白色郵便

@iwashidoon

白色郵便 上



 渡された巡回表に従って住所を周り、手紙を回収してはその配達を行うのが私たちの仕事です。人間と違い、天使と呼ばれている私たちには翼があり、こと配達に関してこれ以上にない適性を持った種族のため、翼の色から取った『白色郵便』という名称で呼ばれています。


「んー、次はここかな」


 本日最後となる住所にたどり着きました。しかし前線でないとはいえ、紛争区域だからでしょうか、家は抉るように半壊し玄関はなく、まるでドールハウスのように荒れた内装が露出してしまっています。


「こんにちは! 白色郵便です。何か郵便物はございますでしょうか?」


 叩く戸がないため、声を張って呼びかけなければなりません。前線近くではそもそも家自体がない、なんてこともあり、虚無に呼びかけることも間々ありましたので、分かりやすく呼びかけるものがあるだけ助かります。

 しかし避難したのでしょうか、手紙を持った人間が現れません。


「……」


 内容も聞き取れないほどに微かな声でしたが、確かに生きた人間がいることを確認しました。足元と、天井と、あと壁にも注意しながらお邪魔しましょう。幸いにも天使は非常に軽いです、床が抜けることはなさそうですね。


「こっち……」


 自国の軍人のようです。手を挙げて場所を報せているつもりの腕は、ほんの少し手首が上がった程度で、ひどい衰弱状態にあることが伺えます。出血の具合から見るに、彼は戦地から後退してきた兵士なのでしょう。


「こんにちは、何か郵便物はありますか?」


「これ……を……」


 所々血ににじんだ、しわの伸びた封筒を受け取りました。といっても、よれた手から勝手に封筒を取ったのは私なのですが。


「すみません、宛先が記されていないようなのですが」


「…………」


「困ったな」


 亡くなってしまいました。これでは宛先が分かりません、どうしましょうか。





 私たちの使命は手紙を届けること。宛先や差出人に不備があった場合、返却をすることが規則ですが、その相手がいなくなった今、手紙の所有権は宛先にあります。つまり、私はこの手紙を宛先に返却しなければなりません。


「担当区域から外れてなければいいけど」


 識別表から所属と、名前がウィルであるということは分かりましたが、日記手帳のようなものは持っておらず、愛する人を忘れないためのロケットも身に着けていないようで、所属していた隊へ調査をする必要が出てきました。


「先に、他の手紙を配達しなくちゃな」


 午前に手紙を回収し、午後に配達を行えるよう業務が調整されています。しかし宛先を調べる仕事が増えたため、配達を少し急がなければなさそうです。

 通常ならば午前の業務が終了した段階で、少しの休憩をとるのですが、今回はなしにしてしまいましょう。もともと休息を必要としない天使にとって、休憩なんてものは便宜上だけの文句で、あってないようなものですから。





 最寄りから順に配達するため、最初の手紙は先ほどよりも少し危険度の高い紛争区域です。敵国が直接攻撃対象とする可能性がある区域ですね。郊外ということもあり、跡形もないかも知れませんが、地域についての詳しい情報を私たちに渡されることはないため、とにかく行ってみるしかありません。

 事前に生死を知れれば、より多くの手紙を配達できるのですが、存在しない手段を愚考しても仕方ありません。


「よかった、家屋はまだ破壊されていないようですね」


 遠くから生暖かい風に乗った爆発音が聞こえる程度で、ここ一帯で激しい戦闘が行われているということはなさそうです。

 戦場では障害物をひきながら動く戦車の音や、陸地に掃射を行う戦闘機の音で声を簡単にかき消してしまいますから、比較的急いでいる今、このように静かな配達先で運がよかったと言えるでしょう。


「こんに——」


 ダン!ダン!ダン!ダン!ダン!ダン!


 銃声に首を傾けると、私を射撃している敵国の兵士と目が合いました。ここが静かなのは、占拠された後だったからなのでしょう。銃声に反応した兵士たちが、ちらほらと頭を出してこちらに注意を向けています。こういった狭い居住区だと、入った時点で勝負が決着してしまうこともありそうですね。


「くそっ、天使かよ」


 天使の特性は他国にも知れているようです。私たちは決められたものにしか干渉できませんし、決められたものにしか干渉されません。もちろん、決められたものといっても、それは人間が勝手に作った言葉上の制約であるため、定義が微妙なところではあるのですが、とそれはおいておいて。


 つまり私たちが干渉できるものは、生活や業務に必要なちょっとした道具や、手紙だけだということです。これは天使が兵器を所持することに対する、人間の恐れからくる制約だそうです。


「あなたがアレクさんですか?」


「いや、ああ。ここに住んでたやつなら二日前に死んだよ」


「そうですか、ではもうこの手紙は要りませんね」


 宛先を失った、所有権を誰も保持しなくなった手紙は焼却します。中身の見られなかった手紙の宛先は宙へ舞うわけです。文字通り、この灰のように。受け売りですが、なかなか詩的な表現でしたね。


「なあ、お前ら天使ってのは、解放されたいとか思ってないのか?」


 彼は相手の目を見てしゃべるのが苦手なようです。天使だと分かった時から、ずっと私の靴ばかり見つめています。


「解放が先なのではなく、抑圧が先なのですよ。聞き方が間違っています、正しくは抑圧を感じていないのか、です」


 彼と目が合いました、二回目です。その目は分かりやすく私に答えを求めてきています。それは興味という知的好奇心からくる欲求ではなく、自身にとって必要であるから求めているような、そんな目です。


「その解答は明確で、全く感じていません」


 抑圧を感じない理由を求めるということは、彼自身、何かしらの抑圧を感じているからなのでしょう。私の回答であわよくば解放されたいという、積極的に求めることをせず、ただ望むだけの、ある種の乞食的な欲求のようです。


「生の終わりが抑圧であるというのは、ただの妄想ですよ、兵士さん」


「ふざけるなよてめぇ!」


 怒らせてしまいました。


「俺たちが、望んでここに来たと思うか⁉」


 つかめないと分かっているのに掴もうとする。答えを知っているのに答えを求めようとする。主語がと態度が大きくなるのは、自分の発言に自信がないからなのでしょう。感情的になるのは、彼の個性なのかも知れません。他の方々は、何も反応していませんから。


「大丈夫ですよ、いつかきっと分かりますから」


 幼く見えてしまう人に対して、あれだこれだと言っても逆上ぎゃくじょうさせてしまいます。特に彼の職業はストレスのかかりやすいものですから、結論づけた言葉よりも、曖昧な表現で幅を持たせた方が精神に対する負荷は少なくなるはずです。


「それでは」


「ちくしょう…っ」


 休憩をなくして正解でしたね。時間に余裕があると、こういったイレギュラーが発生しても影響が少なくて済みますから。といっても急がなければならない事実に変わりはありません。

 そういえば、敵国の民衆に対するプロパガンダとして『天使に人権を』というものがあるそうです。権利や契約など、空気から作られたような言葉には少し親近感が沸きます。われわれも空気からできたようなものですから。





 仕事も時間も進み、太陽が隠れ始める頃合いになってきました。宛名のない手紙を除いて、次が最後の配達です。

 より郵便局の近くで仕事を完了できるよう、最後の郵便物は内地になることが多いです。今回も例外なく、次の手紙は内地のパン屋さんになりました。見下ろしている煙突から、パン独特の匂いが空へ漂い流れてきます。


「こんばんは! 白色郵便です、手紙をお届けに参りました」


「こんばんは、今日はなんだか早いねえ」


 郊外よりも生活の豊かな人が多く住んでいます。穴の空いていない屋根、明るく温かい部屋、捨てるほどある大量の食事、そして郊外でめったに見かけることのない高齢の人々。ここの主人も多分に漏れず、ふくよかな中年の女性です。

 しかし、長く時を過ごしているからなのでしょうか、郵便局の業務内容は積極的に公開されていないはずですが、彼女は少し把握しているようです。防ぐべきものでもありませんが、少々危うくも感じてしまいます。


「そうなんです、しかしどうしてそう思ったのですか?」


「それはだって、あなた達が遠くから郵便局に帰るのを見たことがないんですもの。でも配達はしなくちゃいけないでしょう? だから最後の配達を郵便局の近くで済ましてるのかなって」


 郵便局はこの都市で最も高く、そしてここからもそう遠くないため、想像にかたくなかったのかも知れません。しかし、こうして私に聞くまでは、考えこそあれど不確かなままであった、ということを考えると、私の同意を以て確かなものにしてしまったのは失敗でした。

 きっと、こうして突き詰められていくことで、秘密が秘密のままじゃなくなるのでしょう。


「よく見ていらっしゃるのですね」


「ええもちろん。そうだ、まだ配達が残ってるなら、次の人にこのパンをお裾分けしてあげて」


 パンの詰められた紙袋をもらいました。郵便物を受け取る時間帯ではありませんが、次というと調査へ行くための前線になります。

 しかし、次の配達はここよりも郵便局に近い場所だと思っている彼女の、この提案を断ってしまうと、より興味を引いて詮索を進めてしまうかも知れません。


「ええ、構いませんよ」


「ありがとう~」


 いくら時間に余裕があっても、対処できないイレギュラ─は存在するということを改めて思い知らされました。ちょうど郵便バッグに入る程度のパンを渡されたのも含めて、観察眼に優れたご夫人でいらっしゃることが分かります。


「おねえちゃん、そらとべるの?」


「あらあ、出てきたの」


 子供のようです。母親が会話をしたことで警戒心が溶けたのか、カウンターの裏から恐る恐る顔を出しては近づいてきました。天使を近くで見る機会があまりないのでしょう、私の顔と翼を交互に、好奇のまなざしで見上げています。


「ええ、私に性別はありませんが、空を飛ぶことはできますよ」


「へ~」


 会話が終わりました。


「それじゃあ、白色さんにばいばいして」


「ばいばい~」


「はい、さようなら」


 反省を生かしてここは一度、郵便局側に飛ぶこととします。

 パンの匂いがつかないよう、手紙は別のポケットに入れておきましょう。戦地の方にとって、よりよい補給になりそうです。





 夜も更け、太陽も眠り、強い風と銃声ばかりが吹く頃。比較的浅い地塁からなる大地形の最前線では、こんな真夜中でも戦火が止むことなく瞬き続けています。私が目指すべき場所は、その最前線から最も近い第一前線に張られたテント群です。


「こんばんは! 白色郵便です」


 天使がこの時間にいることは当然に不自然ですから、敵でも侵入してきたような面持ちで注目を集めてしまいました。紛争区域で向けられたものと似たような目線ですが、しかし先ほどとは違い、刹那の警戒もつかの間、皆すぐに元の業務へと戻ってゆきます。誰も自分事として考えていないからなのか、いや、自分事として考えるべきではないからなのでしょう。

 負傷者がより楽に寝転ぶための気持ち程度のシーツが、じかに地面へと並べられているここは恐らく戦陣医療テントで、この奥が作戦指揮のテントのように見えます。ここで調査を完了することができれば、偉い人の邪魔をせずに済みそうです。


「すみません、ウィルという方をご存じですか?」


「あ……?」


「ウィルという方をご存じですか?」


「……し、知あ……なぃ……」


「ご協力ありがとうございました、こちらのパンをお受け取りください」


 このテントには黄色のトリアージ・タッグを着けられている方が多く見受けられます。数名の赤や緑が比較的上級の人間であることを鑑みるに、この戦線でのトリアージは間引きの意味合いが強いのかも知れません。つまりこの戦争、まだ撤退を考えていないということです。


「すみません、ウィルという方をご存じですか?」


「なんだ? なんで天使がこんな時間に前線にいるんだ?」


「ウィルという方が所属していた隊がこちらでしたので、ウィルさんを知っている人を探しにやってきました」


 少し、いえ、かなりいぶかし気な顔をされましたが、少し長めの瞬目まばたきでその疑念も消化したようです。


「上官だったら覚えてるからな、どうせ二等以下だろ。覚えてられるかよ」


「そうですか」


 所属こそこの第一中隊となっていますが、その中でさらに二等以下となると、知っている人を探すだけでも骨が折れそうです。その上、宛先を知る必要がありますから、できるだけ早く済ませないと夜が明けてしまうかも知れません。


「犠牲者名簿でも見て来いよ。書いてあったら死亡、書いてなきゃどっかにいるか、戦時行方不明者かだ」


 上等で緑色、加えて中年であるところを見るに、戦時経験に富んでいる方のようです。先ほどの方と違い、コミュニケーションに余裕が伺えます。


「ただ手紙があるってことは確かに存在した証拠だ、戦争じゃ行方不明のまま忘れられてなかったことになる奴だっている。手紙があるだけ、そいつはまだマシだな」


「いえ、ウィルさんは差出人で、死亡の確認は取れています」


「ん?」


「死亡直前のウィルさんから宛先のない手紙を受け取りました。この場合、所有権が宛先の人間に移るため、本来の宛先を探して調査をしに来たんです」


「それじゃなんだ、ウィルって奴は敵前逃亡の脱走兵ってことか」


「ええ、恐らくは」


 先ほどまでの落ち着いた表情が、脱走兵だと確信付いた瞬間、あきれたような面持ちに変わりました。

 みな戦っているのにどうして一人だけ逃げたのか、覚悟を持って参加したのではないのか。ウィルさんがこういったある種の軽蔑を向けられるのも必然なのでしょう。


「ま、逃げ出す奴は結構いる。一々気にしてても仕方ないさ」


 感情の制御に長けている方ですね、だからこそ、この戦時状況でも長くご存命なのかも知れません。

 どうやら喋ることがなくなったのか、横になって天井を見上げてしまいました。協調性に乏しい人間は、やはり敬遠されてしまうようです。


「ご協力ありがとうございました、こちらのパンをお受け取りください」


「白色は補給もやるようになったのか?」


「いえ、一つ前のパン屋さんのご夫人から頂きました」


 こういった美食を前線で見ることはめったにないようですから、冷めてしまったパンでも、この方の表情が和らぐことには納得がいきます。


「ありがとう、もしまた会ったらお礼を言っておいてくれ」


「はい、かしこまりました」


「ああいや、待て」


 なんでしょうか、という間もなく、どこか急くように会話を進めていきます。


「お前は、今日なのか?」





 天使という存在がなぜ郵便をしているのか、なぜ郵便以外の事物に干渉できないのか。人間の技術によって、半永久的に生み出され続ける私たち天使は、考えてみれば当然ですが、手紙の配達をするためだけに創られたわけではありません。もともと私たちは、追い込まれた自国が多大なる犠牲と研究の結果創造たるに至った、殺害を目的とした兵器なのです。


 手紙を運び終えた私たちは一度、郵便局に戻り、定時になると決められた数だけの個体が戦場に飛んでいきます。たどり着けた個体は敵陣に向けて突撃し、落下衝撃による自爆をすることで攻撃を行います。戦争で物理的な資源の尽きた自国が編み出した、文明技術の結晶らしいです。


 郵便局に戻り、そこで決められた個体だけは、干渉できない制限と郵便という役職から解放されて、空へ飛び、その光輝く姿は流れる星のようで、美しいとすらされているようです。反対に、自爆しても瞬間的に膨大な光を放つ私たちは、戦場で敵味方双方の視界の妨害を行うものとして、あまり好かれてはいないようですが。


 このことから、先ほどの質問の意図は至って明確です。そろそろ爆撃の始まる定時、頃合いのため、聞いてきたのでしょう。ここで自爆されては敵いませんからね。

 しかしなぜ、彼は爆撃が天使であることを知っているのでしょうか。通常、強い発光で見えないはずなのですが。


「すみません、質問の意図が分かりません」


 私がもし、爆撃について知らなければ返すであろう回答です。ここで、『どうしてそのことを知っているのですが』なんて聞いてしまった暁には、パン屋さんの時と同じてつを踏むことになってしまいますからね。


「嘘だな、知ってるはずだ」


 どうしましょう、嘘をついていることがバレてしまいました。人間とは円滑なコミュニケーションを取らなければなりませんが、同時に機密も守らなければなりません。しかしどうやら、彼は機密を知っているようです。


「そうですね。すみません、嘘をつきました」


「てことは知ってるのか?」


「いいえ。嘘はつきましたが、実際のところ自分が今日かどうかは、その時にならないと分かりません」


「そうか」


 少し視線を落としたように見えます。何かに落胆したような、何か気が落ちるようなことでも発覚したのでしょうか。その理由は不明のままでよいのですが、どうして爆撃が天使によって行われているのかは、問う必要があります。もし情報が漏えいしているのならば、今後の機密保持に関わる重大な問題となってしまうからです。


「しかしなぜ、そのことを知っているのですか?」


「ん、いやあなに、俺が最前線に出てる時、たまたま目の前に降って来てな。それで知ったんだ」


「なるほど、そうでしたか」


 この方の動体視力がよかっただけかも知れませんが、落下の直前などは案外見えているものなのですかね。爆撃は基本的に、自軍を避けるようにして行うものですが、それでも見えたということは、この方は敵の顔も見えるような最前線に出ていたということになります。

 見えるくらい接近していたにも関わらす、どうして生還しているのでしょうか。人間は底が知れませんね。


「しかしなんだ、差出人は死亡していて宛先も分からない手紙なんて、どうやって届けるつもりしてんだ」


「それは、なんとかして探すしかありません。その時がくるまで、私たちの仕事は手紙を届けることになっていますから」


 実際、具体的にどう探すかまでは考えることができませんでした。こういったイレギュラーが初めてだということもありますが、総当たりで調査をする以外、宛先を見つける効率的な手段が思いつかないのです。


「所有権者に返すってだけなら、うちのお偉いさんにでも渡したらいいんじゃないのか?」


「お偉いさんが宛先なのでしょうか」


「違う、かは封を切ってみないと断言できないが。ウィルの所属がうちの分隊なんだったら、宛先が分からない以上、そこで最高位の人間に所有権を移してもいいじゃないのかってことだ」


 宛先と所有権者が同一のものか、私は知りません。

 果たして、返却をする理由は何なのでしょうか。正しく所有権のある人間に届けるためなのか、正しく手紙を届けるためなのか。

 業務内容は全て頭に入っているはずですから、この答えが分からないということは、それはこの郵便という仕事において定義付けされていない処理だということになります。

 本来ならば郵便局の人間に聞き、新しく定義付けをしてもらうところですが、しかし、現状の定義付けされている範囲内で考えると、この手紙は郵便局へ戻る前までに届けるべきということにもなります。


「返却理由が、所有権者へ届けるためなのか、正しく手紙を届けるためのなのか。この仕事にはそれが決められていません」


「それで、持ち帰ることもできないから探してるのか」


「はい」


 イレギュラーにイレギュラーが重なってしまいました。所有権者への返却が目的であると分かれば、この方の言った通り、この分隊で最高位の人間に渡すことが正しいのでしょう。しかし正しく手紙を届けるためだった場合、宛先を正しく知る必要があります。

 一方が正しい時、一方が正しくなくなる。答えは持っているのに選択する術は持っていない時、どういった基準で判断すればよいのでしょうか。

 合理的な選択が正しいのか、それとも論理的な選択が正しいのか。私は今、無意識的に後者を選択していたようですが、しかし論理的な選択をして宛先を完全に見失った時、仕事を完了できなくなることに気がつきました。完了できない可能性のある仕事を与えらることはあるのでしょうか。答えがでません。


「できないことはできない、分からないことは分からない。無理にどうこうしようとしなくても、自分より知ってる奴に任せるのがいいんじゃないのかと、俺は思うがね」


「しかし手紙を届けることが、私たちの仕事なんです」


「でも定義されてないんだろ?」


「はい」


「だったら持ち帰るしかねぇよ。定義付けするのは、決める権力を持ってる奴の仕事だ」


 確かに、郵便局には郵便以外の仕事をしている人間もいます。定義を考えることが彼ら彼女らの仕事なのだとすれば、手紙を持ち帰り、新しく定義付けしてもらうことが正しいと考えることもできます。


「ですが、この手紙を配達することも、同時に私たちの仕事なんです」


「よし分かった、封を切ろう」


「え?」


「それは俺宛だ間違いない、それに今思い出したがウィルは俺の親友だったんだ。この前、俺宛に手紙を出すとかなんとか言ってた気がするからそれなんだろう」


 やっと見つかりました。宛先はこの方だったんですね、これで仕事を全うできます。偶然ですが、一番最初に入ったテントがここでよかったです。


「そうだったんですね、では——」


「違ぇよ!」


「えぇ……」


 突如、強烈に瞬く輝きが薄暗いテントを点滅させるようにして刺し込んできます。


 爆撃の始まりです。





 遠くから私たちの音が聞こえてきます。普通の爆発よりも、少し高い音で破裂する音が天使の爆撃音です。何度も何度もテントの隙間から刺し込んでくる光の数だけ、天使が投入されている、ということですね。

 しかし集中して聞いてみると、すれ違う光の数よりも、爆撃音の方が少ないことが分かります。語弊ではありますが、不発弾といったところでしょうか。着弾前に撃ち落とされてしまったのでしょう。その後、自爆することは決まっているので、どちらにせよという話ではあるのですが。


「近いな……」


「ええ、もうそんな時間ですね」


「……そうだな。しかし、ここでお前が飛んでかねぇってことは、お前は今日じゃないってことになるのかね」


「そのようですね」


 詳しい原理は分かりませんが、郵便局に一度戻ることが最低条件のようです。ということはやはり、手紙を正しく配達することが第一優先なのかも知れません。


「安心したか?」


「まだ問題は解決していないので、安心できる状況ではありません」


「そういう意味で聞いたんじゃない。安心てのは往々にして恐怖の後に来るもんだ、俺が聞きたいのは、お前は特攻することに恐れを感じていないのかってことだ」


「はい」


「どうして?」


「それが天使だからです。あなたたちと同じように」


 といっても会話で応えられる言葉としてはこんなところですが。実際、天使という一つの、生物群に似た一個体としての機能の一つとして爆撃があるだけで、それは人に多様な機能があるのと同じようなもの、という話なのですけれどね。


「あなたたちが声を出したり、指を動かしたりするのと同じように、手紙を届けたり、爆撃をしたりするだけですから、恐れも何もありませんよ」


「濁した俺が悪かった。聞き直す、死ぬのが、終わるのが怖くないのか?」


「それが機能の一部ですから、なんとも」


 なんだか質問が堂々巡りのような気がします。

 この方も同じように感じているのか、考え込んだ後、脳の疲れをとるように、眉間に指を押し当てています。


「興味本位で、聞かなくていいことを聞いた。すまん」


 目を合わせず、頭をこちらに向けることもなく、ただぼんやりと空間を捉えながら、謝られてしまいました。


「疲れているようですし、私はもう行きますね。ご協力ありがとうございました」


「言い忘れてた」


 この方は会話のを終わらせるのが苦手なようです。先ほどと同じように止められてしまいました。ここはなんでしょう、 という間もなく、どこか急くように会話を進められてしまうので、ゆっくりお話を聞くとします。


「俺の名前はホラスだ。きっとないだろうが一応、お前は?」


「天使ですよ」


「ああそうか、じゃ次から俺に会った時はショウですって名乗ってくれ。天使は見た目が似ててよく分からん」


「分かりました」


 人は昔から、言葉を新しく増やしてゆくことで語彙ごいを増やし、思考を細分化しては文明を発達させてきました。

 名前というのは、それとはまた違った意味があるのでしょうか。言葉よりもその意味の方が先にきてるような、そんな矛盾を感じます。


「あと、俺がお前に『今日なのか』って聞いた時、お見通しだでもといわんばかりに看破したよな」


「ええ、見抜かれてしまいました」


「あれはブラフだ」


 なんと、だまされていたのですね。騙す目的が分からなかった以上、いえ、そもそも騙されていることに気がつくことができなければ、騙す目的も聞けないため、どう頑張っても結局は答えるしかなさそうです。


「分かってましたよ」


「え? マジかよ……」


「ブラフです」


「……ははっ、そうかそうか」


 仕返しもできて、愉快な会話でした。楽しい。


 しかし今夜は冷えますね、それでも美味しそうな匂いを漂わせるパンは、このテントでなんとも破壊的な威力を醸し出しています。





 爆撃の振動で、共振しやすい医療機器が絶妙に震え始めたのと同時に、奥のテントからたくさんの徽章きしょうを身に着けた方が姿を現しました。彼がテント内を見渡し終えるより前に、私と目が合うだにこちらに迫ってきます。


「どうした、なぜ天使がこの時間に、よりによってここにいる」


「こんばんは、白色郵便です。手紙をお届けに参りました」


 階級は軍曹、やや白髪が混じってはいますが、整えられたひげや髪からは気品を感じます。戦場で気品のある人間ということは、それはホラスさんの言っていた偉い人で間違いなさそうです。


「お疲れさまです。どうにも脱走兵のウィルとやらから、死ぬ直前に宛先のない手紙を渡されたらしく、識別表から所有権者を、書かれていない宛先を探しにここへ飛んで来たらしいです」


 軍曹さんが来るや否や、上体を起こして滑舌よく喋っています。私が来た時とは大違いですね、全く。


「今際の手紙か、見せてみろ」


「え……?」


 本来、天使が認証しない限り、手紙を含めた天使の周辺物に他人が触ることはできないはずです。はずなのに、曹長さんは私から手紙をひったくることができました。

 一定の権力がある人間ならば可能なのでしょうか、しかし曹長でその権限があるとは考えられません。それとも返却対象の手紙は私の管理下にないということでしょうか。どれもこれも、そんな話は聞いたことがありません。当然、業務の詳細にも載っていません。


「ちょっと待ってください! それはまだ宛先が分かってなくて——」


「所有権の話だろう、だったら軍の人間にあるはずだ。それに内容が軍事的なものの可能性もある、それが脱走兵のものだったらなおさらだ」


「手紙は、正しく届けるべきで……」


 曹長さんから無意識に手紙を奪おうとする右手に、私は否定することなく身を任せてしまいます。おかしな話です、人間の作った天使が人間に反抗的な精神を抱くことはできないはずなのに、そう作られていないはずなのに。


「おいっ」


「私は……」


「そんなことより曹長、爆撃が昨日より近くなっているかと思うのですが、もしかしてその件でこちらにお越しなったのでしょうか?」


「……ああ、確かにそうだ」


「私は手紙の話よりも、そちらの方が重要であると愚考しているのですが」


 急に鼓膜が敏感にでもなったかのように、軍曹さんのせき払いがいやに大きく聞こえます。私に興味をなくした軍曹さんはテント中央に体を向けると、肺を膨らませて大声を出す準備をし始めます。その一挙一動が、私の血圧を下げるような、いや、血はないはずなのですが。


「先ほど、大隊長から後退行動の命令が下った。行動開始時刻は正子、三十分前には編成を開始する、それまでに整列を済ませておけ。持ち出すものは最低限、テント自体は放棄する。行動は徒歩で行い、負傷者も第二前線へ運び出す。以上」


 聞くだに伝令兵が大急ぎで、テントから駆け出して行きました。命令に伴い、療養していた兵士の方々も助け合いながら準備を進めていきます。


「手紙は自分が確認しておいてもよろしいでしょうか。ウィルとは旧友ですから、何か問題がありましたらすぐに報告させていただきますので」


 起床したホラスさんは、下から頼むように猫背を演じています。横になっている時は気がつきませんでしたが、かなり高身長だったようで、軍曹さんよりも高いことが分かります。


「まあいいだろう、さっさと動け」


「ありがとうございます」


 士気の下がる後退行動時に、問題を問題として扱いたくないのでしょう。曹長さんは手紙をホラスさんに渡すと、姿勢を崩すことなく元のテントへと戻って行きました。


「……持てないはずだったんです」


「ああ」


「手紙も、奪うことはなかったはずなんです」


「そうだな」


 疑問を整理するように言葉に出してみますが、整理するだけで答えは見つからず、手紙を届けたいという意思さえも薄くなりそうで。それだけは、それだけは絶対に忘れてはならないと、呪文のように言い聞かせることしかできません。


「お前は考えるように作られていなかったし、だから考えてこなかったし、今も考えることは難しい」


「はい……」


「口調も調子も変わってる。おかしなことだらけだが、今は目の前のことに集中しろ。俺はお前の分の装備を集めとくから、先に外の空気でも吸ってこい」


 私はただ、何も考えることができず、ただ言われた通りにすることしかできませんでした。





 冷たい空気が喉の湿度を奪いながら、気管を通ってゆくのが分かります。丸で人間のように。

 徐々に人が集まっているようです。ホラスさんの班に合流して、あわよくばウィルさんのお知り合いを探してみることにします。今できることは、それしかないのですから。


「こんばんは、白色郵便です。ウィルという方をご存じですか?」


「ああ白色か。お前らと行軍するなんて、この国もとうとうだな」


 手紙だけでなく、体自体にも干渉されるようになってしまっているようです。

 初めて肩を叩かれて少しよろけてしまいました。どうやら私に体幹はあまりないようです。しかし普通、天使がほとんどのものに干渉され得ないことを皆さん知らないのでしょうか。

 敵兵でも知っている原理のはずですが、当たり前のように叩いてきます。ちょっと、力強すぎませんか。


「ウィルなら知ってるぜ、有り合わせだったが同じ分隊に居たからなぁ。あいつ生きてんのか?」


「ご存じなんですね!」


 よかった、もしかしたら、ようやく手紙を届けることができるかも知れません。


「すみません。ウィルさんは脱走し、その後、この手紙を遺して他界されました」


「ああ脱走ね。ま、クソみてーな戦線だったし、死んだのは知らねーが、脱走できただけ上出来だろ」


 興味がないような、若く張りがある顔には似つかわしくない、乾いた微笑ほほえみを浮かべています。しかし、話を続けるか悩んでいる暇はありません、出発前に聞いておかなければ。


「ウィルさんは手紙に宛先を書く前に亡くなってしまいました。ウィルさんが手紙を送ろうと思うような人に心当たりはありませんか?」


「すまんが知らないね」


「そうですか……。では他にウィルさんを知っている方などはご存じですか?」


「知らないね」


 早くも手がかりを失ってしまいました。しかしまだ全員に聞いたわけではありません。後退行動が終わったら、他の隊の方々にも聞いて周ってみましょう。知り合いというだけなら、他の戦線にいるかも知れません。


「臨終前の手紙なんて、普通に考えたら家族だろうよ。あ、だからウィルの家族を知ってる奴を探してんのか」


「はい、その通りです」


「なるほどな、じゃ俺も暇な時に探しといてやるよ。分かってもお前の探し方分かんねーけどな」


 なんと嬉しい方なのでしょうか。私の仕事だというのに、それを手伝ってくれるだなんて。しかし、探される側になったことがありません。私を探す方法なんて、考えたこともありませんでした。

 そういえばちょうど、名前を頂いていました。こういった場面では非常に便利なものですね。


「天使は目立ちますから、天使のショウはどこか、辺りの人に聞けばたどり着けると思います」


「おお、お前らって名前あんだな。気ぃ向いたら探しといてやるよ」


「はい、ありがとうございます!」


 こういう時、人が名前を聞き返すのはどうしてなのでしょうか。特段、相手は名前を聞かれないことに興味はありませんし、私もこの方に名前を聞く意味が分かりません。それに、聞けばかえって気を損ねてしまうかも知れません。

 まあ難しいことは考えずに聞いてみましょう、同じ班のようですから、知っていればお互いよりよい関係を築けるはずです。


「すみません、あなたの名前を伺ってもよろしいでしょうか?」


「ん? コウルだけど」


 どうやら聞かれることにも、言うことにも興味がなかったようです。名前はそれほど重要ではないのかも知れません、特別感を抱いていた自分が恥ずかしいです。





 装備を整えた兵士の方々がぞろぞろと集まってきます。敵国に後退行動を悟られないよう、人のいなくなったテントにもいつも通り照明はついたままで、爆撃の止んだ今、幕から漏れる光は地面を立体的に照らす貴重なあかりとなっていました。

 ぼんやりと眺めていた幕からちょうど、装備を両肩から下げたホラスさんが出てきました。


「おーい! 遺書のある奴は今のうちに白色様に渡しておけー!」


 とんでもないことを言い始めました。確かに、事前に遺書を用意している兵士の方もいらっしゃいますが、私に渡すということは届けることが前提になるわけですから、死ぬ気でいる人に声をかけているようなものです。


「えっ」


 ホラスさんの声を聞いた方々が、隠すように身に着けていた封筒を取り出し、私の意思に関係なくよろしくよろしくと、その遺書を渡してきます。途中から、バッグに直接いれてくる方もいて、あふれかえるとまではいきませんが、過去に例をみないほど敷き詰められてしまいました。


 最後には曹長さんも来て。


「間に合わなかった最前線の兵士は見殺し、敗戦一色、旗色も悪い。そうやって後退する一方で遺書もまともに置いていけない今では、誰かに預けることが何よりの救いなのだろうな」


「皆さんは死ぬことを——」


 死ぬことを受け入れているのか、恐れていないのか。何よりも、誰よりも私がそれを聞くこと、その行為にひどい嫌悪感を覚えます。なぜなら、それは死亡することを前提とした質問だからです。

 もちろん、人間は死にます。しかしなぜでしょう、私は人間の、死に対する恐怖に、冒涜ぼうとく的にも共感してしまっているのです。興味本位ではなく、ただ邪推に満ちた気遣いからくるこの質問、それを続ける権利は私にありません。

 この場合の権利とはなんなのでしょうか、意識的に、精神的に、天使が人よりも上回った存在だと認知しているからなのでしょうか。そこには自覚を持ち始め、他を評価し始めた子供の反抗期のような、そんな傲慢ごうまんさを感じます。


「——恐れていないのか、まさか天使からそんな質問をされるとはな」


 反抗期を迎えた時のような、後ろ向きに正しく成長をした子供を見るような微笑みを向けられてしまいました。しかし、その顔を正面から受け止める傲慢さに気づいてしまった私は、目を合わせることができず、ただ曹長さんの指にはまっている指輪を見つめることしかできません。


「目の前に転びそうな石がある。転べば痛いから転ぶことを恐れる者もいれば、転ぶと恥ずかしいから転ぶことを恐れる者もいる。 これらが逆転した時に起こるのが、自傷や自殺だ。逆転していなかった場合、死が先なのではなく、恐れが先なのだと、私は考えている」


 いつか言った自分の言葉を思い出します、解放が先なのではなく、抑圧が先なのだと。私たちには抑圧がありません。感じるように作られていません。だからこの話を聞いても共感してはいけないと、そう感じてしまいます。同時に、それを人に言ってしまったことを少し後悔もします。


「ホラス、お前も早いところ渡しておくといい」


「はは、ご冗談を」


 話が終わるのを見計らって、ホラスさんが曹長さんと入れ替わるようにして装備を渡しに来られました。


「よし、これがお前の装備だが。持てるか?」


 火器の類は抜かれていますが、防弾というには甚だ心もとないチョッキを渡されました。というより翼があるので、これ着そうにないのですが。


「すごく……重いです……」


「なるほどな」


 着れもしないチョッキを持たされて苦しんでいる私を見て、何か納得したようです。この華奢きゃしゃ体躯たいくから、重いものを持てそうにないことは火を見るより明らかだと思うのですが、それはそうと腕がもちそうにないので、早く返すとしましょう。


「そもそも着れないですよ、それ」


「そうだな。ところでお前って何時起きだ?」


「就寝はなく、午前二時から、昼にお休みの住所から郵便物を収集していきます」


「仕事のない時間は?」


「あまり、記憶にありません」


「なるほどね」


 睡眠はないはずなのに、空白の記憶がないだなんて。これ以上にない違和感を覚えます。

 加えて、パン屋のご夫人のような、核心の付かない質問を答えさせて、自分だけ自分の知りたい情報を抜き出して、抜き出されているような気がします。

 直接聞かれれば答えられる範囲で答えるのですが、しかし、それを分かった上で聞いているのでしょう。であれば、こちらにも講ずる策というものがあります、相手の気持ちになって、その質問はどうしたら出るのかを考えるのです。


「……分かりません」


「なんだ?」


「分かりません、どうして今の質問をしたのですか?」


 考えても分かりませんでした、考えられるように作られていないからなのでしょうか。分からないことをすぐに質問する今の私は、さながら子供のようですね。


「最近、転職を考えててな。白色郵便もありなんじゃないかって」


 わざとらしく眉にしわを寄せて、真剣そうな顔を演出しています。


「配達員は天使しかなれませんよ」


「翼さえ生えれば、俺だって天使みたいなもんだろ」


「はあ」


 はぐらかす冗談にしては、少し面白かった気がします。





 結局、私の装備は柄の長いシャベル一本になりましたが、しかしそれすらも重いため、ホラスさんが代わりに持ってくださることとなりました。つまり、私はいつも通り手紙を入れるバッグしか提げていないということです。

 少しの申しわけなさを感じつつも、しかしそもそも、これらの物以外を持ったことがないため、自分がこんなにも非力であること自体、先ほど知った驚くべき発見だったのです。これだけ非力であれば、干渉の有無など関係なく反抗の予知などなさそうですけどね。


 行軍から一時間、私たちの班は後駆しりがりの少し前でかつ、負傷者を抱えた夜行軍のため、徒歩での移動となりました。しかし、ちょうど私たちの前に負傷者群があるので、いざとなったら捨てるつもりなのは明白です。当然といえば当然ですが、常に目に入るそれはなかなかこたえるものがあります、当事者が最たるものであることを前提として。


 陽気さを見せていたホラスさんも行軍となればさすがに集中するようで、他の班の方々も五感を、この場合とくに聴覚を研ぎ澄まして警戒をしています。こんなわずかな光しかない中でもたまに、班の方々は私の方へ目を配っているのですから、なんだか足を引っ張っているような気がしてなりません。


 ドーン、ドーン、ドーン


 兵士たちが一斉に警戒態勢に、私たち周辺の兵士たちは後ろを振り返り、少し前の方々は横脇を警戒し始めます。私も振り返ると、先ほどまで駐屯していたテント群が爆撃を受けて、灯りが次々に消えてゆく光景が目に映りました。


「総員警戒! 伝令!」


 誰かが大声で叫びます。声を出す人は最小限に、報告が混在しないよう限られているようです。


「掘れるやつは塹壕ざんごうを掘れ!」


 例に漏れてホラスさんは指示を出し、私用とされていたシャベルで、班の方と協力して塹壕を掘り始めます。一気に緊張感が高まったにも関わらず、地面を掘る音以外、ほとんど沈黙なのですから、無意識的な同調圧力からでしょうか、もはやそんなことを考える余裕すらなく。


「あの、何か私にできることはありますか……?」


「ない、身を伏せてじっとしてろ」


「あ、いや、飛んで確認してみます」


「お前は飛べない、だから自分の命を最優先にしろ」


 天使なのだから飛べるのは当たり前なはずです。暗に飛ぶなと言われているのでしょうか、しかしこういった場面で湾曲した言い回しをする方ではないと確信しています。


「え?」


 いくら翼を羽ばたかせも、一向に飛べる気配がありません。一度もやったことなどありませんが、脚で初速をつけても、何をやっても飛べません。何を以て私は飛べていたのでしょうか、飛べなくなったら、どうやってたくさんの手紙を届ければいいのでしょうか、そもそもどうやって郵便局に戻ればいいのでしょうか。

 自分の所属する機関の正門すらも知らないだなんて、なんて無能なのか。


 それにどうして、本人である私ですら認知できなかったことを、ホラスさんが知っているのか。


「いいから、塹壕できるまで伏せとけ」


「はい……」


 何もできない私は地面から伝わる振動を感じながら、ただただ爆撃によって消されてゆく灯りを傍観するしかありませんでした。



十一



 班の人たちと簡易的な塹壕に隠れ、行軍再開命令までの少しの余裕が生まれました。


「これ、曲射砲ですかね」


 私と一緒に宛先を探すと言ってくれたコウルさんが、土に背を預けながら誰に言うともなく、いやここで回答をする人はホラスさんしかいませんが、手元の銃を手慰めに拭きながら質問します。


「多分な」


「いつ近づいたんすかねぇ」


「……ちょっとした隆起を使って、あるいは作って、天使の爆撃が終わって光がなくなった頃にうまいこと進ませていた、だけじゃないな。戦線が押し上げられていたのもあるが、今日は強い向かい風だった。それで爆撃がいつもより手前だったんだ」


 ホラスさんは集中して思考をしている時、人差し指を親指で軽く弾き続ける癖があるようで、遮音性のある塹壕では、よりいっそう手袋の擦れる音が際立ちます。


「絶好の前進日和、ですか」


「天気は最悪だがな」


 私には笑うことのできない冗談でした。何もしていないし、何もできないのですから。空気こそ少し和らぎましたが、同調的に微笑むこともしてはいけません。


「無人だとバレるのも時間の問題だな。敵さんの測距そっきょ士が優秀だったら次はここだぞ、覚悟しとけ」


 刹那、爆風に弾かれた土とともに、瞬間的な爆発音が身骨を震わせます。構造は人間と同じなのでしょうか、もし内臓が存在するのならば、内側から破裂しそうなほどの衝撃です。


「……優秀だったらしい」


 危機が迫っているのだから何かしないと、何か行動を起こす必要があるのではないかという強迫観念が、ただ頭の要領を占めて焦らせてきます。一つのこと以外考えられなくなっている時、それは焦燥感を抱いている時です。


「あの、どうしたらいいのでしょうか」


 当然ですが戦争の経験がない私には、何が分からないのかが分からない状況です。信じろと言われればなんでも信じることができるくらい信用をしているのがホラスさんです。どうかこっちを見て、目を見て、答えを教えてほしい。


「相手がどれだけ近づいてるか分かんねぇからなあ。下手に出て的になるよりかは、命令まで待機するのが無難ではあるな」


 しかしホラスさんは、この状況がさも当然かのように、ただ自分の指に集中するばかりです。もしかしたら、ストレスを感じている時に出る習癖だったのかも知れません。


「天使って確か神様の使いだったよな?」


「本来の意味は」


「じゃあお祈りでもしといてくれ」


 私が祈っても何にもなりはしませんが、私が祈ることで誰かの精神的な負担が少しでも和らぐのなら、やる他にありません。たしか両手の指を合わせて組んで、目をつむって——



十二



「くそ! 野砲まで出てきたぞ!」


 ホラスさんの大声と大量の爆撃音で目を覚ましました。こんな状況で、よりによって私が惰眠を犯すだなんて。祈っている振りだけして、実際は寝てましただなんて、法律で裁けなくとも最低な重罪です。


「どこにバカスカ撃てる資源があんだよ! うちってそんな嫌われてんのか⁉」


 角度をつけて塹壕を掘り進めるコウルさんの声が、ちらちらと遠くから聞こえてきます。

 まさしく乱射、質量が力も持ったまま地面に衝突する音が、絶えることなく内臓を震わせ続けます。どうして、視界は悪いはずです。


「夜なのに……」


「関係ねぇよ。弾薬は回収したがテントに筒を置いてきたのがバレた、反撃のない後退に気づいた瞬間、続けて曲射砲で制圧。俺たちが第二戦線へ下がりきる前に、動きの早い野砲で乱射。

 どこまで後退してるか分からない第二戦線は、いや、今は第一戦線か。爆撃の支援は躊躇ちゅうちょされる、そもそも撃つ必要がないからだ。夜戦で歩兵突撃は考えにくい、敵の野砲を狙うのも難しい、だったら下手に資源を消費して味方を誤射する娯楽に勤しむよりも、勝手に帰ってくる兵士だけ歓待してればいい。それを、両者とも協定でも結んだかのように理解し合ってる」


 言い切れば言い切るほど忌々し気に早口になっていきます。


「天使とかいう無限の資源があるから余裕綽々なんだろーなあ!」


 コウルさんの言葉が、痛覚の備わっていないはずの心臓を、針で引掻くように痛みつけます。

 天使が、私たちがいなければ、兵士はもっと貴重に扱われ、最前線の人が置いて行かれることも、支援を躊躇ためらわれることもなかったのでしょう。私たち天使という無限の資源が、有限である彼らという資源を、命を、その重さを肉抜きするに至らしめた根源だったのです。


「間違えてるのはこの社会だ。俺たち人間の作った社会だ。お前らはただそれに巻き込まれただけの存在だ。この現状の全ては人類の責任だ。死んでも自分のせいだとか思うなよ」


 天使を作ったのは確かに人です。しかし、であれば人を作ったのは誰なのですか。それならば、この現状は人ではなく、人を作った誰かの責任で、その人が片づけるべき問題なのではないのですか。

 今の言い方だとまるで、社会という見えない概念が人を作ったかのように聞こえます。人の作った社会の元、人が作られてゆく、それこそ無限に輪廻りんねする構造なのではないでしょうか。


 こうして、本来なら存在するべきでない種族の干渉によって、人の廻る生態系が変わってしまったとするのならば、そして真に人を想うのならば、私たちは消えるべきなのでしょう。


 ああでも——


「消えたくないな……」




「今何時だ」


「……一時五十分です」


 この人はいつも、私の知らない私のことを、私の知らないうちに思索しています。私がそれを知れることは、恐らくないのでしょう。


「よし」


 ホラスさんは塹壕の掘削作業の手を止め、最後尾で人の作った道にただ屈んでいた私の元へと、大声でなくても聞き取れるくらいの距離まで近づいて来ました。


「いいか、よく聞け」


「はい」


 ホラスさんの方が身長は高いですが、腰を落として頭の高さを合わせてくれて、顔を合わせ、目と目を合わせて対話をしてくれます。


「お前は多分、このままだと二時になった瞬間、今まで通りに戻る」


 どうして、という間もなく、いて会話を進められていきます。今はその真剣さが、はっきりと感じとれます。


「今まで通り無干渉化し、飛べるようになり、記憶も飛んで、何も感じることなく、郵便という仕事をこなすことになるだろう」


 今の私は感受性を持ち合わせていて、前の私は持ち合わせていないということでしょうか。しかし、どこからが前なのか分からなければ、どこからが異常なのかも分かりません。

 ただ分かることは、この話が本当ならば、今が失われてしまうということだけです。


「……このままだと、と言いましたよね。何か解決策があるのですか?」


「二時までに、宛先のない手紙をお前に渡せば、お前はまた今日も、このまま過ごすことができる」


「じゃあ」


 その手紙は私に返されるものだと信じて手を伸ばしたのですが、伸ばした先からリュックを避けられてしまいました。手紙に集中していて、ホラスさんの顔を見ていなかったのです。彼は急ぐ私を、哀れむような目で見つめていました。


「あの……」


「お前の使命は手紙を正しく届けること、そうだろ?」


「はい」


「だったら、渡すことはできない」


「どうして……?」


「考えたら分かるだろう、今のお前にはちゃんと考えるだけの力があるはずだ」


 現状、届けるという使命を遂行できない要素はどこにないはずです。


「飛べなくても手紙は届けられますし、郵便局の正門は分かりませんが、聞けば教えてくれる人もいるはずです。ただそうですね、ここから郵便局までは遠いですから、帰るのに時間はかかるかも知れません。午前は手紙の収集ですが、これだけの手紙があるんです。午前だって、郵便局への帰りがてら配達してみせましょう。分からないことはたくさんあって、ちょっと他の子よりも無能かも知れませんが、それでも住所は全て覚えています。正しく正しい人に届けることくらいはできますよ」


「……」


「そういえば、遺書を配達するのは初めてですね。いや、今までは手紙の内容なんて全く知りませんでしたから、もしかしたら知らないうちに届けていたのかも。ですがその時、私は宛先の方の顔なんて全く見ることができていませんでした。今ならきっと、あなたたちの雄姿くらいならば語ることだってできます。あ、死んでしまうことが前提の話ではないですよ! 遺書は書いたり渡したりしてしまっても、生きておうちに帰ることだってできますから。遺書の宛先に帰るというのは、なかなか経験する方もいないでしょうね」


「…………」


「そういえば軍曹さん、指輪をしてらっしゃいましたが、ご存じでしたか?」


「軍曹の家族は全員戦死してるよ」


「じゃあ、この手紙は……」


「宛先には誰もいない」


 それでは焼却する他ありません。——本当に?


「だ、大丈夫ですよ。天使は神様の使いですから、天国にだって届けることができるはずです」


「でも、飛べないだろ?」


「じゃあ、仕方ありません。お墓を探して、そうです、お墓に届ければいいんです」


 何が問題なのでしょうか。何か問題にすることでもあるのでしょうか。正しく届けられる理由と理屈は全て話したつもりです、それでも納得していただけないのなら一旦いったん、手紙を渡してもらってからゆっくりお話をすればいいんです。


「ではそろそろ渡してもらっても?」


「お前が爆撃で死んだら、遺書はどうなる?」


「……全部、消えてしまいます。でもそれは、もしもの話ですよ」


「ああ、そうだ。神様ですら一秒先の未来は分からない」


「あの、時間が……」


「次は俺たちだ、生存確率はかなり低い。それでも、俺たちは生きようとすることしかできないから、それだけに最善を尽くす。でもお前は、生きようと、届けようと思えば必ず届けることができる。これはもしもの話なんかじゃない、お前の選択一つで、未来は確定する」


 ——瞠目どうもくしてしまいました。私はただ、手紙を正しく届けることよりも、自分が消えたくないから、必死に言いわけをしていたに違いないのです。


 手紙を正しく届けることが、私らしさだと、そう癒着してしまっていたのです。なんだか自分が否定されてしまったような気分になります。きっと否定されたくなかったから、言葉で足掻あがいて、どうにかして生かしてほしかったのでしょう。しかし、そうですね。それは逆に、私という存在を認めてくれたということに他ならない事実なのかも知れません。


 私は、私という存在が誰かに認知されたという、その幸福を正しく受け入れるべきなのでしょう。別れが寂しいです、ホラスさんも、ちょっとは寂しがってくれるのでしょうか。

 そして、体が淡い泡沫ほうまつをきらめせながら、徐々に軽くなってゆくのを感じます。被っていた土は重力通り地面へ還り、冷たかった空気はかすめもせず通り過ぎてゆきます。


「じゃ、これ頼むわ」


 渡された手紙には、達筆に宛先が書かれていて。


【ショウ】


「宛先が……」


「宛先も宛名もお前だ、ショウ」


 どこからなくなるか分かりませんが、もし記憶がなくなればショウという名前も忘れてしまうはずなのに、分かっているはずなのに、どうやって届けろと。燃やしてしまうかも知れないんですよ。

 そうです。メモをしておきましょう、何かに書いてバッグにしまっておくのです。そうすれば忘れても、新しく記憶されるはずです。早くペンを取り出さないと、でも、ないものは見つからない。


 だからせめて、伝えたいことだけでも。


「では、ウィルさんの手紙は任せましたよ……っ」


「ああ」


「この手紙は絶対、絶対に届けてみせます!」


「泣いて濡らすなよ」


「だから——

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