◆試合当日

 あっという間に日が空けて遂に俺が試合をする日が来てしまった。水を殆ど飲まなかった割にはそこそこ眠れて、顔色も良く、コンディション造りはまずまずに感じた。アマチュア試合でも森本会長は見に来る。

「あんまり気負うなよ、ワシは結局東洋太平洋王者まで行ったけど、デビュー戦は負けたわ。だから絶対勝たなきゃならんとか思わず、肩の荷を下ろせ。それからLISAもデビュー戦負けたしな」

 会長はそう言って励ましてくれた。

「ちょっと、会長、何私の恥ずかしいデビュー戦について話してんの⁉」

「リサは青コーナーから入場する予定だったのに赤コーナーから入場してね、ワシも恥ずかしかった」

 会長はそう言って笑うと、リサはうわああと頭を抱えた。


 村木はプロテストに合格して、顔つきに自負心が現れて、そして「プロ」という新たなステージで戦う覚悟が垣間見れるようだった。まだ試合こそしていないがプロのボクサーとして俺の試合を応援師に来てくれた。元スパーリングパートナーとして、しっかり応援してやるって。もうきっとコイツは、俺がデブだと中学生のときにからかったことなんか微塵も考えていないだろう。俺は俺で、コイツに追いついて、いつか超えていきたいって思うようになっていた。


 村木は、若村先輩の言うところの「自由」の断片を手に入れたんだろう。そしてそれを手に入れるには、人に危害を加える必要もなく、人と自分を比較する必要もなく、ただ自分の道を極めていくことのみなのだろう。俺もそんな道をこの歳でやっと歩み始めたんだ。


 軽い階級から試合は行われていって、俺も試合が近く、ウォーミングアップを始めた。体を温めてほどよく汗をかく。此処で砂糖は吸収してはいけないらしい。血糖値が低下する瞬間にバテが来るから、俺はバナナの果糖からエネルギーを補給した。空腹が極限に達していたから、丸のみにしたい欲望を抑えて、吸収効率を上げて、すぐエネルギーになるように、口の中でペースト状になるくらい噛んで飲み込んだ。暫くすると全身が熱を持った。


 ワンツー、ワンツーフック、ワンツーフックストレート、ワンツーボディ。一通りの基本コンビネーションを若村先輩にミットで打たせて貰った後、青コーナーから入場した。会長は俺の背中をバチンと叩いて、

「遊んでこい!」

 と俺を送り出してくれた。


 リングに上がり、対戦相手と拳を合わせた。レフェリーがまず、俺の顔を見て、その後対戦相手を見て、両者の拳を合わせた。対戦相手は鋭い目つきで俺を見ていた。

「クリーンファイト!」

レフェリーの通る声が響き、それに頷くと、カァンというゴングの音が鳴った。自分がまさか、リングの上からこの音を聞くことになるなんて、想像すらしていなかった。

対戦相手は隙のない構えで顎を引いてこちらを見ている。俺も同様に顎を引いて構えた。かなり独特の雰囲気が出てきた。

「ジャブを突いて先手先手で行け! 作戦通り行け!」

 背後からセコンドをやってくれている会長の声が聞こえた。


 問題ない、相手も怖いんだ。俺は覚悟を決めてジャブを続けざまに打った。半分は当たったが、残り半分はブロックされ、反撃を受けた。俺はまるで体が俺じゃなくなったように重くなるのを感じた。相手の拳を続けざまに浴びせられて、軽くパニックになってしまった。でもいつもの練習の通りガードをしっかり上げて、ジャブを返して見ると、相手の必死の顔で呼吸も浅くなってる。痛いのは俺だけじゃない。苦しいのも、怖いのも俺だけじゃない。


 練習で培ったことを出すだけだ。左、左、左、左。


 1R終了のゴングが鳴って、コーナーに戻ると、汗が滝のように流れ出た。会長が「飲み過ぎるなよ」と言って水を出したのでそれを少し口に含んで喉に落とした。極上の水だ。たった一口で、全身に循環しクーリングされるようなイメージが抜ける。会長が話しかける。

「相手は見えているか?」

「はい」

「スタミナは切れていないか?」

「はい」

「ダメージはないか?」

「はい」

「手数で負けてるのは分かるか?」

「はい」

 俺は俺の思ったよりずっと冷静だった。会長は最後に、

「ジャブからの右が当たる相手だ。練習したワンツーを当ててこい。習ったとおりに」

 と言って、俺を送り出した。


 2R目から、相手は少し疲れたのか失速した。俺はセコンド席に一回戻ったとき、妙に冷めたように冷静になって、相手の動きがよーく見えるようになったんだ。だから会長の指示通り、ワンツー、ワンツー、と打っていくと、伸びのいいパンチになって、それが当たり始めた。会長の言う通りだ。

「倒せるよ!」

 リサのよく通る声が客席から聞こえた。


 更にワンツーフック。左ボディで崩して、更にワンツー。相手のことなんて知ったこっちゃない。自分が練習したことだけを出し切るんだ。そう思って更にワンツーを振ったら、相手がもう居なかった。


 レフェリーがストップをかけてダウンカウントを数えた。相手は膝をつくようにダウンしていて、10《テン》カウントが経過した。


 俺はレフェリーに右手を掲げられ、

「2R2分41秒、北沢タケル選手のKO勝ちです」

 とアナウンスされた。


 スタミナを殆ど使い切っており、チアノーゼ気味の状態で退場して、控え室で崩れ落ちた。控え室では、村木、会長、若村先輩が良くやったってボディタッチしてきた。俺も激しい殴り合いのせいで、自分が勝ったっていう認識がいまいち得られないまま、閉会式まで外を散歩した。リサが着いてきて、

「タケル強えーじゃん!」

 とか言ってはしゃいでた。

「俺って何で勝てたのかな?」

「タケルが努力したからだよ」

 村木も嬉しそうにはしゃいでいた。

「しかもスパーリングパートナーが、プロだったもんな」

 リサはうんうんと頷いた。

「若村先輩とスパーでしょ? アマチュアでこれだけやる奴いねーから、いつタケルが音を上げげ壊れてパンチドランカーになって網膜剥離になって廃人になるのかなって正直思ってた。ごめんね。で、ボクシングで勝ったらどんな気持ち?」

 リサのボクシング系のブラックジョークは時々恐ろしい。

「……現実感がない」

「えっ、マジで? 贅沢な奴~」

「だけど最高だ!」

「だろ! やめらんなくなるよ」

 俺はリサに抱きついたら、カウンターでボディブローを食らった。

「ジ、ジムの奴が見てるかもしんねーだろ! 後で、そう後で愛し合おう!」

 フランクなのかシャイなのか分からない奴だ。

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