交易都市の異邦人

@AO1026

第1話 序章

(……また朝が来た)


 布団から顔を出し、ヒデオはカーテンの隙間から差し込む光に顔を顰めた。

 爽やかな目覚めではない。

 脳味噌をぐるぐるとかき回されるような頭痛と、かすかな吐き気で無理やり覚醒させられる。

 手足に力が入らない。

 いつもこの時間が一番苦しい。

 あと十分経っても症状が落ち着かなければ鎮痛剤を飲もうとヒデオは決めた。

 ローテーブルに置かれた目覚まし時計は午前九時を指している。

 今日も学校に行けなかった。

 ヒデオは深い自己嫌悪を抱えながら、もぞもぞと芋虫のようにベッドから這い出す。

 裸足でカーペットを踏みしめれば、ざらりとした繊維の感触が伝わる。ひんやりとしたフローリングの床に落ちている脱ぎっぱなしのパーカーを避け、重い身体を引きずる。

 薄暗い部屋の隅に積み上げられた漫画や小説は、もう随分と読まれておらず、その表面には薄く埃が積もっていた。

 かつては、目標に向かって努力する主人公たちに共感や憧憬を抱いていたが、今のヒデオは、それを直視できない。

 パジャマのまま階段を降り、リビングルームの扉を開ける。

 どこか雑然とした雰囲気のリビングルームだ。

 片付いてはいる。

 しかし、窓辺の観葉植物は枯れ、茶色くなった葉がエアコンから吹き出す風に揺れている。

 本棚には雑誌や書類、ダイレクトメールの束が、無造作に積み上げられていた。

 焦茶色のフォトフレームには色褪せた家族写真。幸せそうな若い夫婦、満面の笑みを浮かべる小さな男の子、ベビーベッドで眠る赤ん坊が写っている。

 乱雑に畳まれた洗濯物は、だが、柔軟剤の優しい匂いがした。


(兄貴は……、もう出かけたよな)


 ヒデオは兄と二人暮らしだ。

 医者だった両親はヒデオが五歳の誕生日を迎える前に交通事故で亡くなり、歳の離れた兄が彼の面倒を見てくれた。

 広いダイニングテーブルの上には、皿に盛られたサンドイッチと『今日は遅くなる。夕飯は冷蔵庫の二段目』と走り書きされたメモが残されていた。

 ヒデオはコップに牛乳を注ぎ、パンの乾き始めたサンドイッチを齧る。

 キュウリとハムのサンドイッチ。

 食欲はない。

 口の中でぱさつくそれを、牛乳で無理やり喉へと流し込む。

 兄に申し訳なかった。

 兄は奨学金で国立大学の薬学部に進学。卒業した今は薬剤師として小さな薬局で勤務している。

 彼はずっとヒデオの世話をしながら生きてきた。

 進学も就職も「幼い弟の面倒が見られる場所で」という条件が付くのだ。

 それがどれだけ大変なことなのか十五歳のヒデオにもわかる。


「俺がいなけりゃ、兄貴はもっと自由になれたのに……」


 進学も就職も、もしかしたら恋愛や結婚さえも、自分のせいで駄目になるかもしれないのだ。

 ヒデオは食べかけのサンドイッチを皿に戻した。

 兄に負担をかけないように頑張りたかった。

 勉強も、運動も。しかし、どれだけ頑張っても、兄の足元にも及ばない。

 拭い去れない劣等感と不安が積み重なり、高校の入学式から二週間後、ヒデオは倒れた。

 いくつかの検査を受け、医師から告げられた診断は自律神経失調症だった。

 学校に通えなくなり、自室に引きこもるヒデオを、兄は一言も責めなかった。

 ただ「今は身体を休めることだけ考えればいい」と優しく笑うだけだった。

 その優しさが、ヒデオの罪悪感を一層強める。

 いっそ、「お前なんかもういらない」と見捨ててくれれば、諦めもついただろう。

 ——いいや、それは言い訳だ。

 心のどこかで、「兄貴は俺を見捨てない」という確信があるからこそ、「見捨ててくれれば」などと甘ったれた思考が生まれるのだ。

 そんな姑息な自分が、ヒデオは嫌いだった。

 温かい繭の中で蝶にも蛾にもなれず、どろどろと腐っていくばかりの自分が嫌いだった。


「……牛乳、買いに行くか」


 空になった牛乳パックをゴミ箱に捨て、ヒデオはパジャマからTシャツとデニムに着替える。

 せめて、簡単な家事くらいは手伝いたかった。

 そうでなければ自分は本当にただの穀潰しだ。

 洗面所で歯を磨き、顔を洗う。鏡の中から平凡な顔がこちらを見返す。

 負け犬の顔だ。

 うんざりする。

 ヒデオはボディバッグに財布とスマホを無造作に押し込み、スニーカーの靴紐を締める。

 玄関の扉を開ければ、目のくらむような青い空が広がっていた。

 誰もいない。

 小鳥の鳴き声すら聞こえない。

 アスファルトからは雨上がりの匂いがする。

 からん、と鉱石を転がすような物音が聞こえた。


「……?」


 ヒデオが視線を向けると、一瞬、青紫色の小さな影が見えた。

 小鳥、だろうか。

 違う、あれは羽毛ではなく、鱗ではなかったか?

 磨いた宝石のように、きらきらと輝くあれは。

 わからない。

 あんな色の生き物がいるのだろうか。

 目の錯覚かもしれない。

 ひさしぶりの日光に、眼球が驚いたのだろう。

 

「……」


 ヒデオは影の消えた方向を、無言で見つめる。

 心臓がどきどきと跳ねた。

 色褪せた現実の中、あの影だけが奇妙なほど鮮烈に、目の奥に焼き付いている。

 風が、強く吹いた。

 まるで誰かが呼びかけるように。

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