ストレンジテトラ

tsubori

わたしの仕事編

01. 千載一遇

◇◇(1)◇◇


「あの、もしかして 当たり屋さん ですか?」


口から飛び出た自分の言葉にわたし自身驚いた。


いつの間にか身に沁みついた悪癖なんです。

とでも言い訳しようかな。



早起きは三文の徳、なんて やっぱり嘘だ。




        ✳✳✳✳ 




部屋に大音量が響き渡る前に目が覚めた。


1秒前は夢の中にいたのに3秒で忘れる。

だいたいいつもそうだ。


枕元の目覚まし時計の音を先んじて止める。

鯨の形の電波時計は7才のときにサンタクロースに貰ったものだ。


まだ5時。



…どうする?…



半目のまま自分に問いかけると、意外にもわたしの身体はゆっくりとその身を起こした。


カーテンを開けて朝の空気を吸い込む。

窓に滴る3月の雫に「おはよう」なんて微笑んでみる。

そんなのは朝ドラの主人公の話であって、わたしの生きる世界とは無縁も無縁。


椅子に垂れ下がったしわくちゃの灰色のパーカーを羽織った。

朝を恨むような目つきで洗面所へと向かう。

足の裏が冷たい。

やっぱりまだ寝てればよかったかな。


海沿いの一軒家は寒い。家賃とロケーションを優先したつもりなのだけれど、春先にこうも冷えるとは思わなかった。



インスタントのコーヒーを淹れていつもの如く食パンをそのまま口に押し込む。

寝起きの脳味噌にネットニュースを垂れ流す。

きっと30分後には何を読んだかも忘れてるだろう。


まだ朝日も出ていないので肌寒いけど、どうやら冬は終わったらしい。

今日は春分の日だと、確かさっき脳味噌に垂れ流した。



寝巻きからTシャツとジーンズに着替え

一度脱いだパーカーを再度羽織る。


「音季はもう社会人なんだから、少しは大人の女性らしくしなさい」


と先日母に言われた通り、鏡に映るわたしはキャリアウーマンの″キャ″の字もない。

跳ねた短い髪を水で押し付け、誰にも教わらなかったお化粧を適当に済ませる。


思うに大人だからしっかりできるなんて幻想だ。

わたしは早起きして朝食も食べた。

それだけで社会的には"超"が付く優等生だ。偉すぎる。


ふと時計を見ると時刻は5時30分。


どうする?

ぼんやりと窓から見える3月の朝に語りかける。


ねぇ、春分の日。

お前ならどうしてほしい。

二度寝するも外に出るも、わたしの自由だ。



お皿とマグカップを台所に運んで、リュックを背負う。

祝日だかなんだか知らないけど、わたしは行くからね、と勝ち誇るようにスニーカーを履く。


国民の祝日とは言っても、国民みんなが休日なわけではない。

飲食店もコンビニもパチンコ屋も、今日も誰かが「いらっしゃいませ」の生贄いけにえとなり、こうべを垂れるのだ。






◇◇(2)◇◇


草木が本格的な春の到来を告げる。

はずもなく、3月の早朝の潮風は真冬のようだ。


暦の定めか天文学的なこじつけなのか知らないが、春分やら秋分やら常に気が早すぎる。


今日から春服に着替える人なんていないだろう。

おそらくみんなが毎年思っているんだろうけど、祝日という大義名分には誰も逆らわない。


海沿いの借家を出て歩き慣れた道を進む。

時刻は5時40分。

1時間早く家を出ただけで通りは全然違う表情を見せる。


一人で散歩をする犬(首輪してるから脱走かな)。

開店前のパン屋の匂い。

名前の知らない草花に光る水滴。


まるで消灯したような薄黄色の月が

海面を照らす朝日からひっそりと逃げていく。



会社まであと約50メートル。

いつもの通勤路の曲がり角で事件は起きた。


帽子を被った30代くらいの男がわたしにぶつかってきたのだ。


咄嗟に避けようとしたが、男はスマホを覗き込んだままわたしをちらりと横目で確認し、わざとらしく左肩をぶつけて、そして派手に転んだ。


その拍子に男の持っていたスマートフォンがぽーんと宙を舞う。 


『食パンを咥えていなくてよかった』


などとわたしが思っている間に、男のスマホは割れた画面の液晶をキラキラ飛ばしながら地面を跳ねた。

 

『スマホってこんなに転がるんだ』と感心するくらい、アスファルトを躍動した後、電柱にぶつかってようやくその身を静かに伏せた。


「あああ!おい姉ちゃん、どーすんだよこれ!」


バキバキに割れたスマホを見せつけて男は叫ぶ。

突きつけられた液晶にひび割れたわたしの無表情が映る。



「おい!俺のスマホ!どうすんのこれ!電源付かないんだけど!」


男の声が大きくなる。

帽子にはDestinyと刺繍がしてあるが、単語の意味をわかっているような人には見えない。(実はわたしもわからない)


スマホは見たところ完全に息を引き取っている。

チーンと高い音がして羽と輪っかの付いたスマホの幽霊が、春風に流されて消えた。


男は大事そうにスマホを撫でながらわたしを睨み付ける。

ただ困ったことにこちとら罪悪感はこれっぽっちも無いのだった。



『なによ!そもそも歩きスマホしていたのはあんたの方でしょ!ぶつかる寸前でわたしは避けたし!あんたが謝りなさいよ!肩をぶつけたのもスマホ落としたのも自己責任!一人で好き勝手ワーキャー騒がれても困るんだけど!』


上手うわてに出るとキレるタイプだろう。出社前のトラブルになるのは火を見るよりも明らかだ。

やはりここは大人しく、


『すみません、お怪我はありませんでしたか?修理代だけでも…』


なんて下手したてに出たが最後。これはこれで一瞬で状況が不利になることも目に見えている。


オラオラと巻舌で修理代を請求し、わたしを真っ暗な路地裏のアジトへ連れ帰り、身代金を要求するのだ。きっと。

外国に売り飛ばされるのかもしれない。


関わらぬが仏様。

こういうときに使うべき、スマートな万能日本語ランキング第1位は『忙しい』だろう。


「すいません急いでるので」


わたしが怖気づくどころか何事もなかったかのようにその場を立ち去ろうとしたのに腹を立てたのか、


「おい無視かよ、警察呼んでもいいんだぜ。痛ってぇ、足もヤったかもしれねえ。」


と男はへらへらと三文芝居を始めた。



ん?とわたしは振り返って男を見つめる。

帽子の"Destiny"の刺繍がわたしの瞳に映る。


風がざわめく。春一番。


わたしの表情にも一気に春が芽吹く。

早起きしてよかった。大チャンスだ。



「あの、 もしかして 当たり屋さん ですか?」

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