亜希先生(後篇)

 頭の中で埋め尽くされている事に囚われて、美幸は授業に集中できないでいた。今朝、ベッドで一緒に寝ていたさくらが吐いていた。


 それなのに……


一緒に寝ている時には何かおかしい所はなかったはずだ。もし、いつもと違うようなことがあれば、すぐに気が付いたはずだ。ずっと一緒にいるからこそ、異変には真っ先に気が付くと思っていた。


 吐瀉物には血が混じっていて何かの病気なのかもしれないとパニックになった。子猫の胃液に混じった血の匂いが今でも鼻腔を彷徨っているように感じる。


 その光景が脳裏に焼き付いてしまっていて、さくらのことが心配で何も頭に入ってこなかった。それに、上手く寝付けなかったこともあり、悪いことばかり考えてしまう。


 さくらを母に任せて学校には来たものの、数学の方程式や古典の現代訳をしようとしても、今の彼女にはさくらのことしか考える余地はなかった。


 体育の授業は嫌いだ。特にグループで行われるレクリエーションほど毛嫌いしているものはない。


 先生がランダムに仕分けてしているとしても、それには相応の理由がある。仲良しグループで結局は固められ、ヒエラルキーが同じ者たちがグループになる。例外はない。


 今日はバレーかダンスだった。好きな方を選べるが、美幸は後先何も考えずにバレーに参加した。考えもなしに行動してはいけないと後悔した。


 運動音痴というわけでもないのにボールをきちんとトスすることができず顔面を強打してしまった。


 クラスの人達はそれを見て笑っていた。自分より下の階にいる人の滑稽な姿を見ることで喜びを得ている彼らには辟易する。


 興味が無いのなら、目に入れたり考えたりしなければ良いのだ。それで空っぽになれる。しかし、そう思っている美幸自身は、空っぽと思っていても、さくらのことを考えていた。


「酷くなくて良かったわね」


 亜希先生はそう言って丸椅子へ座った。


「血は止まったかしら?」


「分かりません」


 昨日の今日でまさかこのような形で亜希先生の所に来るとは思っていなかった。どんな顔して、どんな風に答えたらいいのか全く分からない。ただ、抑揚を付けずに答えるだけで精いっぱいだった。


「ちょっと失礼――」


 鼻に詰められたティッシュが取られ、呼吸する度に血の匂いがした。それで今朝のことを思い出した。さくらの吐瀉物と混じった血の匂い。


 とても好きになれない――

 嫌な匂いだ――


亜希先生は神妙と言うべきか、自分のことを心配しているような顔つきをしている。


「友繁さん、大丈夫?」


「何も……別に……」


 赤の他人に自分の考えを理解することなどできるはずない。自分の思っていること、閉じ込めていることが曝け出されたら苦しむだけなのだから。


 寝ていないせいだろうか――


 沸々と込み上げてくる憎悪が噴火した――


 苦しみを分かち合うことなどできるはずない。それが人間なのだから。他者の不幸せの上に嘲笑と優越感があり、それが幸福だと教えてくれたのは学校だ。


 弱者を虐げることで助けを呼ぶ声を潰すこと、強者が捻じ伏せ、それに平伏せば例え嘘でも騙し通せられれば悪は正義になるのだと教えてくれたのは先生なのだ。


 情操教育で確かに教えてもらったのだ、心に傷を負う痛み、他人を信じることの辛さを――


 亜希先生を睨みつけながら、消毒液の嫌な匂いにさらに怒りが込み上げてくる。亜希先生は一度目を逸らしてからまた美幸の瞳の奥をじっと見た。


「そう――じゃあ、先生の話を聞いてくれるかしら?」


 何を話し聞かせても、深く土の底に張った根っこは取れない。辟易する、だから、顔を逸らして心の中で耳を塞いだ。


「先生ね、猫を飼っているの」


 その言葉は先生の話を無視しようとした美幸の耳を傾けるだけの力を持っていた。


「もう飼ってから長いの。中学二年の時に実家で飼ったの、それが一匹目で、大学からの独り暮らしで飼い始めたのが二匹目、


 実家だった時は自分で餌をあげるなんてしていなかったから、


 私だけで飼うのは最初本当に大変だったわ。


 特におトイレがね、


 今までずっと母に任せっきりだったことが自分で育てていくことって、


 命を預かるって大変なことだなって。


 独り暮らしも、それこそ一人で気が楽になったとか、


 独りで好きなことができるなんて思っていたけど、


 何が起きても何とかなることばかりのようで、


 どうしようもなくなることが多々あって、


 家族が支えてくれていたことって多かったんだって、


 色々思い知らされることがあったの。


 特に猫が病気になった時は本当にどうしようかと思った」


「先生の猫も――」


 美幸から吹きこぼれた声に少し驚いたようにしていた。


「先生の猫も、病気になったことがあるんですか?」


「そうよ、猫って勘違いされやすいんだけど、


 気まぐれだの、


 猫は放っておいても生きていける何て言うけどね、


 それは猫によって違うのよ。


 凄く寂しがり屋で、


 繊細な心を持っているのよ。


 それが解ったのは飼い始めて一年くらいだったかな、


 大学の授業とか、教育実習で家を空けることが多くなってね、


 それでストレスを感じちゃったの、


 私に逢えないことで、


 寂しさで心が蝕まれてしまったの。


 あの子にとって初めての病気でね、


 私テンパってしまってね、


 この子に何かあったらどうしようって思ったの、


 私が一番近くにいたはずなのに、


 どうして気が付かなかったんだろうって、


 私の馬鹿って、


 そう自分を責めてた」


 美幸の心の中で何かが壊れた。それはとても穏やかな痛みのはずなのに涙がボロボロと流れた。


「友繁さんどうしたのっ!? 何処か痛いの?」


 突然泣き出した美幸に困惑を隠せない亜希先生は、咄嗟に立ち上がって彼女の背に手を置いた。


「痛いです……」


「何処が痛いの?」


「心が……痛いです……」


 か細く涙で湿ったその声を聞いて、亜希先生はゆっくりと抱き締めた。


「私にできることがあると思う、だからね、友繁さん、何でもいいから、話してみてくれる、ゆっくり、話せることからで良いからね」


「亜希先生……あ……ありがっ……とう……ございまっ……ぅ」


 美幸はそのまま涙腺が崩壊し、彼女の胸を濡らした。亜希先生は子猫の毛並みを整えるように彼女の背中を泣き止むまで擦り続けたのだった――

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