冬の涙、春の恋

赤良狐 詠

現代A(忘却)

春を告げる

 ――春はまだ冬の顔をしている――


 憂鬱を影の中に仕舞い込んだのに、立花春たちばなはるは無意識に胸元近くまで伸ばした黒髪の毛先を人差し指と親指でくるくる回していた。


 虚空を呆けて見つめていたがすぐ飽きたので、ペットボトルに入っている半分ほどになった水を眺めていたら、これでは寝てしまうと思った。


 目線を横に逸らして窓の外を見た。


 一月中旬からの春休みが終わって三月中旬。日照が短かった冬から、春の陽射しは清らかに大地を万遍なく包み込み、固く団結していたはずの氷は水になった。

 冬の長い眠りから覚めた命たちは土から這い出て世界を闊歩し始めた。


 動物たちの換毛期と同じで、人間も季節が変われば身に纏う服装に変化が訪れ始める。

 冬の防寒対策は緩められたが、それでも夜には長袖やカーディガンがなければ寒い。


 どこか寂しくて閑散とした空気は、どこか張り詰めていて冷たい。何だか自分の心も今そうなのだろうかと思う。

 生命の息吹が燦々としているのに、春の心は倦怠感と虚無感が混じり合った曇天だった。考えたくもないことを考え、思い返したくもないことを思い返す。


 大学に入学して一人暮らしを始めてから、一人でいることに優越感を持っていた最初の二週間の高揚は消えていて、一年の月日は虚無感が広がっていっただけだった。


 どうしようもなく、物悲しいなと悶々と感じた。


 眠気はピークを越え始めたと思っていたが、瞬間的に目の前が暗くなりぼんやりとしてしまうほど瞼が重く圧し掛かっていったので、一度スマホを手に取って内カメラを起動して自分の顔を見た。


 目尻だけのポイントで赤のアイシャドウ、発色が自然に見えるピンクのリップを彩りに加えて世界に認識される自分を舞台へ上がらせる。

 誰が見ても自分だと分かってもらえるよう日々漫然とせず着飾ることで、承認欲求の様なものを満たしていた。


 だって、独りぼっちは大嫌いだし、自分を見てくれない、自分だと分かってくれないのはもっと嫌なのだから。


 レジュメに直接書き込んでいた講義内容は、進行が早くなっていくにつれ、マークや付箋する気力を次第に失くしてしまった。どうにも集中できない。


 毎年、三月の終わりが近づく度、どうしようもない虚無感と絶望感に苛まれる。それが周期で必ず訪れてしまうのだから迷惑千万この上ない。


 明るく陽気な気分かと思えば、突然のゲリラ雷雨のように急転直下に気分が落ち、金槌で五寸釘でも叩き込まれているかのような頭痛とセットで付き纏う。そんな状態の悪い日が続いているが、今日は胸が詰まりそうなほど酷い。


 これが続くと過呼吸になり、咳が止まらなくなってしまう。そうなってしまう前にと深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせようとしたが、眩暈と頭痛が激しくなってきた。


 不調を整えることができない憤りと症状が加算されていくのに苛立ちが募る。重い溜息に苦痛を我慢する忍耐が入り混じり、彼女は左手を額に当てながら項垂れた。冷たい手の甲にほんのりと温かな微熱が手の甲へ伝わった。


 頭痛は心臓よりも速く小刻みになり胃がひっくり返りそうになる。溜息はさらに重く吐き気を催しそうになったので深呼吸した。生理痛で重い月のような状態になり、眉間に力が入って歪み心はざわついた。


 その刹那、呼吸をする度に隙間風のような雑音が入り混じるようになり、急いで吸入器をバックから取り出して吸い込んだ。


 吸入器は即効性があるわけではないので、しばらくは陰鬱な気分のままで講義を受けることになる。


 吸入器を口元から話した時、抑揚のない単調な声色が耳に入った。


「どうしたの春? また具合悪いの?」


 その言葉の後、すぐ右肩に羽毛の感触に似た柔らかい手が触れてきたのを感じた。


「うん、またいつもの片頭痛と喘息。毎年恒例の、春ですよーってアラームがガンガン鳴ってるんだ」


 右肩に載ってきた左手から視線を移して隣に座る彼女と目を合わせた。友繁美幸ともしげみゆきは口を一文字に結んで悲愴した表情を浮かべていた。


 春はそんな彼女を見て鼻で溜息を吐き出してから


「みーちゃん、綺麗だよ」


 っと不意に云った。春よりも長く、腰まで伸ばした黒髪を後ろで一つに束ね、二重の大きな目、目尻が上に向いており、猫のようだと思わせる。白い肌はその内側にいる血管を透き通らせてしまうのではと思う程だ。


 美幸は見た目に無頓着だが、それでもシンプルな無地のロングシャツに細い脚の線が良く解る薄目のデニムを着こなす彼女は、誰が見ても綺麗だと思わせるはずだ。


 自分の魅力を理解していなければ、簡素な恰好を選択することはないだろう。


 しかし、他人から綺麗だと云われれば口角を上げる女性が世の大半を占めていると思うのだが、美幸は眉をしかめて圧し口になり云った。


「いきなり何云っているの? 馬鹿なこと云ってないで。医務室に行こ」


「大丈夫、吸入器は吸ったし、頭痛薬もあるから、今すぐ飲む」


 と春は云ったが、美幸は不機嫌に苦悶して俯く春を諭そうとした。


「頭痛も喘息も辛いんでしょう? 過呼吸になる前に医務室に行った方が良いと思う」


「ううん、あと少しで終わるから我慢する。これが終わればあとは帰るだけだし、一緒にランチ行く約束したじゃない? 行こ」


 春はそう云ってから深呼吸を繰り返しながらバックから頭痛薬を取り出してすぐに飲み込んだ。美幸は春の右手に左手を絡ませ強く握った。


「わかった。でも、辛かったらすぐ云ってね」


 美幸が恋人繋ぎを臆面もなくやったことに少しばかり驚きながらも、不思議と忌々しい頭痛は次第に和らいでいき、右手に感じる温もりのおかけで消えていった。


「少しは良くなった?」


 春はうん、気分が少し良くなってきたと返事をすると、それは良かったわと美幸は先程までの強張った表情を緩めて笑顔で云った。


 この時期、頭痛が酷い時に美幸はこうして手を握ってくれたり、両腕で全身を抱き締めてくれる。

 不思議なもので彼女が触れてくれることで、頭痛や過呼吸は徐々に消えていくのだ。


 春にとって美幸は本当に傍にいてくれている親友。これからも変わることなく、ずっと一緒なのだと思っている。傍らにいて心地良い人は美幸だけなのだから。


 彼女とは地元も同じで中学から一緒なのだが、実際に交流を持ち始めたのは高校に進学してからだった。中学生の頃は同じクラスになったこともなく、一度も話したことすらなかった、と思う。


 美幸とは話すきっかけになったのは、何だったのか。そういえば、何をきっかけに、彼女と一緒に過ごすことになったのだろうか。


 そのことが少しだけ、春は気になったがすぐに頭の片隅に置いた。

 握り締めている美幸の手の温もりから、桜の木が咲き乱れる春を思い出した。


 二人で何処か、中学の教室にいる。美術室か、それとも自分のクラスだったかは定かではない場所で、二人は面と向かって何かを話していた。


 一体どこにいて、二人で何を話しているのか思い出そうとしたが、引き出すことができずに鬱々とフラストレーションが溜まってしまった。


 さらに思い出そうとしたら、どうしてか泣いている自分が思い浮かんだ。自分の目の前で美幸も同じく涙を溢している。


 うろ覚えながらに二人はその場所で泣いていた。それを思い出した時、何かを警告しているかのようにまた頭痛が強まった。

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