花はただ咲く、ただひたすらに。
増田朋美
花はただ咲く、ただひたすらに。
日本海側では、すごい大雪が降っていて、大変な事になっているようであるが、こちらの静岡では、いつもと変わらず穏やかな日々が続いているのであった。そんな生活でまるで、雪国の人たちに申し訳ないくらいに。ただ、悩むということは同じことのようで、それは、生活が大変な人ではないほど、悩みというものは多くなってしまうらしい。
その日も、製鉄所では、杉ちゃんがいつも通りに着物を縫ったり、利用者たちが、勉強や仕事などをしていたりしていたのであるが。
「はい、こちらです。段差のない玄関なので、すぐに入れると思います。それではお入りください。」
と、浩二くんの声がした。
「あれ、今日はレッスンの予定入ってたっけ?」
杉ちゃんが水穂さんにそう言うと、
「特に連絡は受けていませんので、飛び入り参加ということでしょうか。」
と、水穂さんは言った。
「まあ良い。それでは入れ。」
杉ちゃんがそう言うと、浩二くんは、足を引きずって歩いている一人の女性を連れてやってきた。
「紹介しますね。えーと、本田雅子さん。お年は30代です。一度音楽学校を目指していたそうですが、体調を崩してしまって断念し、30代を過ぎてまたやり直してみたくなったそうです。そうですね?」
浩二くんがそう彼女を紹介すると、
「はい。今、桂先生がおっしゃったとおりです。高校生くらいまでは、音楽学校を目指していましたが、結局体調を崩して受験できなくて。それで結局大学の先生とも別れてしまって、しばらく何もしない日々を続けていましたが、すこし体調が良くなってまた弾いてみたくなって、始めました。こんな人間ですが、レッスンしていただけないでしょうか?」
と、本田雅子さんは答えた。
「そうなんだねえ。ちなみにどこを狙っていたの?やっぱり東京の大学か?」
杉ちゃんがそうきくと、
「はい。ですが、ずっと東京までレッスンに通うのも疲れてしまって。レベルの高い大学を受験したかったけど、私には無理でした。」
と雅子さんは言うのであった。
「そうなんですね。それでは無理とわかっていながら、どうしてピアノを再開しようと思ったんですか?」
水穂さんがそう言うと、
「ええ。理由はよくわかりません。ですが、ピアノを再開したいと思ったのは確かで。初めは、もう無理だと思っていたんですけど、ピアノのサークルなどにも行けるようになったから、それでまた再開しようかなと思ったんです。」
雅子さんはそう答えた。
「そうですか。最近ピアノのサークルも流行っていますからね。何だか、ピアニストでなくても演奏を披露する場が少しづつ出てきていますよね。」
水穂さんは、そう彼女に言った。
「先生お願いします。そういうわけですから、彼女にレッスンしてやってください。彼女、一生懸命やっているし、そこは、誰にも負けないと思うんですよ。うまいとか下手は関係なく、一生懸命やれる人っているじゃありませんか。僕らとしては、そういう女性を応援してやりたいと思いませんか?」
浩二くんが、水穂さんに懇願するように言うと、
「了解しました。じゃあ、ちょっと弾いてみてください。それでは、お願いします。」
と言って、水穂さんはピアノの蓋を開けた。雅子さんはわかりましたと言って、ピアノの前に座った。そして、
「ベートーベンのソナタ、11番を弾きます。」
と言って、その通りベートーベンのソナタ11番の第1楽章を弾き始めた。確かに、音はしっかり取れていて、きちんと弾けている印象があるのだが、強弱はついていなかったし、何より、指の先で弾くきついタッチで、ちょっと聞くのは難しい演奏ではあった。
「そうですね。まず初めに、この曲はちょっとあなたには大曲すぎるかなという気がしますので、比較的穏やかで静かな演奏をされたほうが良いと思います。そういう感じの曲は持ってこられなかったですか?」
水穂さんは、演奏が終わると彼女に言った。
「ええ、私は、そういう曲はやったことありません。」
と、本田雅子さんは答える。
「そういうことなら、覚えてる限りで結構ですから、やったことのある曲を、あげてみてくれませんか?」
水穂さんが言うと、
「えーと、ベートーベンの月光ソナタとか、ショパンの幻想即興曲とか、やっていました。あとは、ブラームスの、2つのラプソディとか、そうそう、変わったところでは、グリーグのソナタとかやってました。」
と、彼女は答えた。
「どれも大曲で、難しい曲ばかりですね。例えば小さな曲で、静かなものは弾かなかったのですか?ショパンのマズルカとか、ワルツとか。」
水穂さんがそう言うと。
「ええ。でも、大曲をやればいろんなことが学べるからと言われて、そればかりやっていました。」
雅子さんはそういった。
「それはおかしいですね。だって、大曲をやればすべて解決するということでもありませんよ。それに大曲でなくても、いろんなことを学べる曲はいっぱいあります。例えば、バッハのインヴェンションの1番なんか、2ページしかないけれど、いろんな調が出て、それぞれの雰囲気を出すのは難しいですよね。そういうふうに、学ぶことは多いですよ?」
水穂さんは、彼女に質問するように言った。
「じゃあ、バッハのインヴェンションみたいな曲はやってなかったんだ?」
杉ちゃんが口を挟む。
「ええ、やりませんでした。私が弾いたのは、少なくとも、10ページくらいある曲ばかりでした。」
雅子さんがそう言うと、杉ちゃんが変なやつといった。浩二くんも考え込む顔をして、
「なんで、そういう短い曲をやらなかったんでしょうね?」
と不思議そうに言った。
「そういうことなら、ベートーベンのソナタばかりではなく、短い曲でより学習できる曲をやってみましょう。そうだなあ、例えば、ドビュッシーのロマンティック・ワルツとか、いかがですか?そんな大曲ではないけれど、愛らしい作品です。」
水穂さんが、本箱から楽譜を取り出して、彼女に見せた。本田雅子さんはすぐ表情を変え、
「これを私が弾くんですか?」
と言ったのであった。
「そうですよ。わからないところがあるのでしたら、何でも聞きますから、やってみてはいかがでしょう。版は色々あるけれど、フランス物は、デュラン社がおすすめです。確か最近、出てますよね。黒い表紙の、ドビュッシー全集。それを試してみては?」
水穂さんがそう言うと、雅子さんは、ちょっとの間に、複雑な表情をした。初めは、なんで私がという表情で、次はそれを無理やり隠して、笑顔を取り繕うような表情にすぐ変わった。こういう変化は、よほど感性が敏感な人でなければ、わからないに違いない。
「なんで嫌そうな顔をした?理由を言ってみな。」
杉ちゃんに言われて雅子さんは、
「いえ、嫌だなんて私言ってません。そういうことなら、やらせていただきます。その黒い表紙のドビュッシー全集は持っていないので、それでトライしてみます。」
と言ったのであった。
「いや、確かにお前さんは、嫌そうな顔をしたな。それは見逃さなかったぞ。本当は、なんで私がこんな曲と思っただろう?」
杉ちゃんの勘は本当に鋭いものであった。僅かな変化も見逃さない。それが杉ちゃんの能力である。
「そんなこと、本当に私は言っていませんよ。」
雅子さんはそう言うが、
「それは違うだろう。本当は、こういう小品はやりたくないんだ。そうじゃなくて、カッコつけたい大曲がやりたいんだ。それはいかんぞ。小品でも、学べる曲はいっぱいあるって、水穂さんも言ってくれたじゃないか。それなら、そのとおりにしてみろや。きっとなにか発見があるはずだぞ。だから、水穂さんも勧めてくれたんだろうし。それを、拒絶しちまうのは、なんかもったいないというか、大損だぞ。」
杉ちゃんに言われて、雅子さんは、小さくなって、
「そうなんですね。あたしが思っていること、皆さんには全部わかってしまうみたい。今まで本当に大曲しかやってこなかったんです。そういう曲しかやってはいけないって先生も言ってましたし、それに大曲をやらないと、やる気ないのかって叱られましたから。」
と答えてくれた。
「それはね、先生が威張りたくて、大曲をやらせているだけに過ぎない。そんなことより、ちゃんと、きれいに弾くことを考えてみな。」
「そうですね。例えば、音量のバランスとか、左手が右手より大きくならないようにすることも大事ですよ。確かに、大曲はいろんなことが学べるのかもしれないですけど、あなたはそれが全く身についていません。ただうるさい音楽にしているだけのことです。だから、できるだけ静かな音量で弾く技術を身に着けてほしいのです。」
杉ちゃんがそう言うと、水穂さんが専門家らしく、そういった。
「そうなんですよ。僕も彼女に言い聞かせましたが、全然聞いてくれないんですよ。」
浩二くんが、苦労したような顔でそういうので、水穂さんも杉ちゃんも事情がすぐに分かった。
「そうなんだねえ。じゃあ、そういうことなら、少し気持ちを切り替えたらどうなの?今のままではただ、うるさい音楽聞かせているだけだもん。そうじゃなくて、音楽にはいろんな表情があることを勉強しなくちゃ。それはただ、長い曲で難しい曲をやってれば身につくかということでもないよね。」
「杉ちゃん良いこといいますね。そのとおりなんです。」
浩二くんはそういった杉ちゃんを、自分の言いたいことを代弁してくれたという顔で見た。
「それでも私、長い曲をやらなくちゃなりません。だって、ピアノサークルの人達も長い曲を持ってきますし、それに対抗するためにも長い曲でないとだめなんです。そうしないと、なんだか馬鹿にされてしまうような雰囲気があります。」
雅子さんは、そう杉ちゃんたちに言った。
「そうかも知れないけどさ。まわリの人は周りの人さ。今は、本当に必要なことを勉強しようよ。周りの人に合わせようとしても、成果は出ないよ。」
杉ちゃんが、そう雅子さんにいう。全く、杉ちゃんという人は、何でも思ったことを口にしてしまうのであるが、それがこういうときには役に立つものであった。
「雅子さんひょっとして、大曲をやることで自分はこれだけできるんだと、見せびらかしたいのではありませんか?」
不意に水穂さんが優しく言った。
「それはやめたほうがいい。人間は欲張ってしまうのが一番駄目です。それを狙ったら、上を見たらきりが無いで、永久に欲張り続けてしまうことになる。それは諦めたほうがいいですよ。欲張りすぎると、ろくな結果を生み出しません。昔話の悪役だってみんなそうなりますよね。それと同じことですよ。」
「そんなの、関係ありません。あたしは、まだピアノを頑張りたいだけです。なんだか、小さな曲をやっていたら、そこにいる人達と同じ事になってしまう。それとは違うんだ、もっと難しい曲ができるんだって私は、自信を持ちたいんです。」
雅子さんは水穂さんの言葉にそう返した。
「こう見えても私は、一応、音楽学校に行こうとしましたから、それだけでも忘れないでいたいんです。」
「そりゃあ完全に病んでるな。人より上に居たいとか、そうでなければ自信が持てないということは、病んでいる証拠だよ。そうじゃなくて、自分は今のままで良いと考えるのが、心が健康である証拠だからね。それは、ちゃんと自分のこととして認識してようね。」
杉ちゃんが雅子さんの言葉をそう翻訳した。
「だいたいね。誰に対してそう自分をかっこよく見せたいの?具体的に誰か、見せたい男でもいるのかい?」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
「わからないですけど、私は、まだ正常に行動ができてるんだって、」
「正常ねえ。僕なんて車椅子に乗ってるから、一人で生活なんて絶対できないわな。みんなそれと同じだと思うよ。だから人間って言うんじゃないのかよ。それより同じとか、上とか下とか決めつけるよりも、みんな悩みごとがあって、苦しんでいきてるんだって、感じたほうが良いと思うよ?」
雅子さんはそういいかけたが、杉ちゃんはでかい声でそういうのだった。
「そうですね。今回は、杉ちゃんの言うとおりだと思います。誰かより上で誰かよりしたとか、過去にあったものにしがみつく生き方は、やらないほうが良いと思います。」
水穂さんも杉ちゃんに同調した。
「そう言ってくれてるんですから、雅子さんも気持ちを切り替えてみませんか。誰かと比べるのを繰り返す生き方は、辛いだけですよ。それよりも、みんな悩んでいるんだと考え直したほうが良いです。そんな、音楽学校に行こうとしていた過去など、何の約にも立ちませんし。」
浩二くんも、水穂さんに合わせてそういったのであった。
「何ならさあ。そういう考えが役に立たないってことを、一回体験してみると良いよ。今度行われる発表会を見に行ってみな。その中には確かにすごいのもいるけれど、できないなりに頑張っているやつもいる。だから、そういうやつらから学んで見ると良い。」
杉ちゃんが、不意にそういうことを言った。浩二くんはすぐにスマートフォンを出して、
「確かに、ピアノ発表会はいろんなところで行われています。それなら、そうしてみましょう。」
と、近くの文化センターで行われている、ピアノ発表会を調べ始めた。
「でもそんなの、子どものピアノ教室ですよね。見に行っても意味がないのでは?」
雅子さんはそう言うが、
「いやあどうですかね。最近は大人のピアノサークルの発表会も増えてきましたし、子供さんばかりとは限らない世の中になってきましたよ。」
と、浩二くんが言う。
「明日、ピアノ発表会があるそうですから、ちょっと文化センターに行ってみましょうか。入場料もとられないようですし、それなら行っても良いのでは?」
浩二くんに言われて、本田雅子さんは、渋々行くことにした。
翌日。雅子さんは、文化センターに、浩二くんといっしょに入った。発表会は、小ホールで行われる。確かに、出演者の身内など限られた人ばかり来るので、浩二くんたちのように身内でもなんでもない人が来るケースは珍しいものである。雅子さんと浩二くんは、プログラムを受け取ったが、受付も、変な顔をしていた。
二人がホールに入って数分後、開演の合図がして、演奏が開始された。確かに、子どものピアノ教室ということでもあり、演奏者は子どもたちが多かった。子どもたちは、できる子もできない子もいるけれど、それでも、一生懸命やっている。
三番目に入ってきた一人の少年は、ベートーベンのソナタ20番という、比較的難易度の高い曲を弾いた。この少年は、音感も良さそうで、リズム感などの表現力も良かった。更に、彼のあとに続いて入ってきたもう一人の少年は、ソナタ悲愴を弾き、表現力が豊かなのだろう、演奏らしい演奏を聞かせた。
「なんかへんね。」
雅子さんは、二人の少年の演奏を聞いてから、そう呟いた。
「変って何がですか?」
浩二くんが聞くと、
「不自然なのよ。あの子達は、確かにうまいんだけど、なにかが足りないの。多分演奏技術はある子たちなんだと思うんだけど。」
雅子さんはそう言ってしまう。
続いて、今度は大人の女性たちが何人か演奏した。女性たちは、ドビュッシーのアラベスクだったり、フォーレの即興曲などを弾いたが、確かに演奏技術がありそうな感じではなかった。でも、一生懸命で、本当にピアノが好きであることを感じさせる演奏でもあった。
「あの女性たちは、ピアノが好きだってことがわかるわ。だってみんな楽しそうだもん。それができているっていうのは、うまいも下手もつけられないわね。」
雅子さんはそう彼女たちを評価した。それから、また何人かの大人たちが演奏したが、みな、上手ではないけれど、ピアノに真摯に取り組んでいるような気がした。それでピアノ発表会はお開きになって、浩二くんたちは、バスで帰ることになった。
「今日はとても良かったわ。」
バスの中で、雅子さんは言った。
「なんか、ピアノに対してまた考え方が変わったみたい。初めにベートーベンのソナタをやってた子たちは、なんかまだ世の中を見たことがないっていうか、楽譜には忠実であるけれど、そんな感じがする演奏だったのよ。後で弾いた女性たちは、演奏はうまくないけど、ピアノが好きっていうのは、わかったわ。それは私も、見習わなくちゃなって思った。」
「雅子さんも楽しめたようですね。ただ、雅子さん。」
浩二くんは、指導者という顔になった。
「人の振り見て我が振り直せです。それをご自身に当てはめてみて、自分のことを直していくようにしてください。」
「そうね。」
と、雅子さんは言った。
「こないだ、杉ちゃんが言ったじゃないですか。あのソナタを弾いた子たちはまさにその通りだったんですよ。だって、普通に考えたらあの少年たちが、ベートーベンのソナタをあんなうまく弾ける訳が無いでしょ。それはやはり、指導者が威張りたくて、ああいう難しい曲をやらせてるんだって、理解しなくちゃね。」
浩二くんはこれだけは伝わってくれるかなと思いながら言った。
「あの二人は、楽しむということをしませんでした。だけど、後で演奏した女性たちは、うまくはないけれど、一生懸命やって楽しんでいました。それをどちらが正しいとか、どちらが優れているとか、甲乙つけては可哀想ではありませんか。みんな一生懸命やってるんです。だからみんな、悩みながら一生懸命やってるんですよ。私は、その人より優れているとか、もっと上を目指したいとか、そういう欲張りは持ってはいけませんよね。」
しばらく、沈黙が流れる。バスの走っている音だけが聞こえてきた。雅子さんは、少し考えて、なにか、思いついたような顔をしていった。
「そうね。誰々より誰々のほうがうまいとか、そういう考えは、なんだか寂しい感じがするわ。」
「そうでしょう。だから、みんなおんなじように悩んでいきてるんだって、考え直してください。」
と、浩二くんは言った。それと同時に車内アナウンスが、富士山エコトピアのバス停に、まもなく到着すると伝えた。浩二くんは、急いで降車ボタンを押し、雅子さんも降りる支度を始めた。
花はただ咲く、ただひたすらに。 増田朋美 @masubuchi4996
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