見知らぬ手【短編】

冬野ゆな

第1話

 子供の頃、間違って知らない人の手を握ってしまった経験がないだろうか。

 例えば母だと思って飛びついたら違う人だった、みたいな経験だ。

 私にもある。

 映画やアニメのように――親の手を引っ張ってずんずんと歩くのをやってみたかったのだ。旅行先で、手を握って引っ張った。絶対に父親の手であると、私は疑わなかった。ところが、気がつけば見知らぬ男の子の手を引っ張っていたのだ。何年経っても恥ずかしい思い出だった。同じ年頃の男の子だったのがよけいに恥ずかしい。

 とにかくそういう経験があったから、私はその後、長いこと誰かと手を繋ぐことをしなかった。

 もともと敏感肌なのもあったけれど、またあんな風に違う人の手を引っ張ってしまってはたまらない。

 幸いというべきか、私は恋人もいないまま大学を卒業してしまったので手を繋ぐ機会はほとんど無かった。


 それでも――嫌悪というほどではなかった。

 ただの恥ずかしい思い出だった。男の子の手の感触なんて覚えていなかったし、どうして父親の手と間違えたのかすら忘れてしまっていた。

 あの感触が、再び降りかかるまでは。


 それは最初、横断歩道で信号待ちをしている時に起きた。自宅のマンションに近い、見通しの良い交差点。

「ママぁ!」

 そんな甲高い声とともに、ぎゅっと手を握られた。

 振り返るのと同時に、あっ、という声がした。黄色い帽子にランドセルの女の子が慌てたように手を離して、恥ずかしそうに走り去っていった。母親と間違えたのだ。私は気にしないようにしたが、その小さくて温かく、それでいて自分とは違う皮膚の感触が妙にむずがゆかった。湿り気のある、柔らかくも細かな皺、その隙間から立ち上った汗がいまだ自分に貼り付いてくるようだった。他人の子供ということもあっただろう。私は自分の手を小さく掻いた。そこについた微細な細菌や皮脂をこそげ落とすように。

 そのなんとも言えない感触は私を蝕んだ。


 次は、バスに乗っている時だった。

 停留所で停車し、入り口から何人か乗ってきた。三人目に乗ってきた老婆が、不意に私の前でバランスを崩した。

「あっ……」

 思わず手を差し伸べた。瞬間、彼女は私の手を握りしめた。

 ぞわりとした。老婆のしわくちゃの手の感触。乾ききって、骨と皮だけの、ごつごつとした感触。

「だ――大丈夫ですか」

「すみませんねぇ」

「ええ……お気をつけて」

 手を離されても、まだその感触が残っていた。彼女は頭を下げて、空いた席を探した。「ここどうぞ」と誰かが席を替わる。彼女が離れてもなお、乾ききった、それでいてこっちまで巻き込まれそうな伸びきった薄い皮の感触が取れなかった。私はバスの手すりに掴まりながら、その感触をどうにか拭い取ろうとしていた。


 それは自分の恥ずかしい思い出とは関係なく、私を蝕んでいった。

 これまでずっと、恥ずかしい思い出を想起するからという理由で手を繋ぐのをなんとなく避けてきた。

 だけど違ったのだ。私はもともと、人と手を繋ぐのが苦手だったのかもしれない。あるいは、他人の手と無縁な生活を続けるうちにそうなってしまったのかも。

 だが、こんなことを人に言えるだろうか。

 誰かと手を握ることは、本来――もっと「いいこと」のはずだ。親や子供と、あるいは友人や恋人と。それなのに、これほどまでに気味が悪いと感じてしまっている。ひどく気持ちの悪いことだと。小さな子供の肉塊のような感触。老人の骨の近い皮の感触。それがこんなにも私を悩ませるのだ。


 いちばん最悪だったのは、仕事で握手をした時だった。

 取引先の若い新人社員の男性と、その上司である中年の女性。

 女性はにこやかに私と握手をしたが、その途端に、ひっ、と小さく悲鳴が出かけた。私の引きつった顔を見たからなのか、先方の彼女は軽く手を握ったあと、すぐに手を引っ込めた。新人の男も同じだった。そのあたりから私の記憶は薄れている。覚えているのは、何度も手の感触を拭い落とそうとしていたことだけ。何度か席を外して、トイレでしつこいくらいに手を洗った。自分の皮が禿げそうなほどに。それでも、女の少し生温い手と、男の冷たく角張った手の感触だけをいつまでも引きずっていた。

 後々、私はこの取引から外された。

 これはもう、たまらない。

 いくらなんでもこれは――仕事に支障が出ている。

 さすがに握手ができなかったからではないと思う。その後の私の反応が問題だったのだろう。私は任されていた仕事をいくつか他の人に回すこととなった。この手の感触が。たかだか握手ができないというただそれだけのことで。

 なんとかしなくてはいけない。これはいったいどうすればいいのか。皮膚科か、それとも精神科か。


 そこからだ。

 そこからだった。

 誰かの手の感触が、自分に蓄積していくのに気付いたのは。

 生温い肉塊が私の手を侵食するように、感触が蓄積していく。常に手を握られているような、じっとりとした汗と自分のものでない皮膚の感触。それはいまや鮮明になりつつあった。恥ずかしい思い出の中にさえ、気がつかなかった不快感が現れるようになっていく。

 ――そんなはずない。あのときは、そんなことは。

 あり得なかったはずの感触。小さな子供の時の失敗は、もはや茫洋とした記憶になっている。それなのに、男の子の手を握ったときの、自分のものではない薄気味悪い感触がはっきりとこの手にある。そんなものは無かった。無かったはずだ。なのに、異物を掴んだような自分の手を見ていると、胃の奥からこみあげてくるものがある。

「ひっ……」

 トイレに向かい、何度も手を洗う。

 自分の皮膚ごと剥ぎ取るほどに、手を洗う。

 見知らぬ手が、私を蝕んでいく。

 ――精神科。精神科に行かないと。

 そう自分に言い聞かせることで、まだまともな部分はあるのだと、まだ正気を保っているのだと自分を奮い立たせる。


 私の手はすっかり老け込んでいた。

 水分不足による皮膚の乾燥と、そこへ無理矢理に石鹸と塩を塗り込んだことによるダメージで、私の手は見るも無惨にボロボロになっていった。アレルギーどころではない。包帯を巻こうとして、その包帯の感触すら他人の皮膚を巻いているように感じた。このままでは会社にも行けない。カバンのひもでさえ一秒たりとも持っていられない。コートのポケットに入れることもできなくなっていた。

 なにがストレスなのかさえもわからない。

 手を隠して道を歩く。すれ違う人々が私の手を見ると、少しぎょっとしたような、驚いたような目をする。一斉に目を逸らし、私から逃げるように足早に距離を取る。

 銀行の前を通り過ぎる。磨りガラスに映る自分へ視線を向けて、私はようやく気付いた。


 そこには私の手を握る無数の手があった。

 でももう、自分の手がどれだったのかさえわからなくなっていた。

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