第2話 荒んだ日常

 薄曇りの空をなんとなく見上げながら、沢村修一は東京郊外の安アパートを出る。

視界に入るのはくすんだ色合いのビルと電線ばかりで、まともに息をする気力さえ失せている。

部屋の床には古着とも新品とも知れない服が無造作に投げ散らかされているが、片づける気になどならない。

そんなことをしても、この虚無は埋まらないからだ。


「……くだらねえ」

そう吐き捨てるように呟いても、誰も聞きはしない。

寝起きのまま洗面所で目をこすれば、鏡に映る自分の目が泥水みたいに濁っているのに気づく。

けれど、それを見たところで何も変わらない。

空虚が貼りついたまま、修一は身支度もそこそこにバイト先へ向かった。


 町の雑踏はひどく無機質だった。吐き捨てられたガムやちらしが足元を舞い、車のクラクションが遠巻きに耳を打つ。

人々が行き交う様子を黙って眺める修一は、心のどこかで「誰かを壊してみたい」という危険な欲望にかき立てられる。

その衝動は、一日をやり過ごすたびに少しずつ大きくなっているような気がする。


 バイト先は飲食チェーンの厨房。開店前に仕込みをし、単調な調理をしては皿を洗い、帰るだけ。

味気ない日常の繰り返し。バイト仲間や店長と交わす会話はごく表面的で、心が揺れる瞬間など一つもない。

「おはようございます」「お疲れさまでした」

そんな定型句が店内にこだまするたび、修一は内心で舌打ちする。

こいつら全員、ちょっとしたきっかけで自分を避けるようになるのだろうか、と妄想が頭をよぎる。

もし今ここで食器を叩きつけたり、包丁を振り回したりしたら、どんな顔をするのか。

想像するだけで薄ら寒い愉悦に襲われるのだが、それを行動に移す勇気までは湧かない。


「……まあ、今はまだいい」

ささやかな抵抗心を自分の中で育みながら、修一は流れるように作業をこなしていく。

それが彼の言う「まともな人間」の仮面なのだろう。衝動に身を任せて破壊してしまえば、翌日からの安定すら崩れる。

何もかもを失うリスクを取るほど、まだ飢えてはいない――いや、それは単に「機会」を待っているだけの話かもしれない。


 昼休憩のわずかな時間、裏口近くの喫煙スペースに立ってみる。

自分は煙草を吸わないが、「外の空気」を感じないと窒息しそうになるからだ。

そこで同僚たちが下らない噂話を垂れ流しているのを遠巻きに聞きながら、修一はどこかで彼らを痛めつけたい衝動にとらわれる。

「……どうでもいい下品な笑い声だな。何か言ってやろうか」

口には出さない。

しかし、彼らの背後にまなざしを忍ばせるだけで、わずかなスリルと支配欲が胸をぎゅっと締めつける。

ふいに店長が出てきて、「沢村、休憩終わるぞ」と声をかける。修一は「ああ」と短く返事をするだけ。特別な感情など湧きもしない。

笑い合う彼らの輪に、自分が入っていく光景は想像するだけで吐き気がするから。


 日が落ちた頃、バイトを終えた修一が見つめる夜の街は、どこか浮ついた照明が醜悪なほどに地面を彩っている。

仕事帰りのサラリーマンや嬉々としたカップルが往来する。その顔をぼんやり眺めながら、修一は舌打ちしたくなる。

「……あの女、こっち見たか?」

信号待ちで遠目に視線が合った気がする女は、すぐスマホへ視線を戻してどこかへ去っていく。

もし、自分をはっきりと“怖い人間”だと認識して逃げてくれるなら、それはまだ関心を抱かれているということだ。だが、ほとんどの人間は修一の存在など最初から眼中にない。

そんな無関心に塗れた世界が、彼の内側で小さく苛立ちを増幅させる。


「どうせ誰も、俺なんて見ちゃいない」

自嘲がこぼれる。その呟きすら街の喧噪にかき消されてしまう。


 アパートに戻ると、扉を開けた瞬間に鼻をつくカビ臭さが身体にまとわりつく。

雑然と積み上げられた服、床に転がる空き缶――誰も来やしないから掃除をしなくても構わない。

むしろ、この荒れ果てた空間が、自分だけの“聖域”だと感じる。

孤独な廃墟を前にして、修一は小さく笑う。

「ここに誰か呼んで、押し込めてみたいもんだな」

そんな妄想が脳裏をかすめる。

かつて感じた歪んだ愉悦が、またくすぶり始めたのだ――虫を弄んで得た背徳感の延長線。

誰かの表情を歪ませることで満たされる興奮。もし人間相手にそれができたら……と考えるだけで、胸の奥がざわつく。


 スマホを開いてみても、連絡をくれる相手はほとんどいない。

SNSを覗いてもくだらない写真や笑顔の投稿ばかり。

皆、似合いもしない友情や恋愛を誇示している。

「白々しいんだよな……でも、この社会じゃそれが“普通”なんだろ」

普通の仮面をかぶれない自分が歪んでいるのか。

あるいは、彼らこそ見せかけで飾り立てているだけで、本当は歪みを抱えているのか――答えを知るのは無駄な気がして、修一は不快げに画面を閉じる。


 ベッドに仰向けになり、天井をじっと見つめる。

孤独な空気が肌に馴染み、頭の中で「明日もバイト」程度の認識が渦巻く。

それは退屈と諦観にまみれた時間だが、修一の中には別の“飢え”がまだ潜んでいる。

誰かの弱みを握り、その心を壊してみたい――そう渇望する自分がいるのだ。

少年時代に芽生えた淫靡なサディズムは、大人になって形を変えてもなお、魂の奥で息を吹き返そうとしている。


「ああ……本当、誰か捕まえて踏みにじってみたいな……」

物騒すぎる呟きが夜の静寂に溶けて消える。

薄暗い部屋の片隅で、修一は自分の存在を痛感する。

外では無数の人が動き回っているのに、この部屋だけが生と死の境界に取り残されているようだ。

どこかの誰かが幸せそうに愛し合い、誰かが気楽に笑い合っている現実が、鼻につくほど遠い。

ならば、自分はどんな手段でこの無気力を破壊できるのか。


「きっかけがあればいいんだ……」

そんな危険な結論に至りかける。

だが、まだその“きっかけ”が見当たらない。

社会の最下層でするすると息を潜めるように日々をやり過ごす中で、修一の猟奇的とも言える欲求はどこで噴き出すのだろう。

考えているうちに、疲弊した思考はゆっくりとまどろみに沈んでいく。

頭の中には、名も知らぬ他人の顔が浮かんでは歪み、浮かんでは歪む。それが恐怖の表情か欲望の表情か、自分でも区別がつかない。

ただ確かなのは、そこに「自分を強烈に意識している視線」があるという妄想が、甘美な麻薬のように心を疼かせることだけだ。


「……いつか、絶対になにかをやらかすんだろうな……」

夢うつつの状態でかすれた声が零れる。

夜の街にネオンがきらめき、どこかで誰かがくだらない人生を歩んでいる。

そんなものは修一の目に入らない。

彼は自分だけの飢えと欲望を飼いながら、闇に潜り続ける。

じっとりと潤んだサディズムが、今はまだ檻の中で牙を研いでいるにすぎない。


――むせかえるほどの抑圧と孤独。

そして、その奥底に潜む、誰かを徹底的に支配する願望。

荒んだ日常が続くほどに、修一の中の獣はさらに力を増していくのだ。

昼の穏やかな仮面と、夜の狂気に染まった欲望とのギャップは、次第に取り返しのつかない境地へと彼を導いていく。

世間に背を向けたまま、黒い渇望に舌なめずりしている猛獣が、いつ檻を破るのか――この退屈な日常は、その“衝動”を肥やすための下地に過ぎないのかもしれない。

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