◆遺書

 練習の疲労か、晩飯を食べてシャワーを浴びたら、猛烈な眠気が来て、あっという間に寝てしまった。


 夢の中に姉が出てきた。彼女はまだ中学生で、俺は小学生だった。姉は中学生の男子に貰ったラブレターを、カバンの隠しポケットにしまったことを、俺に話した。俺は姉にラブレターを書いた男が気になってしょうがなかった。なぜなら、姉がその男と遊ぶようになったら、俺との会話は一切しなくなって、学校と、勉強と、その男へ割く時間で、全て姉の生活が完結してしまうのではないかと思ったからだ。


 でも実際はそんなことにはならなくて、ありがたいけど高校受験があるから、しっかり断らないとって言ってたナ。それで実際交際することはなかった。姉は勉強出来たけど、出来るべくして出来たんだな。意思が強えーっていうか、芯がぶれないっていうか、目的意識をしっかり持ってて、多分未来のことも見据えてて、その上で行動してた。その先にはきっと幸福な人生があるんだと、弟ながらに感じてた……そこで夢は終わった。


 俺が目を覚ますと、午前五時で、もう姉がこの世に居ないことをベッドの上で再認識して、暫く声を出して泣いた。何であんな努力してるのに、それをリセットしてしまうように、自殺しちゃったんだ。努力して努力して、報われて幸福になるんじゃなかったのか? 苦しむだけ苦しんで、その後死ぬなんて、物凄く不幸じゃないか。俺は余りのもどかしさにいてもたってもいられなくなって、姉の部屋に行った。鍵は撤去されているが、姉の遺品はまだ捨てられず残っている。多分もうすぐ、親父かおふくろが、休日でも使って徐々に思い出と共に捨てていくべきものなんだろうなってことは分かる。これが綺麗さっぱり捨て去られて無くなっている頃には、俺も姉の顔がうっすらとしか思い出せないようになるんだろうか?


 少し籠って低めの良く通る声なんかも忘れちゃうのかな? あんまリアリティが無いけど、人の記憶は有限なんだろうから、悲しいけどそうなって行くのだろう。


 そのとき、夢に出てきた「隠しポケット」が、現実でも存在したこと。夢だけじゃなくて、実際に姉がラブレターを貰ったとき、そこに隠してたことを思い出した。俺は気がふれたように姉の通学鞄を探した。高校生用の鞄がまだ処分されずにあるが、中学生用の鞄が確か捨てられずにあったはずだ。俺は姉の部屋をひっかきまわすと、学習机の大物入れの引き戸の中に、彼女が中学生時代に使っていたカバンがあった。俺はそれを開いて、隠しポケットを開いて、中を確認した。すると、比較的新しい紙が、丁寧に折られて入っていた。息を飲んで俺はそれを読んだ。


〈私は何のために生きているのか分かりません。でも死ぬ理由なんて皆、文字にしてしまうとそんなものなのではないかと考えています。ざっくりと書くと私は私の弱さ故に自ら命を絶つのでしょう。心理学ではストレス的脆弱性とでも表現するのでしょう。文豪芥川龍之介の遺書が、「唯ぼんやりとした不安である。」程度の説明なのです。どれだけ文才に長けていても、死ぬときに残せる遺書というのはその程度なのでしょう。言語に出来ない多くの自己否定を抱えて、皆死んでいくのです。私は、私を肯定しながら今後、寿命が来るまで生きるということを想像すると、圧倒されてしまったのです。誤解を恐れず書きますが、私が死ぬのは私のエゴです。皆が皆、幸福を目指して生きていくように、私は私の幸福を目指した結果、自ら命を絶たなければならないのです。きっと生きていくためには、生きていく理由が必要なのです。生きていく理由を手に入れるには、きっと頑張らなきゃならないのでしょう。受験勉強よりも就職活動よりも、ずっと頑張らなきゃならないのでしょう。そこで気が遠くなると感じる人は、より頑張らなければならないのでしょう。生きていく理由を見つけた人たちは、魅力的に輝いているので、私にも理由が見つかれば、そうなっていけるかもしれないという希望は少しだけあるように思えました。でも、そうなるまで私は持ちません。夏目漱石ではありませんが、どんなに幸福そうな人間を見ても、その背中は何処か辛そうに感じます。そういったことを想像出来るのは、きっとタケルも知らないかもしれないけど、私が普通の日本人の同い年くらいの女の子より少し人生が不幸だからだと思います。不運なこと件があったのです。そうなってしまうと、自分で自分を肯定する力が、人間は弱くなってしまって、どうやっても生きていけなくなるんです。人々が活力に満ちあふれたお化けに見えるんです。何であんなことに耐えられるんだろう? 何でああいうことを出来るのだろう? と、思うのと同時に、絶対自分には出来ないって思うようになるんです。一つの不幸なこと件が起きると、人間はどうやらそうなって行くようです。

 今の私は、私の人生に於いて死ぬことを肯定しているから、その値基準で、頑張れなんて、言えない。それに、私の価値基準で「頑張れ」だなんて、呪いみたいなものかもしれません。でも、不幸なことが起きたときに、魂が震えるような、誇れること、楽しいこと、やっていて後悔しない道に挑んでいさえすれば、まだ夢半ばで達成出来ていなかったとしても、きっと耐えて、誇らしい真っ直ぐな人生を送っていけるのだと思います。私にはそれがなかった。

 タケルは喧嘩っ早くて、すぐ復讐とか考えるから、私の身に何があったか伝える気はありません。

 でもタケルは頑張りなさい。タケルならきっと、自分の後悔しない道を見つけて、どんな不運や不幸にも耐えていける気がしているから。〉


「……だから、タケルは頑張りなさい……か」

 気が付いたら反芻し口に出していた。声が震えていた。涙がぼたぼたと床にしたたり落ちた。何となく予感はしていたが、実際に姉の身には、こと件として不幸なことがあったのだ。姉ちゃんはそれを抱えたまま逝ったんだ。

「姉ちゃん……俺のことは……もう、大丈夫だよ」

 俺は震える声でそう言って、姉の――きっと俺のためだけに書かれた遺書を抱きしめた。辛い。余りにも辛い。

「もしあの世なんてところがあって、姉ちゃんがそっちに行ってるんだったら、俺は何の心配も要らないくらい独立して、強い男にならないと」

 自分に言い聞かせるように呟いて、俺は姉の遺書を自分の部屋の机の引き戸にしまった。

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