キャットファイト
鈴女亜生《スズメアオ》
キャットファイト
集合住宅と隣接した、猫の額ほどの公園だった。園内には砂場と滑り台、ブランコがあるだけで他には何もない。子供たちが野球をするだけのスペースも、幼い子供が遊ぶ姿を見守るためのベンチも設置されていない。
そんな小さな公園に犇めく人影があった。
年齢は様々。下は二十代から、上は六十代まで幅広い。格好も統一感がなく、各々が好きな服を着用している。
が、決して共通項がないわけではない。
まず、集まっている人々は全員が女性だった。そして、全員が既婚者だった。
詰まる所、隣接した集合住宅に住まう主婦がここに集まっているのだ。
では、集合住宅に住まう主婦が小さな公園に集まって、井戸端会議にでも興じようとしているのかと言われたら、それも違う。
そうではないと言える要素が明確に一つあって、それが共通項の一つにもなっていた。
彼女らは皆等しく、猫を連れていた。
腕の中に抱く者。リードで繋いでいる者。ケージの中に入れている者。服の中から顔だけ出させている者。足にしがみつかせている者。頭の上に乗せている者。何の制限も与えることなく自由を許している者。
猫の状態は様々だったが、全員が共通して一匹の猫を連れていた。
猫種は様々だ。毛の長さも、色も、年齢も、集まっている主婦たちがそうであるように、猫たち一匹一匹が違っている。
共通している点は猫であるということ以外で言えば、主婦たちに飼われているペットであるということくらい。
それらの猫を連れているということは、これは猫たち、あるいはその飼い主たちの交流会のようなものなのだろう、と思ってしまいそうになるが、そういうわけでもなかった。
交流会、などという漠然とした呼び名はそこになく、彼女らは明確な一つの目的のために、猫を連れてこの場を訪れていたのだ。
その目的を果たすべく、一人の主婦が公園の中の砂場に足を踏み入れていた。
それまで、どれだけ公園の中に人が入り込んでも、その砂場には誰も足を踏み入れていなかった。まるで聖域のような扱いだが、それは間違いではなかった。
一人の主婦が猫を連れ、砂場に足を踏み入れるや否や、公園中の主婦たちの目が一斉に砂場に集まっていた。
砂場に入った主婦は、この集合住宅の中では若く、少し前に結婚したばかりの新婚だった。集合住宅に住むと決めた段階で、噂話程度には聞いていたらしく、引っ越し初日から挨拶がてら、近所の主婦たちに今日のことを聞いて回っていたくらいだ。
曰く、彼女は幼き頃から猫を飼っていたらしく、それが彼女の中に確かな自信を作り出している様子だった。
実家で飼っていた猫の一匹を連れ、砂場の中に足を踏み入れた彼女を目にし、周囲の主婦たちは息を呑んでいた。全員が揃って空気を読み合い、誰が動き出すのかと探り合っている様子だった。
そこで一人の主婦が不意に動き出す。緊迫感の中を切り裂くように歩いて、砂場に足を踏み入れた瞬間、どこからか、No.2、という声が飛び出した。
それを聞いた若い主婦がやや表情を強張らせる。
いきなり、と小さく零すように呟くが、砂場に一度、足を踏み入れてしまった手前、今更後戻りはできなかった。
覚悟を決めて、若い主婦が猫を砂場の上に下ろしていく。
まだ若い二歳の猫だ。ややクリーム色の毛をした雑種で、若い主婦の母親が捨てられているところを見つけ、拾ってきた子だった。
その動きを目にし、納得したように頷きながら、No.2と呼ばれた主婦が目の前に自身の足にしがみついていた猫を置く。
その猫は九歳のラグドールだったが、そのこと以上に目を引いたのが、身体の大きさだった。十キロの大台に乗った巨体は、若い主婦の猫の二倍は優にあった。
その威圧感は凄まじく、若い主婦の目の前で雑種猫はやや怯んでいる。接近するラグドールとの対比は、ダンプカーに立ち向かう人間のようにも見える。
それでも、この場に来た以上は引くことが許されない。
若い主婦は覚悟を決め、雑種猫の背を軽く押した。
それが合図であると、一言も交わさずに伝わったように、雑種猫は砂場を蹴り上げて、飛び出していた。怯んだ様子は見せながらも、ラグドールに飛びかかろうとする。
その動きを目視した直後、ラグドールは巨体は振りかざし、雑種猫を踏み潰すように身体を落とした。
砂場の砂が勢い良く舞い上がる。粉塵が砂場から、次第に公園へと広がり、周囲の主婦たちが咳き込んでいる。
幸いにも、砂場の砂にそれ以外の何かが混じることはなかった。ラグドールの身体が降り注ぐ直前、雑種猫はひらりと身を躱し、砂場の中を移動していたのだ。
確かにラグドールの巨体は見るからに脅威ではあったが、その大きさ通りの重さが、猫としての俊敏さをラグドールから奪っている様子だった。
細かい動きなら、確実に雑種猫の方が優れている。どれだけ一撃が重くとも、当たらなければどうということはない。
若い主婦は翻弄するように命令し、No.2と呼ばれた主婦は良く狙うように命令した。
お互いの猫が下された命令通りに動き始める。雑種猫は細かく動き、ラグドールの狙いから逃れるように努め、ラグドールは不用意に攻撃することなく、着実に攻撃を当てられると感じた瞬間だけに集中し始めた。
しかし、それでも、十キロを超える巨体はあまりに重過ぎたようだ。雑種猫の動きを捉えることは難しいようで、砂を舞い上げるだけの伸しかかりが続いていた。
雑種猫は踏み潰されれば一巻の終わりと思しき一撃を何とか避け、倒れ込んで一時的に動けなくなったラグドールの身体に前足を振り抜いていく。
必殺猫パンチだ。
それを食らったラグドールがニャーと鳴いた。何と言っているかは誰にも分からない。
ラグドールはすぐに身体を起こし、再び雑種猫を狙い始めた。猫パンチが効いているのかは定かではない。
ただ繰り返せば、蓄積したダメージはやがて毒のようにラグドールの身体を蝕むかもしれない。
そう思いたいところだが、この戦法の問題点も若い主婦は気づいていた。
というよりも、そこにこそ、No.2の狙いがあるのだろうと察していた。
確かにラグドールの動きは緩慢なもので、雑種猫を捉えられていないが、その動きは必要最小限に留まっている。ここまでの攻撃では、ほとんど体力を消耗していないだろう。
一方の雑種猫は、その一撃を絶対に食らえないと動き回り、体力を大きく消耗していた。このまま続ければ、やがては足も止まり、ラグドールの一撃の餌食となるかもしれない。
その前にラグドールにダメージを与えたいが、攻撃を回避しながらのカウンター戦法では、どちらが先に限界を迎えるかは目に見えていた。
このままでは勝機がない。そう悟った若い主婦は一考する。
ラグドールからの攻撃は絶対に受けられない。動きを止めるという選択肢はない。
となれば、何とかして、ラグドールに与えるダメージを増やすしかない。
攻撃手段を変えるか、と考えてみるが、これだけ動き回っている最中の攻撃を重くすることは難しい。場合によっては体力の消耗を激しくするだけの愚策になりかねない。
それではどうするかと考えながら、若い主婦はラグドールに目を向ける。ラグドールからの攻撃がある限りは雑種猫の足を止めるわけにはいかず、それが続いている状態では有効なダメージを生み出せない。
そう考える目の前で、ラグドールが身体を叩きつけるように倒れ込んだ。その一撃を雑種猫が躱し、砂が大きく舞い上がっていく。
その光景に若い主婦は思い至り、雑種猫に指示を飛ばしていた。
目標はラグドールの四肢である。
雑種猫は言われるままに飛びかかり、ラグドールの四肢に必殺猫パンチを繰り出した。ラグドールの身体は震え、ニャーと鳴いている。それが何を意味するかは分からないが、この攻撃にダメージがあるかどうかはどうでもいいことだった。
ラグドールが起き上がろうとする。そこでラグドールの動きが止まる。
雑種猫による一撃を受けて、ラグドールの四肢は完全に砂の中に埋まっている状態だった。そこから抜け出そうと足掻いてはいるが、ラグドールの重さが仇となって、身体はどんどん砂の中に沈んでいる。既に四肢は完全に固定されたと思っていいだろう。
こうなれば体重差は関係ない。後は一方的に攻撃するだけだ。
雑種猫の必殺猫パンチが再び炸裂し、No.2と呼ばれた主婦が降参する形で、若い主婦の勝利が決まった。
初めて参戦しながら、見事にNo.2を倒してみせた若い主婦の存在に、周囲の主婦は騒めき始める。次は誰が行くのかと、どうするべきなのかと、囁くように相談し合う声が聞こえてくる。
それを聞きながら、若い主婦が次なる対戦相手を待っていると、ここは当然、自分だろうと言わんばかりに、一人の主婦が砂場に足を踏み入れてきた。
その姿を見た近くの主婦が声を上げる。
No.1、と。
いきなりNo.2に続いて、No.1とも戦えるのかと、若い主婦は驚きながらも、心の中で喜びを得ていた。ビギナーズラックと言うべきか、ここは一気にNo.1まで倒して、この集合住宅での地位を確立してやろうと決意する。
その前でNo.1と呼ばれた主婦が握っていたリードを引っ張って、猫を砂場に誘導する。主婦たちの間に伸びるリードは強靭な鎖のように見え、その異様さに若い主婦が眉を顰めていると、主婦たちの間からリードに繋がれた猫が姿を現していく。
それは、どこからどう見ても、ベンガルトラだった。
「いや、トラじゃん!?」
想定外でしかない姿の出現に、若い主婦は思わず声を上げていた。その声を聞いたNo.1と呼ばれた主婦はゆっくりとかぶりを振り、自信満々に断言する。
猫である、と。
しかし、その姿はどう見ても猫には見えないものだ。特徴的な柄もそうだが、何より、サイズがおかしい。さっきのラグドールですら大きかったのに、その何倍もあるトラを猫と表現するのは無理があった。
どう考えても勝ち目があるわけがない。そうは思うのだが、この砂場に足を踏み入れてしまった以上、逃げるわけにもいかない。
若い主婦は抗議したい気持ちをグッと堪え、雑種猫に指示を飛ばす。
さっきのラグドールとやることは変わらない。流石に相手からの攻撃を耐えられるとは思えないので、足の速さで翻弄しながら、隙を見て攻撃を叩き込んでいく。
若い主婦が指示を飛ばし、雑種猫が動き出そうとした。
その時、No.1と呼ばれた主婦が指示を出し、ベンガルトラが雑種猫の前に立ち塞がった。雑種猫がその威圧感に思わず足を止めた直後、ベンガルトラの口が大きく開かれる。
そして、公園が震えているのではないかと錯覚するほどの大きさで、ベンガルトラが吠えた。
その声は公園中の猫たちを震え上がらせ、中には思わず公園から逃げ出している猫もいるほどだった。
それは雑種猫も例外ではなく、ベンガルトラからの威嚇に雑種猫は足が竦んでしまっている様子だった。
そこにベンガルトラによる、猫パンチならぬ虎パンチが炸裂する。砂場の砂を大きく巻き上げ、その勢いだけで雑種猫は若い主婦の元まで吹き飛んでいた。
戦意喪失。肉体的ダメージではなく、精神的ダメージで戦闘の続行は不可能と判断し、若い主婦は降参する。
そのことに笑い声を上げるNo.1と呼ばれた主婦を見上げ、若い主婦は誓う。
絶対にいつか、あの人に勝ってみせる、と。
そのために何をするべきか、どのように修行するべきかと考えながら、若い主婦は雑種猫を労るように帰路についた。
そして、若い主婦と雑種猫の壮絶な修行の日々が始まる……。
……という翌日のことだった。No.1と呼ばれていた主婦の家に訪問者があった。何かと主婦が顔を見せると、そこに立っていた人物が口を開く。
「こちらのお宅で、トラを飼っているという通報があったのですが」
キャットファイト 鈴女亜生《スズメアオ》 @Suzume_to_Ao
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