


「また誰かが願いを投げたようだな。さて、次は誰の運命が狂うのか」


 その言葉に、天使は小さくため息をついた。


「おまえがそうやって楽しんでいるうちは、誰も本当の意味で幸せにはなれないだろう」


「幸せ? 天使よ、それが本当に存在するものだと信じているのか?」


 悪霊は肩をすくめ、泉のほとりに腰を下ろした。


 月光が水面に揺れ、風が静かに二人の間を通り抜ける。


「人間の願いなんてものはな、常に矛盾している。叶えたら叶えたで後悔する。叶わなければ苦しむ。それだけの話だ」


「それでも、願うことは人間の特権だ」


 天使は泉を見つめながら、言葉を続けた。


「だからこそ、この泉は存在する。ここに集まる人々が願いを託すたびに、少しでも幸せを感じられるのなら、それでいいのだ」


「本当にそう思うか?」


 悪霊は目を細めて天使を見た。その表情には嘲りとも困惑ともつかない感情が浮かんでいた。


 天使は何も答えず、ただ銀貨が沈んでいく泉の底を見つめ続けていた。




 ◇ ◇ ◇




 一枚のコインが、沈んでゆく。


 鈍色にくすんだ銀のコイン。1デナリウス銀貨である。銀貨は水中を漂いつつ、ゆっくり、ゆっくり、泉へ沈んでゆく。


 その水面を、息を詰めて見つめている娘がいる。その姿は、見るからにみすぼらしい。服にはつぎが入っているし、髪はぼさぼさのまま四方に散っている。足などは足衣サンダルも買えないのか素足であった。


 今、水底に沈みつつある1デナリウス銀貨は、彼女の最後の財産だった。それを彼女は、じいっと目を凝らして見ているのであった。


 しかし、彼女の顔が真剣なのは自分の最後の財産を泉に落としてしまったためではない。なぜなら彼女は、自ら進んで最後の1デナリウス銀貨を泉に投げ入れたのだから。


 1デナリウスあれば、生活の費えがかさむこの帝都でも3日は優に食べられよう。痩せこけた彼女にとって、どれほど大事な食糧になることか。しかし、彼女はそうしなかった。パンのひと切れも買うことなく銀貨を泉に投げ入れた。


 なぜか。


 それは、ひとつの伝説による。


 ウィミナーリスの丘のエウロの泉。──そこに1デナリウス投げ入れれば、どんな願いも叶う。娘はその言い伝えにすがったのだ。切なる想いで、銀貨を投げ入れて。


 そんな彼女の、願いは何なのか。


 彼女は今まさしく、その願いを呟いているところだった。


「お願い、神さま。いえ、だれだっていいわ。あたしの足を治して。あたし踊らなくっちゃいけないの。どうしても、どうしても、踊らなくっちゃいけないの……」


 ウィミナーリスの丘の伝説の泉。覗き込めば澄み渡り、人の瞳を吸い込むその泉にも、やはり底はあった。


 今そこに、花びらのように一枚の銀貨が降ってきた。ひらり、ひらり、そんな音さえ聞こえそうな沈降を、受け止めた手があった。


 黒い衣の青年──に見えるが、深い水底に有り続ける彼は、むろん人間ではない。


「誰でもいいか。それならばおれが叶えてやろうか、天使キピド


「冗談を。それはおまえの仕事ではあるまいさ、悪霊エプムサよ」


 彼の手から1デナリウス銀貨をひったくったのは白い衣の青年。──もちろんこちらも人ではない。


 彼らは互いに、天使、悪霊と呼び合っているが、これは単なる愛称である。実際に天使や悪霊であるわけではない。彼らはこの泉に住む精霊であった。


 彼らこそが、1デナリウスを受け取って、この街の市民の願いを叶えていた張本人なのである。


 彼らが互いを、天使、悪霊、と呼ぶゆえんも、ここにあった。


 彼らは人々の願いをふたつに分担していた。「正」の願い、すなわち、よりよくなりたい、という願いは天使が、だれかを貶めたい、傷つけたい、といった願いは「悪霊」が引き受けるルールになっていた。


 もっともこの二人が、すべての願いを叶えるかといえば、そうではない。ふたりにも選択権があった。叶えたくない願いは、叶えなくてもよい。


 天使はよほどわがままな願いや、手にあまりすぎる願いは引き受けなかった。悪霊はよほど気分のいい時でないと願いを叶えてやったりはしなかった。


 それが、知る人ぞ知るこの泉の「伝説」を保つ適度なバランスとなっていた。


「今度も当然、叶えてやるんだろう。この都は、おまえの愛で溢れている。今の皇帝カエサルもなかなかに慈悲深いといううわさだが、お前にはおよぶまいよ」


 悪霊は皮肉まじりに言った。


 しかし天使は、そんな皮肉など聞いていないようだった。天使はなんども手に1デナリウス銀貨を馴染ませ、なにやら想いに沈んでいる。と、ふいに悪霊にその銀貨を放ってよこした。


「あの娘は、相当にかわいそうな子らしいぞ。両親は、いない。――引き取られた親類にも煙たがられて、十三になって、その家を出て、踊りで身を立て始めたらしいが、稽古に身を入れすぎて、その足を駄目にしてしまった。もう帰るところがないらしい」


 天使はそう、悪霊に説明したが、そんなことは聞かなくてもわかっていた。二人は、願い主が投げ込んだ銀貨から、その全てを知ることができるのだった。


 だから悪霊が、ふいと肩をすくめてみせたのは、すべての事情をわかった上でのことだった。


「ありきたりな話ではないか。この街どころか帝国の広大な属州もひっくるめて、あちこちにごろごろ転がっている類のな。でも、お前は叶えてやるんだろうさ。お前はおれと違って、慈悲深い天使なのだから」


「そうさ、叶えてやろう。このままでは、あの娘はかわいそうだ」


 トゲだらけの言葉も天使には効かない。悪霊は強い目で天使を睨んだ。


 やがて天使は、水面目指して浮かび上がっていった。悪霊はひとりになると、ひとしきり毒づいた。


 悪霊は、天使を好もしく思っていなかった。


 その一挙手一投足がかんに触った。しかもその嫌悪は天使のなかにではなく、自身の中に見出された。天使そのものが嫌いというよりも、天使を見ているときに巻き起こる、どす黒い感情が嫌いなのだ。


 天使に願いを叶えてもらった者は、必ずと言っていいほど感謝の言葉を述べに、この泉に再び足を運ぶ。しかし悪霊が願いを叶えた者は、そうではない。


 ほとんどが、おのれのした願いのおそろしさに震えあがって、泉どころか、帝都から出て行ってしまう者さえある。そして願い主は、おそろしい願いをした自分自身と、それを叶えたものを恨むのだ。


「が、そういう連中は、まだ可愛げがある」


 悪霊は、ひとりごちた。


 なかには、味をしめ、さらなる銀貨を投げ込みにくる者もいる。


 むろん、願うのは「負」の願い。そんな願いのほとんどは、悪霊は無視を決め込むことにしていたが、そうなると願い主たちは、自分の願いを再び叶えない「神」へ、呪いの言葉を吐き捨ててゆくのが常だった。


 平和そうな、帝都の風景の裏には、倦怠感や閉塞感、「自分はこんなはずではなかった」という苛立ちの念が渦巻き続けている。


 たった一つのきっかけで暴走する衝動、これが正義と信じて疑わない感覚。異論が出ても数で押し流し、津波のように膨れあがる世論という名の衆愚──年月を経るごとに、ますます、この帝都に満ち満ちてゆくようだった。


 どれだけ時が経とうとも、すべての人間の中に存在している闇は、決して晴れることはないのだろう。


「おまけに長い平和が、帝国の民の性根を救いようもなく腐らせている。それを受け止めるおれにくらべれば、天使の仕事のなんと気楽であるものか」


 悪霊はそううそぶいてはみるが、悪霊は天使に嫉妬していた。そして、悪霊は自分の嫉妬を知っていた。そして、その自分の感情をひどく嫌った。


 悪霊は、人の感謝とか尊敬とか、そんなものを求めるのは、あさましいことだと思っていたからである。


 悪霊は、天使から受け取った銀貨を指でいじくった。そこからは、娘の切ない想いが伝わってくる。


 悪霊は、そこから娘の名を知った。そして以前、彼女がどんなに美しく踊ったかを知った。観客の拍手のあとに浮かべる笑顔を知った。


 なるほど、これでは天使の奴は放っておけないだろうと、悪霊は思った。


 銀貨に目を凝らすと、今度は風景が浮かび上がる。泉の前で、依然祈り続ける娘がいる。娘は右足をかばって立っていた。そちらが悪い足なのだろう。


 ふ、と白い影が悪霊の視界を遮った。天使だった。彼は娘の右足にそっと手を触れる。人間の目には精霊は見えない。娘は天使の存在に気づかない。だからだろう、驚いたように周囲を見回した。


 一瞬にして、自分の足から痛みが消えたことに驚いて、


「神さま……?」


 細い声が、聞こえた。細く、震える声が。彼女は泣いていた。


「ありがとう、あたし、あたし、これでまた……」


 踊れる――、そう言って、彼女は泣いた。涙は泉に落ちて、波紋が広がった。それはそのまま娘の感謝の心だった。


 悪霊は、また自分の嫌う感情が頭をもたげてきていることに気がついた。気がついたとたん掌中の銀貨を、パキリと二つに割った。


 そうして、水底のどこかへ、放ってしまった。






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