通勤電車の恋人

櫻井彰斗(菱沼あゆ・あゆみん)

拾った仔犬は最後まで

通勤電車の王子様



 拾った仔犬の世話は最後までしなければ。


 そう小さな頃、しつけられたから――。




 朝、鷹村杏たかむら あんは、通勤電車で、吊り革につかまり、うとうととしていた。


 頭がガクッとなり、前の席の禿げたおじさんに頭突きを食らわしそうになる。


 おおっと、しまった、となんとか持ちこたえ、目が合ったおじさんに向かい、苦笑いをして、顔を上げた。


 すると、少し離れた位置から、こちらを見ている者が居た。


 柔らかな髪をしている肌の白い綺麗な男の子。


 今の失態を見ていたらしく、ぷっと笑う。


 その顔に、杏は、何故か、どきりとしていた。


 彼はそのまま友人たちと降りて行ってしまったが、杏は、それから、会社に着くまで、ずっと彼の笑った顔を思い出していた――。




 自分の部署のあるフロアでエレベーターを下りた杏は、自動販売機の前に居た蜂谷洋介はちや ようすけと出会った。


 同期の蜂谷は缶コーヒーの蓋を開けながら、おう、と言う。


 がっしりとした体格の目立つイケメンだが、性格はあまりやさしくはない。


 特に杏に対しては。


「蜂谷!

 私、王子様を見つけたわ」


 一拍置いて、蜂谷は言った。


「……は?」


 彼らしくもなく、瞬時に理解できなかったようだ。


「通勤電車に王子様が居たの」


 蜂谷は、

「ちょっと待て」

と言ったあとで、一気にコーヒーを飲み干し、それで、コン、と頭を殴ってきた。


「目を覚ませ、杏。

 日本に王子など居ない」


「莫迦ね。

 物の例えじゃない」


 蜂谷は、


「王子? 莫迦じゃねえのか」

と呟いたあとで、


「……どんなんだ」

と腕を組み、杏を見下ろし、訊いてくる。


「え? なんかこう、毛の色が茶色っぽくて、柔らかくて、触ったら気持ち良さそうで、可愛くて、撫で撫でしたくなる感じなの」


「それ、犬じゃないのか?」


 人間だってばっ、と杏は飛び跳ねる。


「落ち着け、杏。

 それはとても、大人の男を形容する言葉じゃないぞ」


「だって、高校生だもん」


「……もう一回言ってみろ」


「高校生みたい。

 高校の制服着てたから」


「おはよう。

 杏、蜂谷」

と同じく同期の入江蘭いりえ らんがやってくる。


「止めろ、入江。

 杏が高校生を襲おうとしている」


「眺めてるだけよっ。

 観賞用よっ。


 退屈な仕事の前のちょっとした楽しみよっ」


「退屈か、鷹村」


 振り向くと、向井課長が立っていた。


 三十代後半のはずだか、もうちょっと若く見える。


 見るからに、やり手な感じの男前だが、ちょっと怖い、と杏は思っていた。


「そうか。

 鷹村は、きっと今の仕事じゃ物足らないんだな。


 今日から給与計算もお前がやれ」


「えええっ?

 課長っ、待ってくださいっ」


 さっさと行ってしまう向井に向かい、叫んだが、もちろん、向井は聞いてはいない。


「天罰だろ」

「お疲れ様ー、杏」


 愛のない言葉を投げかけ、二人とも、それぞれの部署に行ってしまう。


「ああっ。

 待って、待って、二人ともっ」

と杏は二人に向かって、手を伸ばした。




 ああ、疲れた。

 帰りは彼、居ないもんな。


 いいじゃないの、高校生だって。

 眺めてるだけなんだから。


 莫迦じゃねえの、と言う蜂谷の言葉を思い出しながら、よろっとロッカーを出た杏は、誰かの胸にぶつかった。


 おや、この感触は女ではない、と思い、止まっていると、蜂谷の声が頭の上からした。


「……普通、男とこんな風にぶつかったら、まず飛んで逃げないか。

 なんで止まってるんだ」

と自分も逃げずに蜂谷は言う。


 いや……蜂谷の匂いがするな、と思って、と思ったが、口には出さなかった。


「動けないほど、お疲れか、杏。

 焼き肉でも食べに行くか」


「行く行くっ」

とすぐさま顔を上げた杏に、蜂谷は、


「奢らんぞ」

と冷たい言葉を浴びせかける。


「わかってるわよ。

 私以上に呑み歩いてるあんたの懐具合ぐらい」

と言いながら、行こ行こ、と先に立って歩き出す。


「現金なやつだな」

と後ろで蜂谷が呟いていた。




「美味しいっ。

 ビールと焼き肉のために、働いてるのよね、私たち」


「いや……、違うだろ」


 会社の近くにある小洒落た焼肉屋だ。


 髪に匂いもつかないし、酒の種類も豊富で、よくみんなで集まる店だった。


 グラスもよく冷えているビールを美味しそうに呑んでいると、蜂谷が笑って言う。


「高校生とじゃ、焼き肉にも来れないだろうに」


「そりゃそうだけど。

 眺めてるだけだって言ってるでしょ、関係な……あれっ?」


 少し離れた壁際に居るスーツ姿の男に見覚えがあった。


「向井課長だ」

と蜂谷が言う。


 そういえば、課長は、今日は用事があると、少し早めに帰っていったな、と思う。


「誰と一緒なんだろうな。

 大人数じゃなさそうだが、奥さんと、か?」


 課長と向かい合っている席は観葉植物の陰になっていた。


「女の人で、奥さんじゃなかったら大問題でしょ」


「どうだろう。

 課長モテるからな」


 そんなこと、と言いながら、ひょいっと後ろに、そって見ようとすると、


「落ちるだろ、莫迦っ」

と蜂谷に手をつかまれる。


「……王子だ」


 は? と蜂谷が言った。


「私の王子がっ。

 蜂谷っ。


 王子が課長とっ。

 どういう関係っ?」


「落ち着け、杏」

と片手で軽く杏の身体を引っ張り戻した蜂谷が、


「親子だろ」

と言う。


 ええっ、と杏は椅子の背をかじりつくようにして持ち、課長を見る。


「課長、若いわよっ」


「学生結婚だったろ、確か。

 顔、課長に似てるじゃねえか」


 少し立ち上がり、蜂谷は王子の顔を確認したようだった。


「そう? 課長と言うより……」


 思わず、出そうになった言葉を杏は飲み込む。


「しかし、課長の息子か。

 話しかける切っ掛けはできたな」


 行ってみたらどうだ? と冷ややかな声で蜂谷は言う。


「い、行けないわよ、家族団欒のところに。

 明日、課長にそっと訊いてみるわ」


「訊けるのか?


 なんて訊くんだ。

 お宅の息子さんに通勤電車で目をつけたんですが、息子さん、お名前は? とか?」


「眺めてるだけって言ってるでしょっ」

と反論する。


 蜂谷が溜息をつくのが見えた。




「ただいまー、浅人あさと


 ちょうど玄関を入るところだった弟に後ろから抱きついた杏だったが、


「うわっ。

 酒くせっ」

と無情にも払われた。


「いやだなあ、大人って穢れてて」


「なんで、お酒呑んだだけで穢れてるになるのよ。

 やあねえ、これだから、高校生って」

と言いながら、そういえば、王子も高校生だったな、と気がついた。


「また蜂谷が送ってくれたんじゃないのか?

 上がってもらえよ」


 後ろを振り返りながら、浅人が言う。


「うん。

 そこまで送ってくれたんだけど。


 なんでだかわかんないけど、帰るって」


「なんでだかわかんないけどってなんだよ。

 お前、蜂谷とは……


 寝るなーっ、玄関でっ」


 此処まではなんとか、と思って、電車で酔ってないふりを続けていたが、家に一歩入って弟の暴言を聞いていたら、張り詰めていたものが、ぷつっ、と切れたらしい。


 杏は玄関で寝てしまった。


 


 どうなんだよ、この姉、と面倒見のいい弟は杏を背負って、階段を上っていた。


 俺だったら、玄関先でひっくり返って寝てるいい年した女は嫌だが。


 そう思いながらも、能天気そうに見えて、なにか嫌なことでもあるのだろうか、と心配になる。


 前は此処まで酒に弱くなかった気もするし。


 ベッドに下ろし、布団をかけてやりながら、

「杏、化粧はいいのか?

 コンタクトは?


 トイレは?」

と子供に訊くように訊く。


「だいじょうぶ~」

となにも大丈夫ではなさそうな杏が答えてくるが、これ以上、面倒は見られない。


「ほどほどで起きて、自分でなんとかしろよ」

と言うと、


「わかったー」

と手を振ってくる。


 やれやれ、と部屋を出ながら、爆睡している姉を振り返る。


 今日こそ、蜂谷のところにでも泊まってくるかと思ったのに、また何事もなく帰ってきやがったな。


 こんなことを言うと、あんた、なに言ってんのよ、と杏には笑い飛ばされそうだが。


 なにかこう……気になるんだよな、と浅人は思っていた。


 モテるのに、こういうことに関しては、妙に不器用な蜂谷のことが。


「絶対、蜂谷、気があると思うんだけどな~」

と浅人は呟き、出て行った。









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