屋根裏の忘れ物、或いはタイムカプセル

そうざ

A Lost Something or A Time Capsule in the Attic

 玄関の引き戸を開けた途端、懐かしい匂いがした。

「うわっ、これって黴のにおい? 埃? まさか鼠の糞とか?」

 妻の容赦ない開口一番に、俺の追憶はたちまくじかれた。

「靴のまま入って良いんでしょ?」

 生意気盛りの息子は、平気で父親の繊細な心をえぐる。

「好きにしな。どうせ襤褸屋ぼろやだ」

 一人暮らしを始めるまで二十余年を過ごした実家。結婚してからは年に一度帰省するくらいで、母が死に、父が介護施設に入居してからはすっかり足を向けなくなってしまった。

 つい先月、父も天に召され、いよいよ実家は無用の長物となった。両親共、行く行くは俺達が移り住む事を望んでいたが、こんな過疎の古い日本家屋で暮らすなど賢い選択ではないだろう。

「古民家っていうより単なる中古物件よね」

 妻は、生活感の残る屋内を品定めするように見て回る。資産価値の事しか頭にないらしい。

「増改築はしてるけど、曾祖父の代に建てたらしいから百年の歴史があるよ」

「耐震基準は満たしてないし、気密性も断熱性能も話になんないし」

いぶし瓦を使った入母屋造りの屋根とか、漆喰と下見したみ板張りの壁とか、色々と味わいが――」

「今になって褒めてもしょうがないでしょ、どうせ手放すんだから」

「それはそうだけどさ……」

 目の上の義父母こぶが消え、妻の言いたい放題に磨きが掛かった気がする。両親が存命の頃はさぞかし沢山の猫を被っていたのだろう。それでも、何かと両親の世話を焼いてくれた妻に頭が上がらない。

 今のまま買い手が付かなければ、実家うわものを解体して土地だけでも売り払いたい、というのが妻の希望だ。確かにそれ以外に現実的な選択肢はないだろう。この先ずっと固定資産税を納付し続けるのは如何にも馬鹿々々しい。とは言え、解体費用も馬鹿にならない。


「ねぇ、上から変な音がするよ」

 息子が廊下の突き当りで天井を指差している。

「野生動物でも入り込んでるんじゃないの?」

 妻が鳥肌を抑えるように腕をさする。

「鼠かなぁ?」

 俺は天井を見上げて耳を澄ました。


 ――チリリ……――


「……鈴?」

 そう言えば、子供の頃にも鈴のを聞いた事があった。

 当時はまだ改築の前で、廊下を通らなければ便所まで行けない造りになっていた。夜に雨戸が閉まれば、廊下は尚一層、くらかった。夜分の尿意は不安と隣り合わせだった。

 俯き加減で足早に廊下を進む。床板が不気味にきしむ。俺は心で鼻歌を歌い、なるべく楽しい事を考えようと努めたものだった。

 ――チリリ……――

 それは確かに聞こえた。鼓動の高鳴りの中でも、はっきりと聞こえた。

 一度切りではない。単なる気の迷いだと自分を納得させ、ようやく鈴の事を忘れた頃に、見計らったように鳴り響くのだ。


「何も聞こえないわよ。唯の空耳でしょ」

 妻のがさつな否定が俺を現実に引き戻す。当時も両親から同じように否定された。やがて改築工事が行われ、便所の位置が変わり、呼び名もトイレになった。晴れて夜に廊下を歩く苦行から解放された俺だった。

「ねぇねぇ、天井裏に上がれないの?」

 傍らの息子が子供っぽく目を輝かせている。

「天井の一部が開くって聞いた事が……ここかな?」

 一様にくすんだ天井の一部に、他よりも木目が目立つ箇所がある。

「よし、肩車してやるから調べてみな」

「うんっ」

 以前よりも重くなった息子を何とか担ぎ、俺は慎重に立ち上がった。

めなさいってぇ」

 妻が嫌悪の表情を作る。

「あっ、手で押すと開きそう」

 言うが早いか、息子は天井板を押し上げ、そこにぽっかりと開いた穴に物怖じもせず入って行った。

「ちょっとちょっと、大丈夫なのぉ?」

 舞い落ちる塵に閉口しながら、妻が穴を見上げる。

「結構、明るい。外の光が入って来てるよ」

「壁に明かり取りの格子が嵌められてるんだな」

「ねぇ、貴方も上がって」

「俺も?」

「子供だけじゃ危ないわよ。外の物置に梯子くらいあるでしょ。早く持って来て」

「はいはい」

 玄関へ急ぎながら、俺は以前聞いた豆知識を思い出した。英語で『恐妻家』を表現したければ『マイ・ワイフ・イズ・マイ・ボス』と言えば良いらしい。


 天井裏は想像よりも広く、棟の裏側辺りは大人でも直立出来るくらいの高さがあり、天井板とは別にしっかりと床が作られていた。

「色んな物が置いてあるよ」

 息子は埃も臭いも物ともせず、薄暗がりを歩き回る。

「納戸として使ってたんだな」

 たがが外れた桶、虫食いだらけの文机、針がない時計、ぺしゃんこの鞄、錆で覆われた扇風機、等々――物持ちが良いと言うか、貧乏性と言うか、修理すればまた使える、いつかは必要になるかも、と何でもんでも取り敢えず放り込む場所だったのだろう。

「こういうのって高く売れるんじゃないの?」

 どうも息子は母親の血を濃厚に受け継いでいるらしい。

「骨董品と我楽多がらくたは別物だよ」

「あっ……これってもしかしてっ」

 息子が目敏く見付けたのは、取っ手の付いた小振りの金庫だった。表面の塗りは剝げているものの、しっかり施錠されている。

「音の正体は判ったぁ?」

 下界から妻の声が届くが、それどころではない。俺達は埃で掌が真っ黒になるのも構わず、鍵を求めて空き箱やら蠅帳はいちょうやらを片っ端に探った。

「これっ」

 息子が発見したのは、幾つかの鍵を針金で束ねた物だった。

出来でかしたっ」

 早速一つ一つを鍵穴に充てがうと、果たしてその一つが刺さり、すんなり回った。思わず互いの笑顔を確認する。知らない内に顔まで薄汚れている。

 金庫の中にあったのは、縦が四十センチ、横が三十センチくらいの紙だった。細かな文字が見えたが、薄暗くて細部はよく判らない。

「いつまで探検してんのぉ?」

 妻の顔が穴からぬうっと現れた。

 その瞬間だった。

 俺の眼前に影が躍り出て、所狭しと跳ねるように走り回った。


 ――チリィチリィチリィチリィン!――


 影は埃を舞い上げながら妻の頭をぴょんと飛び越え、小屋組みの向こうへと消え去った。動転した妻は金切り声を上げ、梯子の下へと逃げて行った。


 ――チリィチリィーン……――


 俺達は唖然として顔を見合わせた。

「見たか……?」

「見た……動物?」

「聞いたか……?」

「聞いた……鈴の音?」

 鼠にしては大きく感じたが、そもそも何処に潜んでいたのか。まるで俺の手元から突如として現れたように見えた。

 俺達は屋根裏から下り、明るい廊下で紙切れを確認した。

「浮世絵か?」

「江戸時代の絵って事?」

 右上に題名が記され、添えられた説明文は蚯蚓みみずのようにのたくっている。右下には作者らしき名前があるが、絵の主役・・が居らず、紙の中心に不自然な空白が大きく広がっているだけだった。


「きっと鼠よぁ、嫌だ嫌だ」

 屋外そとに避難していた妻が、腕を擦りながら吐き捨てる。

「鼠にしては大きく見えたよな」

「うん、大きかった」

 いつの間にか父子の同盟が結ばれている。

「じゃあ、野良猫ね」

「野良猫が鈴を付けてる訳が――」

 俺はもう一度、屋根裏に上がってみた。が、どれだけ耳を澄ませてももう鈴の音を聞く事は出来なかった。


 題名を頼りに調べてみた結果、俺達が見付けたのは江戸時代に流行った鼠避けのまじない絵だと判った。曾祖父の代はまだ専業農家だったから、特にこういったお守りに熱心だったのだろう。

 呪い絵の中で特に人気なのは、猫好きだった歌川(一勇斎)国芳くによしが手掛けた一枚らしい。うずくまったまま天を見上げる白地に黒斑の猫。朱い首輪にはちゃんと鈴が付いている。『鼠よけの猫』というそのものずばりの題名も、そこに添えられた説明文も、そして作者名も、正に天井裏で見付けた物と同じ――にもかかわらず、余りにも似て非なる・・・・・・・・・代物だった。

「この珍品、きっと高値が付くわっ、実家の解体費用に充てられるっ!」

 快哉を叫ぶ妻を余所に、俺と息子は別の思いに耽っていた。

 百年の間、猫は暗く狭い金庫の中で解放されるその日を夢見てじっと蹲っていた。そんな気がしてならない。

 俺は呪い絵を売らないと決めた。ずっと気付いてやれなかった事への贖罪、と言ったら大袈裟だろうか。ボスは呆れるだろうが、もし猫が気紛れに帰って来た時に居場所がなかったら可哀想だ。

「今頃、自由を楽しんでるかなぁ?」

 同志の息子が目を輝かせる。

「そうだな、きっとそうだ」


 ――チリィチリィーン……チリィチリィーン――

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