第2話 坂道
振り返ると、校舎の裏に赤々とした夕陽がゆっくりと落ちていくのが分かる。また今日も、一日が終わっていこうとしている。日中はかまびすしく校内で響く声も囀りのように小さく、私が漏らすため息だけが大きく周囲に広がる。
最終下校時刻も近付いた時間帯なので、校内に残るのは部活動に精を出す一部の生徒と教員だけ。二三ヶ月前まではその中のひとりであったのに、今は徐々に歩み寄ってくる静寂と振り返るほどにもない過去の記憶から逃げるように、私は駐輪場へ向かう。
練習は地味で面倒臭いことの繰り返しで、いつも休みたい、サボりたいと仲間と一緒に口々に不平を漏らしていた。でも、そんな嫌っていた時間ですら、過ぎ去ってしまった場所から眺めると、羨ましく、もう一度過ごしたいと思えてくる。心臓は切迫してくる何者かに握られたかのように痛く、息苦しい。夏で部活を引退してから、毎日がこの調子で、夕刻になると心が苦しくなる。
ならば早く帰宅すればいいのに、未練たらしく夕焼けに校舎が染まるまで、私は校内で時間を潰してしまう。
「あれ、先輩?」
胸の苦しみをなだめ、呼吸を整えていると背後から声を掛けられた。振り返ると、部活の後輩である
高校二年になるが背は私よりも小さく、顔も幼く中学一年生と言っても頷ける容姿をした彼は、部活のマスコット的存在で入部した一年生の時から、当時の三年生や私たち二年から可愛がられていた。ただ、本人はそうした自身の容姿がコンプレックスでもあるようで、それを打ち払うように人一倍練習に精を出していた。その為、今では新たな部長として、私たちのいない部活を引っ張ってくれている。
平たく言えば、今の私としては会いたくない人間だ。
「今日も図書室で勉強ですか?」
こちらの気持ちなんて分かろうともせず、彼はニコニコと笑顔で歩み寄ってくる。いつもと変わらぬその表情を見ていると、胸中の苦しさはふつふつと苛立ちへと煮立っていき、彼にも苦しみがあるのだろうかと、ちょっと意地悪をしたくなってきた。
「ううん。」私はゆっくりと首を振り、じっと彼の顔を見詰める。「浩平くんのことを待っていたの。」
「えっ、」
笑顔は一瞬で固まり、開いた口がパクパクと鯉のように動く。
出処不明の嘘か本当かも分からない噂だけれども、浩平が私に好意を抱いていると以前耳にした。本当ならば、好いた相手に言われて喜ばないはずはないし、嘘だったとしても、異性に言われて喜ばないはずはない。
「ウソ。」一拍の間を開けて、私は口角を吊り上げて笑う。「冗談だよ。」
「なっ、」浩平の顔が今度は一気に赤くなる。「からかわないでください。何か、いつもと雰囲気が違うから、てっきり、」
「てっきり、何?」歩み寄り、ちよっと手を伸ばせば触れ合える距離で足を止める。「本気にした?」
笑いながら彼の顔を覗き込むと、返ってきたのは真面目な視線だった。
「やっぱり、何かあったんですか。いつもの先輩と違う気がします。」
その指摘に、一瞬心臓を射抜かれるような息苦しい衝撃を覚えるが、苦しさを面に出す弱さなんて後輩に晒せるわけもなく、私は唇を緩めたまま頭を振る。
「この時期の三年生には色々とあるの、」
からかうことも上手くいかず、私は何だか馬鹿馬鹿しくなって自転車の元に戻った。
「進路とかですか?」
「そう、」
家族や先生の言葉が脳裏を過ぎり、同時に胸の苦しさが増していく。
「先輩は進学ですよね。東京に行くんですか、それとも地元の大学ですか?」
「うーん。どーしよーかなー。」
ずけずけと無遠慮に質問を重ねてくる彼に、私は極めて軽い口調を試みるが、心の中はまったく軽くならない。
「それより、浩平くんはどうするの。何か希望先はあるの?」
「まあ、ないこともないですが、まだ一年ありますし、それこそ『どーしよーかなー』ですよ。」
一年前は、気軽に答える彼のように、私もまだ先の話だと思っていた。でも、今は岐路に立たされている。しかも、どの道が正しくて、どの道が間違いなのか分からず、一歩も踏み出せず、ただ立ち尽くしたままだ。
「先輩、帰らないんですか?」
気付くと、木下浩平は自転車に跨り、帰宅の準備を整えていた。
「ううん、帰るよ。」慌ててスカートのポケットに手を入れ、自転車の鍵を探す。「あれ?」
鞄の中、財布の中も見るが、鍵がない。
「もしかして、鍵なくしちゃったんですか?」
「そうみたい、」
ホームルームが終わった時には、まだスカートの中に入っていたのは、確認している。しかし、必死に頭の中で鍵を紛失してしまいそうな場面を思い返すが、今に至るまでの気もそぞろな放課後の様子を明瞭に思い出すことは叶わない。急いで校舎へと引き返し、立ち寄った場所を隈なく探せば見付けられるのではないか。私は踵を返した。
「もう、最終下校時間ですから、校舎に戻って探すのは難しいですよ、」
引き留めるように浩平が言うや、下校を促す教員のアナウンスが広い敷地に響く。
確かに、今から探し物は無理なようだ。
「しかたない。歩いて帰るしかないか。」溜息を吐きつつ、私は校門に向けて歩き出した。
「うしろ、乗っていきませんか、」
その私の背中に、消え入りそうな小さな声が届く。顧みると、紺色の自転車を横につけ、顔を真っ赤にした浩平がくりくりとした瞳をこちらへ凝然と投げかけていた。
「良いの?」
「先輩くらいの体重でしたら、大丈夫ですよ。」
「いや、体重の話ではなくて、家が反対方向だって話。」
「え?」
一瞬の沈黙。
「どーせ、私は心配になるくらい重そうに見えますよ。」
「いや、そういうわけではなくて、」
自身の失言に狼狽え、大きく頭を振るう彼を見ながら、私は心の中でせせら笑う。さあさあ慌てふためけ、私のように苦悩しろ。
おろおろと誰もいない周囲を見渡し助け舟を求める姿は、壊れた玩具のように恐慌をきたしている。しかし、持ち前の幼い容姿や実直な人柄も相まって、ズルいくらいに可愛いと感じてしまう。
「罰として、私を家まで送りなさい。」自転車の後ろに飛び乗り、浩平の頭を小突く。「さあ、出発。」
「じゃあ、行きますよ。落ちないでくださいよ。」
浩平は足に力を込め、普段よりも重たいペダルを漕ぎはじめる。よろよろと覚束ない動きで進みながら、校門を潜るとそこからはじまる坂道の勢いを駆り、自転車は速度を上げてまっすぐ道を進んでいく。
「ちょっと背中借りるね。」
小さく呟き、私は自転車を漕ぐ浩平の小さな背中に顔を埋め、目を閉じた。
暗い闇の中。ギシギシとペダルを漕ぐ音と、チェーンが回る音が聞こえ、自転車をコントロールするために腕や足、そしてそれらを司る背中の筋肉が目まぐるしく動くのを感じる。
ああ、やっぱり小さくても、男の子なんだな。
次第に自転車の勢いは加速度を上げ、耳元には風を切る音だけが木霊しはじめる。速度が上がるに連れ、様々なものが後方へと流れていく。二年半の高校生活の記憶がひとつ、ふたつと後方へと流れる。入学式のこと、部活、クラス替え、テスト、修学旅行、進路指導、木下浩平のこと。胸に渦巻いていた全てのものも例外なく置き去り、私を前へ突き進ませる。
坂道があとどれくらいあるのか分からない。
心は軽くなっていくが、勾配を下り切った時、すべてが過去へと置き去られてしまっているのだとしたら、それは悲しい。君のことだって、そうだよ。
私はその背中に額を強く押し付け、後方へと流れ去らないように腕に力を込めて願った。
完
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