30歳
薄暗闇から、まるで傷ついたみたいな呻き声がする。だけれどよく耳をすますと、それがほのかに色づいたものだと分かる。
目の前からやってきた男が、すれ違いざま僕の体を上下にじろじろと見定める。ふうん、と顎をしゃくらせて男は僕の元を去っていった。僕はその男に狙いを定める。男はロッカーキーを左手につけていたので、まさにうってつけの相手だった。不自然でないような動きを心がけて、もう一度その男に会えるように狭い空間の中をふらふらとさまよう。とある個室の前を通り過ぎたところで、ぐいっと強引に部屋の中に引き込まれた。驚いて視線を手の先に向けると、先ほどの男がニカッと笑ってこちらを見ていた。
「俺を探してたんだろ?」
僕の心を見透かすような発言に僕は、黙秘権を行使した。黙る代わりに、返事の代わりに、男の唇に吸い付いた。男は唐突な僕の行動にやや驚きながらも、嬉しそうに口を歪めてそれに応じる。
男の肉体は鍛えられ逞しかった。こんな男が挿入されることを望んでいるとは、街中ですれ違っても絶対に分からないだろう。僕はなるべく情けなくならないようにと心がけて、男を攻め立てる。男の筋肉の膨らみの中心の、淫らである証明のようなピアスのついた乳首を指で攻めながら、男の体を舐め回す。男の体は少し塩辛い味がし、焼けたようなにおいが鼻に心地良かった。
僕は男に股を開かせ、その中心に顔を埋める。先ほどよりも濃いにおいがするが、不快なものではない。僕は舌を穴の中に入れ、男の慣れきった穴をほぐしていく。
男はまるで女のように喘ぎながら、盛んに僕の股間を求めた。
「そんなに欲しいのか? この淫乱め」
僕は男の耳元で囁いてやる。
「はァ、俺、淫乱ん、だからぁ、ほし、欲しい」
男が息も絶え絶えに言う。
「わかった、くれてやるよ、ほら、受け取れ!」
僕は自分より遥かに体格の良い男を制圧する歓びに酔い痴れていた。
ハッテン場からの帰り、土曜日の朝。人通りの少ない新宿の中央通りに出た僕は、デパートのウィンドウに飾られた幼稚園児の絵を見た。テーマは、『大人になった自分』。子どもたちは消防士になった自分や、パン屋になった自分の絵を描いていた。
大人になったらどんな自分になっているんだろうと、子どもの頃はよく思った。子供の頃の自分に恥じない自分でありなさいなんてよく言うけど、今の自分の姿なんて、絶対に見せられない。仕事で溜まった鬱憤を、ハッテン場で解消するだけの生活。
家に着くと、万年床になっている布団に飛び込んだ。シャワーはハッテン場で浴びてきたのでそのまま眠ってしまうつもりだ。うとうとと入眠しはじめたころ、スマホの着信音が鳴った。
嫌な予感がして見ないでおこうかと思ったけれど、そういうわけにもいかない。意を決してスマホの画面をこちらに向けると、やはり得意先からの、こちらのミスに苦情が来たというメールだった。即座に休日出勤となる案件ではなかったものの、この問題を解決するには月曜日から水曜日までは終電コースだろう。
ちくしょう。
僕は今日の夜もハッテン場に行くことに決めた。
夕方、ハッテン場に行く前に時間を持て余した僕は、久しぶりに紀伊國屋書店に行くことにした。何か本くらい読まなければと思っているのだが、最近忙しくてなかなかできていない。
ミステリの棚から純文学の棚へ移動したとき、突然後ろで声がした。
「シュウヘイ! シュウヘイだろ?」
思わず振り返った僕はすぐにわかった。何年振りだろう? そこに立っていたのはユズキだった。太ったのか少し顔が丸くなって、以前よりも柔和そうな顔つきになっている。
「ユズキ?」
「ああ、そうだよ。俺だよ!」
ユズキは興奮したように、
「久しぶりだな! 元気してたか?」
と僕に聞いてくる。
「ああ、まあ、ね」
僕の煮え切らない返事にもユズキは気づかないようだった。
「本、相変わらず読んでるのか?」
にこにことそう訊いてくる。僕は否定することもできず、
「ああ、まあ、ね」
と、曖昧に答えた。
「そうなんだ! 偉いな、俺は最近全然読んでない」
え、と思った。ユズキが、小説を読んでない?
「ユズキ、……仕事は?」
執筆は、と喉元まで出掛かった。しかし、多分聞いてはならないのだろうと思った。
僕は、ユズキの名前が呼ばれるのをずっと待っていた。芥川賞の発表で、ユズキの名前が。受賞会見をテレビでやるたびに、ペンネームをつけた可能性も考えて毎回ちゃんと本人を確認していた。
しかし、ユズキの顔を見ることはなかった。
「ああ、保険屋みたいな感じの仕事をしてる。外回りして、契約取ってくる感じだよ」
ユズキがしっかり就職をしているということに、僕は少なからずショックを受けていた。それも、全く小説など関係ない職種に。ユズキは、小説と関わらないと生きていけない人種なのだと思っていた。僕は、勝手にどこかの編集者にでもなっているのだろうと思っていたのだ。
「シュウヘイは? 仕事は?」
「ああ、……うん、普通のサラリーマン」
「そうか、そうかあ」
ユズキはなぜか嬉しそうだ。
「それでシュウヘイ、どの本を買いに来たんだ?」
「あ、ああ」
どうしよう。僕はどうごまかそうかと売り場をふらつくと、高校生の時よく読んでいた賞がいまだに続いていて、新しい受賞作が出ていたことに気がついた。
「こ、これ」
「ああ懐かしい! この賞、お前よく読んでたよな。そしたら俺が買ってやるよ」
「え、なんで」
「? お前今日誕生日だろ?」
当然のようにユズキは言う。ああ、そうか。自分でも忘れていた。今日は僕の誕生日じゃないか。それも、記念すべき三十歳の。
僕はレジに向かうユズキを目で追っていた。
会計を終えてユズキは袋を僕に手渡す。僕は意を決して言った。
「あの、さ、せっかくだしこの後飲まない? いろいろ話でもしようよ」
そんな必死の僕の懇願をそうとも気づかないユズキはあっさりと、
「ああ……悪りぃ、ちょっとこの後用事あるんだわ」
と断る。
「そっ、か。そうだよね、ごめんごめん」
また今度飲もうよ、そう言われるのを待ったけれど、その言葉も無く、ユズキは、
「じゃあな、お誕生日おめでとう」
そう言い、あっという間にいなくなってしまった。
僕はさすがにハッテン場に行く気力が失せてしまい、伊勢丹に寄って何か夕飯でも買って帰ろうと思った。
大通りを歩いていると、遠くにユズキが交差点を渡っているのが見えた。
僕は固まりついた。
隣に、女性がいた。女性のお腹は大きくなっていて、どこからどう見ても妊娠している様子だった。
ユズキは、女性を見て笑っていた。僕が見慣れた、僕だけが知っていると思っていた、ユズキがごく親しい人に向ける笑顔だった。
二人は伊勢丹へと滑り込んでいった。
僕はくるりと体を翻し、JRの駅へと向かった。人混みをかき分け、息苦しさと吐き気を噛み殺しながら歩き続ける。
途中、ゴミ箱が目に入った。僕は握り締めてしわくちゃになった紀伊國屋の袋を凝視する。僕はゆっくりとその手をゴミ箱へと伸ばした。
捨てるんだ。
僕は、これを捨てる。
がやがやと騒がしい喧騒の中、僕はゴミ箱の前で手を伸ばしたまま固まってしまっていた。視界が滲んで涙が潤んだ。
捨てる。捨てる。僕はこれを捨てる。
しかし、手が堅く袋を握って離さない。
どうしようもなくなっている僕をどしんと押しのけて、一人の若者がなんでもないように新聞紙をゴミ箱に放り込んだ。僕はまだ僕の手の中にあるビニール袋を、ゆっくりと胸元に抱き寄せ、一つ長く息を吐くと、改札へと向かった。
電車で家まで揺られる途中、ユズキからのメッセージを着信した。まだ電話番号は互いに生きているらしかった。
『今日は偶然会ってびっくりした。今度ご飯でも行こう』
僕は車窓に視線を向けた。向こう側に流れる景色が写って、手前に自分の顔が反射していた。
少し太ったユズキとは対照的に、痩せこけた自分の顔。
ユズキは久しぶりに会った僕をどう思ったのだろう。
僕は叫び出したい衝動を押し殺して、ゆっくりとスマホをフリックする。
大人になれば素晴らしい日々が待っている、なんて思わなかった。僕にはユズキがいて、ユズキがいればそれで良かった。ただ、大人になってそれが壊れてしまうのが怖かった。
ユズキは結局、何度か予選は通過したけれども、最終候補に残ることがなかなかできないでいた。
ユズキは焦っているようだった。ユズキは言葉にはしなかったが、若くしてデビューしたい、と考えていることはよく伝わってきたし、その考えは出版業界の当時の風潮を見るに、そこまで間違っているものでもなかったように思う。僕たちが高校生のときに、同い年の作家たちがデビューすることは、決して珍しいことではなかった。
「俺の小説とあいつらの小説、何が違うんだろうなあ」
ユズキはよくそう溢したが、僕がユズキの小説を読んでも、彼らに比べて――何かが決定的に――劣っているとは思えなかった。
僕はユズキの求める、心の底から渇望しているアドバイスを与えられないでいた。
だから、僕はユズキの心変わりに気づかなかった。
僕がユズキの決心の硬さを知ったのは、ユズキの名前が、黒板に貼られた皆の進学する学部が載った紙に無かったときだ。名前がないということは、ユズキはエスカレーター式に大学に進むことのできるこの高校の最大の利点を捨てたと言うことになる。僕は慌てて教室を見回したが、ユズキの姿は既にそこになかった。
「ユズキは本気で他大受験かぁ」
クラスメイトが腑抜けた声で言う。知ってたの? と声が漏れた。クラスメイトは驚いたようにこちらを見返して、
「え、お前知らなかったの? あんなに仲良いのに? 有名な話だよ」
と当然のことのように言った。
僕は弾けるように教室を飛び出した。
学校中を走り回ってユズキを探す。ユズキは下駄箱のところにいた。
「ユズキ!」
叫んで呼びかける。ユズキが振り返った。
「大学、違うとこ行くの」
ユズキは僕から視線を逸らした。そして一言、「ああ」とだけ答える。
「どうして」
「もっとちゃんと、文学を勉強したかった。うちの大学にももちろん文学部はあるけど、好きな作家が講義してる大学があってさ。そこに行きたいんだ」
そんなの、聴講しにいけばいいじゃないか、とは、言えなかった。ユズキが小説にどれだけ本気なのか、僕が一番知っているはずなのだから。
「ユズキと一緒に大学に行けると思ってたのに」
そう言うのが精一杯だった。ユズキの返事は、
「ごめんな」
それだけだった。
ユズキと初めて会ってから、もう十五年も経っているのだと思う。あの三年間のことは、今でも目の前に鮮やかに蘇ってくる。僕の完璧だった日々。欠けていたものが埋まっていた日々。だけど、そのピースの形が変わってしまったとしたら。
――そもそも、変わったのはどちらなのだろう。
そんな詮無いことを考えながら僕は、紀伊國屋の下でユズキを待っていた。結局あのあと返事をして、食事をすることになったのだ。
「シュウヘイ!」
ユズキが手を振りながら近づいてくる。ああ、ユズキだ。ユズキがそこにいる。
そんなことを思っていると、ユズキはそのまま僕を抱きしめた。
慌てる僕を、ますますユズキは強く抱きしめる。
「久しぶり」
「この前会ったばっかじゃん」
「あれはさ、不意打ちだったから。本当は、抱きしめたかった」
そう言うユズキの嬉しそうな声と、あの女の人が重なった。僕はユズキをぐいと押して体を離した。ユズキはそれを、僕が照れていると受け取ったらしかった。
「さ、店予約してあるから、行こうか」
僕はユズキを連れ出した。ユズキを連れていったのは格安の焼き鳥を提供している居酒屋だった。
「ユズキもこういうとこ来るの」
「めっちゃ来るよ。なんか、シュウヘイとこういう店に来るの、変な感じ。いつもマクドナルドとかで時間潰してたもんな」
へへ、とユズキは笑う。ジョッキに入ったビールが運ばれてきて、僕たちは乾杯をした。
僕たちは安い焼き鳥を食べながら、狭苦しい席で、互いの過去を埋めあった。小説については、聞くまでもなくユズキは自ら話し出した。
「最終候補に四回、残ったんだ。大学のときに二回、二十五で一回、二十八のときに一回。ずっと、最終に三回残ってダメだったら諦めようって、前から思ってた。それでもさ、二十五で三回目になっても、まだ大丈夫、まだやれる、遅咲きの作家なんて腐るほどいるって、ずるずる諦められなかったんだ。でも最後の、四回目の候補のときの選評でさ、『この筆者にはプロになるための何かが絶対的に欠けている』って言われちゃってさ。もう、そこですっぱり、諦めたよ。それまではずっとバイト生活してたけど、ちゃんと就職もして。今は、全く小説書いてない。……十五年近く小説書いて、言われることがそれかよって、笑っちゃうよな。だいたい、何かってなんなんだよ。それをはっきり教えて欲しかったよ、俺は」
僕は、かけるにふさわしい言葉が見つからなかった。店内に安いラブソングが流れている。隣の大学生の集団が、げらげらと同じサークルの女子を品評している。
「それでさ、……就職先で、大学の友人と偶然再会してさ。偶然再会っていうか、同じ大学じゃない? って、無理やり違う部署なのに会わされた感じだったんだけど。そこからいろんな人と会って、それで……今、俺、結婚してるんだ」
僕の心が鈍い軋みをあげる。だけれど僕は平然を装って返事した。
「知ってるよ。女の人と歩いてるの、この前会った帰りに見かけた」
僕は、声が震えないように話せているだろうか。
「そっか。見られちゃったか。じゃあ知ってるか、あいつ、妊娠してるんだ。俺の子だよ」
僕は今すぐ顔を手で覆って叫び出したい気持ちだった。
「うん、見たよ」
ユズキは続ける。
「俺はさ、怖くなったんだ。このまま俺はなんの作品も残せないまま死ぬのかなって。そしたら俺は、せめてちゃんと、何かのかたちで生きた証を残したいと思った」
僕の脳裏に、あの薄暗い部屋が蘇る。コンドームに溜まった僕の精液たち。彼らはどこへ行くこともない。何も残すことがない。残るのは、気怠い朝焼けだけ。
僕はすべてをぶちまけたい衝動に駆られた。ユズキと別れてから男の味が忘れられずハッテン場通いを繰り返す何の生産性もない日々。誰のせい? 誰のせいだ? 誰のせいでもない。自分のせいじゃないか。ユズキのせいなんかじゃないんだ。わかっているだろう?
「シュウヘイ?」
ユズキが俯く僕を下から覗き込む。あの日と変わらない、曇りのないきれいな瞳。
「なん、でもない。ごめん、僕、帰るね」
僕はカバンから財布を取り出して五千円札を引き抜くと机に置いて、
「え、シュウヘイ? え?」
と戸惑うユズキを背に店を出た。
路地に出ると、新宿の雑踏が僕を包む。何者でもない人々の熱気が渦巻いて、言葉にならない音が右から左へ流れる。僕の足は自然と二丁目へと向かっていた。
「シュウヘイ!」
そんな僕の手を、追いかけてきたユズキががしっと掴む。
「どうしたんだよ、急に。大丈夫か?」
「大丈夫、大丈夫だから。僕は大丈夫」
僕はごくりと唾液を飲み込んだ。
「本当に、僕は大丈夫。これから、僕は……」
僕は言いたかった。これから僕は、ハッテン場に行くんだ。そして僕は――。
僕の頭の中に、あのコンドームが蘇る。ああ、無駄打ちされた僕の精液。死んでいった子種たち。
『大人になった自分』。あの子供たちの絵が蘇る。僕は、僕はこんな大人になってしまった。
だけど、しょうがないじゃないか?
自分にそう言い訳していると、唇をユズキに奪われた。そのまま舌を入れられる。
僕は呼吸の仕方もよくわからなくなってしまって、しばらくすると喘ぐように顔を離した。
「シュウヘイ、泣くなよ」
そうユズキに言われて初めて、僕は自分が泣いていることに気づいた。
「泣いて、泣いて、ないし」
僕がそういうと、ユズキは優しく僕の手を引いた。
「どこ行くんだよ」
ユズキが笑って答える。
「ホテル!」
鍵を無人の自販機で購入して、僕とユズキは少し古ぼけた感じのラブホテルに入った。部屋に入ると早々にユズキは服を脱ぎ捨て裸になり、
「ん」
と両手を広げた。僕もしぶしぶと服を脱ぎ、ユズキの懐に収まりに行く。夏の汗でべたついた僕たちは、肌と肌を重ねて体温を交換する。
「ユズ、キ」
僕が言うと、ユズキが再び唇を重ねた。何度も味わったユズキの唾液の味。甘いその味に酔いしれて、僕の体が溶けそうになる。
ああ、ダメだ。
炎が燃え始める。
僕の中でずっと消えていたあの炎が、再び着火する。
いや、消えていたのではない。くすぶりつづけてたんだ。
僕は夢中になってユズキの体を舐める。塩辛い味のする、少し体型の変わったユズキの体を味わう。
炎が、もう一度燃え盛る。情念と青春を材料にめらめらと燃えている。僕は再びその美しさに魅入られている。
ユズキも、ユズキもこの炎を感じているだろうか?
僕は貪るようにユズキの体を味わいながら、ユズキの髪を手で梳く。
「シュウヘイ」
ユズキの声が聞こえる。それだけで僕はわかる。僕たちはまた一つになっていると。
僕とユズキはまた新宿で待ち合わせをしていた。場所はクラシカルな、今時とは言えないレトロな雰囲気の喫茶店。僕はコーヒーを飲んで待っている。
「悪ぃ、お待たせ」
そう言って到着して早々、ユズキはクリームソーダを注文する。僕の視線に気づいたユズキは、
「ガキっぽいって思われるかもしれないけど、好きなんだ、これ」
と、言い訳するように言った。
「知ってるよ、高校のときも、ユズキは何回もそれを飲んでたから」
「え、本当に? 恥ずかしいな」
「好きなんだなと思って見てた」
「子ども、……本当に子どもの頃、親に頼んでも飲ませてもらえなかったんだ」
到着したクリームソーダのグラスの縁を、人差し指でなぞりながらユズキは言う。
「ほら、クリームソーダって、なんか綺麗だろ? アイスクリームも乗ってて、おいしそうじゃないか。子どもの頃、すごく憧れたんだ。でも、親は飲ませてくれなかった。甘すぎて体に悪いぞって。子どもの頃は理不尽に思ってたんだけど、確かにその通りだよな、メロンソーダの上にアイスクリーム乗せるって、普通じゃないよな」
僕は頷いた。確かにクリームソーダは綺麗だった。
「子どもの頃に禁止されたものに、大人になってハマるってよく聞くだろ? 俺の場合、それがこれなんだ」
そう言いながら、縞模様のストローを吸うユズキ。
僕はそんなユズキに、高校時代のユズキの影を重ねていた。
「それで、今日はどうするの?」
そう問いかけた僕に、ユズキは笑う。
「行きたいとこがあるんだ」
互いに飲み終えて、会計を済ますとユズキは駅に向かった。僕も後を追いかける。
「どこ行くのさ」
「高校行こうぜ、久しぶりに」
ユズキはいたずらっぽく笑った。
そうして僕たちは三年間毎日のように通った学校へと向かった。通勤快速と快速の違いに気をつけながら、電車に乗り込む。学校へ向かう電車は帰宅ラッシュで混雑していた。学生時代と逆向きの電車に乗っていることになる。
僕とユズキは手を伸ばせば抱き合える距離で立ちながら、互いに小声で会話を交わした。
「いつ思いついたの、学校行こうなんて」
「さっき。来る途中。なんとなく楽しそうだなって」
「入れるかな、こんな時間に」
「大丈夫だろ、まだ部活はギリやってる時間だし、あの学校、ずっと警備員いたじゃんか」
確かにあの学校では、校門のところにいつだって暇そうな警備員が常駐していた。
懐かしさを覚えずにはいられない駅名アナウンスを聞きながら、僕たちは学校の最寄りの駅に辿り着いた。
駅の周辺の景色は様変わりしていた。再開発が行われたのか、大きな駅ビルが立ち、かつてはうちの学校や他の学校の学生しか見かけなかったような駅前に、多くの人がわだかまっている。
「すごい、変わっちゃったね」
「あの本屋ももうないかな」
ユズキが言う。ああ、あの本屋。ユズキが初めて名前の載った雑誌を買った、あの本屋。二人の足は自然にそこへ向かったけれど、緑色を基調にした本屋は既にそこになく、あるのは眩しいほど煌々と輝くドラッグストアだった。
よく通ったゲーセンだった場所は、携帯電話のショップへと変貌していた。
「このまま学校もなくなってたりして」
そんなことを言いユズキが笑う。僕はなんだか笑っていい気分になれず、顔が若干引き攣ってしまった。
しかし、歩く道すがらに学生の姿がちらほら見えて、どうやらそれは大丈夫そうだと思う。かつて自分もあの制服を着てこの道を歩いたのだ。僕は感慨に耽りながら学校へと向かった。
そして、学校はちゃんと存在した。
建て替えなどもなく、昔のまま、さらに少し古ぼけた姿で。
「すいません」
校門脇の小さな建物の中にいる警備員に話しかける。
「はいはい」
「卒業生なんですけど、中の見学ってできますか」
警備員は上下に僕たちの姿をじろじろ眺めたあと、
「いいですよ」
そう言い、ノートを僕たちのもとへ差し出した。僕たちはノートに名前を書き、身分証を提示して中へ入った。
あたりはすっかり暗くなっている。学校も節電なのかもう電気の点いている部屋は数えるほどしかなく、かなり暗い。
「なんか、怖いね」
「はは、子供じゃないんだから、こんなんでビビるなよ」
確かに三十にもなってこんなことでびくびくするのは情けない。だけど、暗い学校っていうのは怖いものだと、そう刷り込まれてしまっている。
「教室行こうぜ」
ユズキは、僕とユズキが出会った教室へと向かった。僕もあとを追いかける。
教室はがらんとして広かった。以前小学校を訪れたとき、その教室の狭さに驚いたものだが、高校の教室は今でもさほど広さの印象は変わらないようだった。
「どの辺だったっけ、席」
ユズキがずんずん教室の中へ入る。僕も教室へ入った。右から二列目、前から三番目。だいたい僕たちが出会ったのはその辺だ。
「お前、よく覚えてるな」
ユズキが目を丸くする。出席番号が九番とかだったから、間違いない。そう言うと、
「ああ、確かにそうだな」
そう言い、納得したようにその一つ前の席にユズキは座った。僕も一つ後ろに座る。
机の中から置き勉のノートや教科書がはみ出ている。
ユズキは前を向いて座っている。何か話し出すのを待って、その少し丸くなった背中を見ていたが、ユズキはじっと座って何も言わない。
「ユズキ?」
僕が呼びかけると、ようやくユズキは話し出した。
「俺はさ、大人になったら、もう自分は小説家になっているって、本当にそう思っていたんだ。それ以外の自分は、ほとんどイメージしていなかった」
ユズキの声がだだ広い教室に響いた。
「だから怖かったよ、自分が小説家になれないんじゃないかってだんだんと分かってくることが。何よりも怖かったのは――そのとき、お前が隣にいなかったことだ」
僕は、ユズキの背中を見つめている。学生服でなくスーツを着ているユズキの背中を。
「なあ、どうしてあのとき、別れようって言ったんだ? 別に、違う大学に行ってたって、俺たちならうまくやれただろう? なあ、どうしてなのか教えてくれよ」
ユズキは振り向かない。ユズキの背中に向けて僕は思う。
あのとき、進路表にユズキの名前が無いのを見たとき、僕はこう思ったんだ。ああ、この人は小説が何より大事で、小説が全てで、――だからきっと、小説のためには簡単に僕のことを捨てるんだと。
僕のあのときの確信は、正しかったのだろうか?
次の約束の日、ユズキは唐突に花火をしようと言い出した。明らかにそれが入った、スーパーのビニール袋を掲げて。
僕たちは近くの公園へ移動した。公園に人気は無かった。
二人とも仕事帰りなのでバケツも無かったが、水道がすぐ近くにあるので大丈夫だろうと話して、花火たちに着火した。
火を吹くように燃える花火。ねずみ花火。ロケット花火は、ひゅるひゅると頼りなく打ち上がった。それだけのことなのに、僕たちは大声で笑った。大声で盛り上がった。
こんなに夏らしいことをしたのは何年ぶりだろう。
こんなに笑ったのは何年ぶりだろう。
こんなに幸せなのは何年ぶりだろう。
炎色反応できらめく炎たちが、色とりどりに僕たちを染め上げる。花火の燃える音が僕らを昂らせる。この時間が永遠に続けばいいのにと思った。だけど、あたりに充満する煙と火薬の燃え尽きるにおいが、この時間の終わりを知らせていた。
「あと、これしか残ってねぇや」
そう言うユズキの手に握られていたのは、二本の線香花火だった。
無言でそれを差し出すユズキ。僕はライターを手にそれに火をつける。
線香花火が静かに、そっと辺りを照らす。その小さな光を、僕たちは見つめていた。
ユズキの顔がゆらゆらと照らされている。
ぱちぱちと、花火が燃える。あまりにか細く小さな炎。これも炎なんだ。僕は、あの日見たキャンプファイヤーをなぜか唐突に思い出した。僕は、今でもその炎を目の前で燃え盛るように思い出すことができる。目の前の火は、そのキャンプファイヤーを重ね合わせるには、あまりに頼りない炎だったのに。
でも、確かに燃えているんだ。
僕はユズキを見つめた。ユズキは真剣な眼差しで線香花火を見つめている。ぱちぱち、と爆ぜるその勢いが一瞬強くなったかと思うと、それは、あっさりと燃え尽きて地面に落ちる。辺りがにわかに暗くなった。
そしてユズキは、僕に微笑みかけたのだと思う。
「愛してるよ」
ユズキは、唐突にそう言った。
僕たちはそのあと、いつものようにホテルへ行った。
行為の後、コーヒーを飲むユズキを見て、本当はクリームソーダが好きなのに、なんて思いながら、僕は大人になるとはどういうことなのかを考えていた。
僕にとって、それは自分がゲイであることを受け入れることと同義だった。ユズキ以外の男を知ること。ユズキ以外の男を抱くこと。そういうことを繰り返して、僕は少しずつ大人になった。だけど僕は決して満たされることがなかった。ユズキ以外の相手では、僕は燃えあがらなかったのだ。体は満足しても、心が満たされない。
だから、ユズキと再び会って体を重ねて、僕は本当の満足を知った。これを、手放したくない。
僕の隣に寝転んでいたユズキが、突然ベッドの上にあぐらをかく。
「どうしたの」
問いかけた僕に、少し間を置いてユズキが言った。
「俺、やっぱりお前と一緒にいたい」
僕はユズキを見つめた。ユズキも僕を見た。あの、綺麗な瞳で。
更に間を開けて、意を決したように言う。
「あいつとは別れるよ。一緒にいよう」
ユズキの真剣な顔を見て、その発言が本気なのだと分かった。僕は嬉しかった。僕と同じように、ユズキも僕でなければダメなのだ。しかし、それは何よりも望んだ言葉なのに、なぜだろう、一番聞きたくない言葉だったのだと分かった。
僕の脳裏にあの女性の姿が浮かんだ。お腹の膨らんだ彼女の姿。ユズキの未来はあそこにあるのだ。こんな、二人きりの古ぼけたラブホテルの中にはない。
僕は思った。そういう風になりたかったわけではない。そんなことは、僕は望んでいなかった。
だけど、じゃあ、どうなりたかったんだろう?
「ありがとう」
僕は言う。なんと言えば良いだろう……そう思うと同時に、言葉がすらすらとまるで言い訳みたいに流れ出した。
「でも、僕は――僕は、小説を書いているユズキが好きだったんだ。まるで、一人で全てと闘っているみたいで。小説を書いているユズキはかっこよかった。小説を書いているユズキは、僕の憧れだった。だから――この意味、ユズキなら分かるよね」
ユズキは少し俯いて、見たことのない顔をして頷いた。
こうして僕はユズキを切り捨てて、本当に大人になった。
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