ラブコメ(ラブ抜き)【エタった、2026春~改稿予定】

真鈴満鶴

第1話 雨宿り? 構わないが。

 排水溝が雨水を食い散らかしている。車は前方の落水をイルミネーションのように映し出し、私の靴と排水溝を叱りながら通っていく。空虚な考え事をしながらの帰路は、湿気た靴下の所為もあってか長々と感じられた。

 その果てに、彼女は倒れていた。より正確に言うのであれば、雨音を立てる錆びた鉄階段の下に座り込んでいたのだ。

 想起されるものがある。大きな公園などで見られる展延された滝のような噴水――よりも遥かに乱雑な落水はどこか刺々しいヴェールを成している。

 夜の暗がりの中でその眼が見えた。その視線はすぐに水に搔き切られてしまう。彼女は捨て猫のようであった。あるいは世捨て人にも見えた。何にせよ、昏い孤独が彼女を覆っていた。もう眼前で消えてしまう幽霊のように思えて、仕方がなかった。


 彼女には居場所が必要だ。


 そう思って彼女の手を引っ張った。彼女の手の確かな温度を覚えているわけではないが、雨よりはずっと熱を持っていた。春の夜の微妙な冷たさに包まれていた私の手が驚いている。この階段のカンカンと足音を増幅するのには慣れていたが、それが二人分であるから、雨に負けず大きな音を鳴らしている。鍵を持つ手が濡れて、ドアを開けるまでに肩の辺りが濡れた。

 それは大したことではなかった。

 玄関のタイルの網目を蝕みながら、水溜りは泥と塵を浮かべる。その上に四本の脚が所狭しと立っている。それらはしばらく静止し、そのうちに水は全てのタイルを侵略した。


「シャワー浴びなよ」

「……どうも」


 彼女の声の響きから迷いが伝わる。彼女からしてみれば私は誘拐犯も同然なのだから、全く当然のことである。しかし彼女が一切抵抗の素振りを見せないのはなぜだろうか。


「衣類やタオルは俺のがあるが、嫌ならすぐに言ってくれ」


 暖色の照明の下、虚ろな眼だけが微かに動く。返事は消え入りそうな声で、


「ありがとうございます」


 夜を切り取ったような黒く長い髪から、雨が室内にざあざあと降っている。背中には水色のワンピースがぴたりと張り付き、肩甲骨の線を浮き彫りにしている。


「ここ、君が上がるまでには置いておくから。ゆっくり温まって」


 彼女が爪先立ちで歩いていく。さて、そう言ってみたはいいものの、実際は彼女に合う服が見つからない。否、判断がつかない。ワイシャツとジーンズで良いだろうか。シャツは丁度新品があったはずだ。……不足しかない。まあ、宿主として最大限のホスピタリティを尽くさねばならない。

 壁越しに水が打ち付けられる。今この家を包んでいるのは、雨でなくシャワーの音である。妙な気持ちを抱いた。一人暮らしに多少慣れている身からすれば、家に他人が居るという事実だけで落ち着こうとも落ち着けない。そういう緊張とはまた別の、どこか興味めいたものも薄っすらと心に根を張っていく。

 彼女に足るわけがない二枚の布とタオルをきっちりと畳んで、洗濯機の上に置く。食事は要るだろうか。家主として、という単調な後付けの理由で自分を騙す。食事を出したい。

 冷蔵庫を上から順に開けていく。丁度豆腐があったので味噌汁を急いで作る。わかめを戻し、鍋に張られた水に細かい泡がふつふつと現れるのを眺める。

 すると、風呂場のドアのがらがらと低い音が壁を伝わってくる。


「ドライヤーは洗面台の下の棚ね」

「ごめんね、私の家にあるものに限界はあるからそれで我慢してくれ」


 壁越しの彼女には少々不便をかけてしまうことになるな。しかし、急な訪問客、それも異性に対してろくにできることもないのだ。最も、訪問させた、と言うほうが適切だが。

 切り分けた豆腐たちを鍋の中に入れ――


「あの」


 振り返るとすぐ目の前にワイシャツを着た美少女が立っている。文字通り、美少女。あまりにも異質で、今にもこの部屋は音を立てて崩れてしまいそうだ。


「熱っ! 熱い……」

「大丈夫ですか!?」

「大丈夫、大丈夫、問題ない」


 大丈夫じゃない。すぐに氷を一粒取っては左手に握る。


「それで、何かな?」

「ごめんなさい、こんなにして頂いて」

「ああ、それこそ構わない。すぐに味噌汁が出来るから、どうかな?」

「本当に、ありがとうございます」


 左手が痒い。どくどくと融けた先から冷水が滴り落ちる。彼女の居心地が悪そうに私を見るのは居た堪れない。


「馬鹿だねえ、私は。きっと雨で手が冷えちゃったんだよ」

「手伝います」


 正直なところ、この他人との接し方を掴みあぐねていた。がそれでも、最初は断ろうと思った。多少なりとも人として生きているから、この流浪人に世話を受けることを躊躇う程度には良識を今までに得てきた。


「お客さんにそんなことはさせられないよ」


 こんな厚意を受け取る資格はない、できることはやらせてくれと、彼女は語気を強めながら、しかし怖気付いたかのように言う。返す言葉は、全て彼女を傷付けてしまう気がした。何も言えない。

 そうして彼女は私の隣に立つ。ああ、心臓に悪い。視界の隅に映る一挙手一投足が押し並べて緊張を誘う。世界一の芸術を盗んだ怪盗の気分であった。きっと畏怖とか猜疑とか、あまつさえ罪悪の心も持ったかと思う。名状しがたい不釣り合い。この部屋の質素、平静は要素の一つ一つの微妙な均衡によって保たれていた。それが今や、ただ一人が大きな引力を以て崩してしまった。

 いやに長い三分間だった。彼女が話し掛けてこなかったことに感謝した。私は惨めな応答しかできないガラクタに成り果てていたのだから。


「かなり質素なものだが、食べないよりはましだと思う」


 彼女は小さく顔を傾け、


「いただきます」


 一応白米も用意したが、一人の食事にしてはかなり量が少ない。スーパーで惣菜でも買ってくるべきだった。家主である私も満足できる晩餐ではなかった。


「もっと食べるかな?」

「いえ、今夜は事足りると思います。何から何まで、本当にありがとうございます」


 本当に礼儀正しい人だ。彼女の事情こそ知らないが、逆風の中でも自身の品格を保っていることは、きっと不断の努力の賜物であった。とても、私には無理だ。


「いやいや、ああ、そうだ、俺は一時間ほど後にはもう寝てしまっているだろうから、私の確認を取らずに帰っても構わないよ」


 彼女は困惑した顔でこちらを見つめる。口元へ動かす箸も止まっている。


「はい?」

「貴方の旅路に良き未来があるといいね」


 本心だ。誰だって雨曝しで路傍に斃れることがあってはならない。


「……ええ」

「じゃあ、さよなら」




 窓の外から烏の鳴く声が聞こえる。彼らの自由の歌は、好きだ。これほどまでによく眠れたのは何ヶ月ぶりだろうか。やはり人助けをしたのが効いたのだろうか? 

 さて、今日も憂鬱な学校生活だ。上体をゆっくりと起こす――視界に飛び込んできたのはそこにあるはずのないものだった。部屋の隅の床で静かに眠っている彼女は、膝を折り曲げ、両腕は何かに祈りを捧げているように見える。髪は重力に負け左肩に向かい、窓から差す静かな日光が流線を描いている。


 彼女は正気なのだろうか。


 一瞬そう思ったが、考え直せば夜に一人で歩くリスクを考慮していなかったことを思い出す。全く、私は浅慮な人間である。寝具くらい用意すればよかったと反省する。

 歯を磨く、顔を洗う、髪を梳く、彼女を起こさないように気を遣いながらも、ルーティンを一つ一つ済ましていく。なぜだか分からないが、彼女が飼い猫かのように思えた。ちょっと口元が緩んだので旧国名を脳内で羅列。大隅薩摩日向豊前豊後……

 バナナとヨーグルト、これが私の完璧な朝食だ。肉やらがないのを気にする人がいるだろうが、その分野にあまり詳しくない私としては、きっと昼と夜とで補うので大丈夫だろうと、そう信じている。そうして朝の支度を終え、学校に向かうのであるが、今日はいつもと違って、書き置きを残すという一作業が挟まった。だがそれだけだ。


「行ってきます」


 これは玄関横の観葉植物に対する。




『朝食を用意できなくてすまない。冷蔵庫から好きなものを取って食べてほしい。私はバナナとヨーグルトだった。合鍵を置いておくから出た後にポストに投げてくれ。貴方に良い未来がありますように。』


〈・「私のことを野生動物か何かだと思っているのかな」


 見れば見るほど質素という単語が当て嵌まる朝のリビングルームで、少女はひっそりと呟く。曇りガラスから差す光は、小さな観葉植物を撫でていた。(綺麗な文字)〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る