鏡の前の電気椅子

小野ニシン

監禁編

 健治が目を開くと、自分と同じ見た目の人物が正面に見えた。目の前の人物は、赤い血で汚れたワイシャツを乱れたまま身にまとい、椅子に固定されて座っている。背もたれの高い質素な固い椅子と傷だらけの男は、おでこ、首、両手首、両足首の六箇所で鈍色の無機質な金属製のバンドによって結合されている。男の口にはグレーのガムテープが無造作に貼られていた。顔には赤い腫れや切り傷が無数にできている。

 男は身もだえして何かしらの行動を起こそうとしたが、頭も腕も足も微動だにしなかった。身動きできないことを悟った健治は、静止して目を大きく見開いた。眼球を動かし、下にある自分の身体を見る。目の前に映っていたのと同じく、自らの身体はボロボロだった。もう一度腕に力を入れてみたが、手首が動くことはなく、情けなく指が持ち上がるばかりだった。

 健治がいる部屋は、蛍光灯の冷たい光で照らされて殺伐としていた。壁はコンクリートがむき出しで、自分が座っている椅子以外には物が見当たらない。右手側の壁に窓が一つあるが、不透明のビニールで覆われている。部屋の広さと自分が靴を履いたままであることを考えると、おそらく物置として建てられた部屋であるようだった。コンクリートに囲まれたじめっとした空間にぽつりと取り残された健治は、無性にいたたまれなくなり、意味がないとわかっていても再び身体を激しくよじらせた。

 そのとき、右側の壁から錆びた金属が擦れる音がした。続いて、静かな足音が響く。健治は扉のある方向に振り返ろうとした。しかし、頭が固定されていたので、侵入者の姿を見ることはできなかった。

 健治は諦めて正面を見つめた。そこには先ほどと同じ左右反転した自分の姿に加えて、白い覆面を頭の上から被った男の姿があった。覆面は耳まですっぽり覆っており、目の部分の穴もわずかしか開いていない。服は大きめのサイズの黒の上下のジャージを着ている。左脇にはタブレット端末を挟んでいた。無駄のない動きでゆっくりと健治の椅子の後ろに近づいてくる。

 真後ろから歩いてきた覆面の男は、健治のすぐ後ろに着いた。すると、健治に覆いかぶさるようにして右手を伸ばすと、口元のガムテープの端を掴んだ。そのまま一気にガムテープを剥がす。健治の顔面に激痛が走った。

 健治は咄嗟に「助けてくれ!」と大声で叫んだ。だが、覆面の男は全く動揺しなかった。じっと健治と同じ正面を見据えている。

 監禁している男が叫び出すことは完全に予測していたのだろう。左脇からタブレット端末を取り出すと何かを入力し始めた。数秒して健治の前に差し出されたタブレットには、大きなゴシック体で短い文章が書かれていた。


   『叫んでも誰も助けに来ない』


 覆面の男があまりにも動じないのを見て、そんなところだろうと悟っていた健治は、無駄な叫び声を出すのをやめた。代わりに低く激しい口調で言った。

「何が目的なんだ」

 覆面の男は再びタブレット端末に文章を入力した。 


   『悔い改めろ』


 健治には要求されていることの意味がわからなかった。正面に映っている覆面の男を顔を見つめて言う。

「何を悔い改めろって言うんだ。はっきり言えよ」

 すると、白い覆面の男は椅子の背後にしゃがみ込み、健治の視界から消えた。ゴソゴソと細かい物をいじっているような音がする。

 健治にとってこれほど恐ろしい瞬間はなかった。何をされようとしているのか、まったく想像がつかなかった。

 しばらくして音がやむと、カチリと小さな音がした。瞬く間に健治の身体に感じたことのない激しい刺激が走った。椅子から飛び上がりそうになったが、固定されているせいで不可能だった。刺激は一秒ほどで止まったが、死を意識するには十分すぎるほどの時間だった。

 白い覆面の男は再び立ち上がった。痛みが収まってからしばらくして、ようやく健治は先ほどの刺激が電流によるものだと理解できた。椅子の後ろにはバッテリーが設置されており、覆面の男はそれを椅子に繋いで電源を入れたのだろう。

 なるほど、これは電気椅子というわけだ。アメリカの映画で観たことがある。とするなら、正面の鏡はマジックミラーになっているのだろう。その映画では、電気椅子の部屋の正面には執行立会人がいる部屋があり、両者はマジックミラーで隔てられていた。死刑囚から立会人の姿を見ることはできないが、立会人からは死刑囚の最期の姿を見ることができる。

「鏡の向こうには誰がいるんだ?」

 健治は訊いた。先ほどまでの発言より理性的な口調だった。

 だが、覆面の男は答えを与えず、しゃがみこむと二度目の電流を流した。健治は苦痛に顔を歪めた。電流は先ほどよりも強くなっていた。

 健治は死が近づいていることを実感した。回避する方法はあるのだろうか。喋る度に電流をかけられるのならば、早く相手が求めていることを言わなければいけない。あるいは身の潔白を証明しなければいけなかった。

 この男いわく、健治には悔い改めなければいけないことがあるらしい。しかし、彼自身はは何一つ悔い改めなければいけないことに心当たりがなかった。

 何を悔い改めろというのか。もう一度同じ質問をしそうになったが、寸前で健治は押しとどめた。同じ質問をしたら同じ返答、すなわち電流が待ち受けているのは明らかだった。

 健治は別の質問を捻り出した。

「悔い改めろと言われても、誰に対して悔い改めなければいけないのかがわからないと意味がないだろう。お前だって自分じゃない奴に謝られても知ったことじゃないよな。だから、教えてくれ。お前は誰なんだ」

 万に一つの可能性に賭けてみた。わざわざ覆面をしているのだからこの男が正体を明かしたがっていないのは当然だった。それでも健治の質問には十分な道理が通っている。もしかしたら素直に答えてくれるかもしれない。

 覆面の男は立ったまま動かなかった。駄目だったか。健治がそう思い始めたとき、男はズボンの後ろのポケットに手を伸ばすと、自分が被っているのと同じ白い覆面を取り出した。二つ目の覆面。一体、何のために?

 考える間もなく、男は新たな覆面を乱暴に健治に被せた。目の前には、同じ白い覆面を被った二人の男が映っていた。一人は椅子に固定されて座り、もう一人は直立している。

 椅子の後ろに立っている男は急にしゃがみ込んだ。三回目だ。健治は全身に力を入れて目を閉じた。やはり駄目だった。走馬灯が駆け巡り始めそうだった。

 ところが、電流は流れてこなかった。健治が目を開くと、白い覆面を取った男の姿が見えた。その顔を見た瞬間、健治は混乱の渦に落ち込んだ。

 なぜだ。

 顔さえわかれば言うべき言葉も見つかると思っていた。だが、そうではなかった。見覚えはある顔だった。だが、親しい人物ではない。覆面が外された瞬間、発するべき言葉は闇の中に吸い込まれていった。

 健治はようやく彼の名前を思い出した。大原裕二郎。同じ中学校に通っていた。だから名前は知っているが、ただそれだけだった。同じクラスになったこともなければ話したこともない。そこそこ勉強ができる奴と聞いていたから、いずれはそれなりの企業に入って真面目に働くのだろうと思った記憶が微かにある。その程度だった。

 それなのに今は自分を電気椅子にかけている。

 数秒間、素顔を見せた男は、またしてもしゃがみ込んだ。

 待て!

 健治の頭が再び動き始めた。この男が誰にしろ、覆面を取って俺に顔を見せたということは、もう自分を生かしておくつもりがないのではないだろうか。

 その結論に達した瞬間、健治の全身に電流が走った。電流はなかなか止まらなかった。健治の意識が続く間、電流は流れ続けた。

 しばらくして男が電流を切ると、健治の動きはピタリと止まった。最後の数秒は、健治の意思ではなく電流によって体が強制的に動かされていた。健治の切れた唇からは一筋の涎だけが滴り落ちていた。

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