4-6
◯
雷鳴のような音色が立つと、世界が一変する。
大地に、光が溢れ。
ツルッツルの皿が——顕現する。
それは土俵。
いつかの、濡れ女の戦いとの時のように、中途半端なそれではない。
正しく河童として、十全に覚醒した状態で形成した土俵は、まさしく神域。
古い時代。
河童は、星の外からやってきたと伝わる、水を司る大いなる神の、その司祭であった。
ゆえに、この神域は、外宇宙の神域。
現に——皿の外側には。
「なに、これ——」
見回す潤果が、驚くように。
星瞬く深き宇宙のような光景が、広がっている。
「なんだ、父はお前にこれを見せなかったのか」
言いながらも、考えてみれば当たり前だ。一度土俵に踏み込んだのならば——神に捧げる贄がいる。戦った二人ともが生き残っている以上、親父は土俵入りしなかったのだろう。
「これは、瑠璃江の星海だ」
どこか、遠く。
潮の香りが漂う、蒼き星の海。
ここは宇宙にして、深海の底。
神の故郷——深き瑠璃江の、その神殿を、擬似的に再現したものである。
「行司を」
ぼくが、呼べば。
皿の外に広がる、深き宇宙の闇から。
ぬらり、と。
顔のない行司が、現れる。
それは神の従僕。
大いなる神が遣わす、神事の見届け役にして、審判者。
重さのない、空を揺蕩う羽衣を翻し、七色に輝く藤壺の張り付いた軍配を振り上げ、彼は、三次元空間上には存在しない宇宙狂気的な構造を持つ口を、開く。
「両者、見合って見合って——」
張り上げられる、あぶくのような声。
ぼくは腰を落とし、眼前の潤果を見つめる。
「はっけようい」
潤果は怯えるようにこちらを見ながらも——しかし。
「……私を殺すつもりなんだ」
それなら——私も。
「殺したって、いいよね」
にゃおん、と。
一鳴きし——炎を。
ゆらめく炎を、膨れ上がらせて——その内側から。
青く、黒い。
炎を纏う、二つの車輪を、引き摺り出した。
「いくよ、伊江郎くん」
その車輪は彼女の背後に浮き従う。
きっとそれが、火車としての力の源泉なのだろう。
彼女も本気だということだ。
息が詰まるような、沈黙。
そして——一呼吸。
「のこった!」
あぶくのような声が響き。
ぼくたちは激突する。
突進。それは、けれど大地を蹴ってのものではない。
ぼくは、宙を泳ぐ。まるでそこが水底であるかのように、ふわりと宙に浮いて、ざぶりと。
潜水する、夏のプールを思い出す。
頭上を見上げても、キラキラと煌めく水面はなく、ただ神の瞳が月のように鎮座するばかり。
ぼくはもう、二度とあの場所には戻れないのだろう。
けれど——磨いた技は、ぼくを裏切らない。
「——潤果ぁっ!」
名前を呼びながら、迫る。
ドルフィンキック。土俵の上を泳ぎ上げ、ぼくは潤果へと突撃。放たれた青い炎を、石海椿から奪った妖水を纏うことで相殺しながら、強引に突破。潤果の両腕を、掴む。
「何すんの、変態っ!」
変態で結構。
ぼくは潤果の腕を掴んだまま、着地。さらに力を込め、彼女を持ち上げようとする。
「——っ、やめてよっ!」
潤果は叫び、背後に待機させいていた車輪を操る。ぎゃりぎゃりと、音を立てて空間を削る一対の車輪。回転鋸の如きそれが、ぼくの首を狙って手裏剣のように射出される。
「うおっ!」
ぼくは潤果から手を離し、バク宙を披露するようにして背後に転身。車輪による攻撃を避けるが——過ぎ去った車輪は、軌道を変えてぼくに追い縋る。
「厄介だな」
呟いて、ぼくはそのまま空中を泳ぎ、上空へと退避していく。車輪はそれを追うが、潤果は地上に残ったまま。これで、車輪の対処だけに集中できる——なんて考えは、ぼくの完全な思い上がりだった。
「——にゃおん」
潤果は鳴き、そして跳ねる。
尋常ならざる脚力によって垂直に飛び上がった彼女は、一足でぼくと同じ高さにまでやってきた。
そう——猫は、跳ねる生き物だ。その跳躍力は、哺乳類でも有数のもの。体長の約五倍とも言われる跳躍力を、人間の姿で活かせるのならば、こうもなろう。
飛び上がった勢いのまま、彼女は空中を泳ぐぼくへと向けて、炎を纏う鉤爪を振り上げる。
「落ちてよ、伊江郎くん」
叩きつけられる五爪。咄嗟に両腕でガードをしたが、表面の鱗が叩き割られた。吹き出す血潮が、緑の肌を赤く染める。
「——っ、やってくれる」
空中で一回転し、勢いを殺しながら、着地——した瞬間、ぼくを追撃しようと二つの車輪がやってくる。ぼくは咄嗟に横っ飛びしてそれを避けるが——そこへ一拍遅れて着地した潤果が追撃する。
「逃がさないよ」
彼女は言って、ぼくに組み付く。こちらとしては、一対一のインファイトは本来願ったり叶ったりなのだが、しかし、状況が悪かった。車輪を避けるために無理な姿勢で飛び跳ねていたぼくは、それを受け止めきれずに一気に押される。
「お相撲って確か、土俵を出たら、負けなんだよね」
彼女はにたりと笑って、ぼくを土俵際へと押し込んでいく。まずい、このままでは、ぼくは神のおやつにされてしまう。
多少強引にでも、状況を変えなくてはならない。ぼくは濡れ女との戦いを思い出した。そして——
「痛った——!」
潤果はぼくから手を離す。その手のひらは、傷だらけだった。
「歯車的砂嵐の小宇宙——などと言うには、砂ではないがな」
ぼくの両腕には、凄まじい勢いで回転する細い水流が巻き付いていた。濡れ女の放っていた高圧水流からインスピレーションを得た技である。これにより、ぼくは掴んでいた潤果の手を削り、強引に剥がしたのである。
「ひどいよ、女の子の肌に」
「知るか。ぼくは男女平等主義だ」
言って、ぼくは腕に巻き付いてた水流を、そのまま真正面に放つ。絞られた螺旋の水流がレーザーのように突き進み——潤果は車の一つを盾にそれを防ぐ。じゅう、と車輪の纏う炎に直撃した水流が瞬く間に蒸発し、あたりに高温の霧が満ちる。
まずい。ぼくはすぐさま水流を止めるが、すでに遅く。
視界がホワイトアウトし、次の瞬間。
「ぐっ——」
もう一つの車輪が、ぼくの横腹に直撃した。
「知ってる? 猫の嗅覚ってすごいんだよ」
犬ほどじゃないかもしれないけどね。
彼女は言って、視界を失ったぼくに的確な攻撃を加えてくる。鉤爪が鱗を抉り剥がし、そこかしこから出血していく。この濃霧の中でも、猫の妖怪の力を持つ彼女は、嗅覚によってぼくを捉え続けられるらしい。
しかし、彼女が猫であるのならば、ぼくは河童だ。
「不本意ながら、水を操るのは得意でな」
水というのならば霧だって水の一形態だ。
ぼくは周囲に満ちた霧を粒状に集め、それを弾丸のように射出する。
「——っ!?」
突然、全方位からの攻撃を受ける羽目になった潤果は咄嗟に車輪を傘のように頭上に掲げる。
しかしそれは、ぼくに対する盾の喪失をも意味していた。
「相合傘だな」
子供の頃を思い出す。
ぼくは車輪の下に滑り込んだ。
呼吸を止めて、一秒。
「————!」
無呼吸の連打。拳を固く握り、それを潤果に叩きつけていく。彼女は纏う炎を猛らせ、ぼくの手を焼いてくるが、構うものか。
炎の守りの上から、強引に拳を叩き込む。熱い、痛い。河童の姿に変身しても、所詮生身だ。怪我もするし、痛みもする。河童とはなんとしょうもない妖怪なのであろう。ハゲるというリスクを背負ってさえ、所詮はこの程度。こんなくだらない妖怪の子供として生まれついたことは、ぼくの生涯の恥だ。それを今、全身全霊で晒しながら戦っているという事実が、もうすでに、ぼくに耐えがたいストレスを与えてくる。
だからこそ、その苛つきも全て、拳に込めて叩きつける。
「河童を舐めるな! 河童を舐めるな!」
今だけは。
今だけはぼくは人間ではなく、河童だ。
河童なのだ。
師匠と初めて出会った夜を思い出す。
師匠の拳を、大人の拳を思い出す。
舐めるな。
河童を、舐めるな。
無様でも、気持ち悪くても、しょうもなくても。
それでも河童は生きている。
「——っ、良い加減、しつこいよっ!」
潤果は叫ぶ。
いつのまにか——頭上の傘が晴れている。そうか、水の弾丸を、使い尽くしてしまったのだ。
ガードの必要が無くなった。ということは、つまり——
「ぐあああっ——!」
ぼくの背後から、二つの車輪が襲いかかった。
背中の甲羅が、凄まじい勢いで削られていく。
河童の甲羅は、とても硬い。馬鹿みたいに硬い。昔。家の中で無意味に河童の姿を晒していた中年男性の背中を殴りつけたら、殴った指の骨の方が折れた。ふざけるなと思った。それくらい硬い。
だというのに、その硬い甲羅を、車輪は凄まじい勢いで掘削していく。
このままでは——削り殺される。
そう、思った時——不意に、車輪の回転が緩む。
なんだかわからんが、好奇だ。
「砕けろ——」
ぼくは振り向きざまに、二つの車輪にありったけの妖水を叩きつけた。
技も何もあったものではない物量攻撃。石海椿から奪い取っていたそれを全て使い尽くして——ぼくは二つの車輪を、破壊した。
砕けた車輪の残骸が、土俵の外へと消えてゆく。
ぼくは再び振り返った。
潤果は酷い有様だった。
ぼくが散々に殴りつけたからであろう。肌はそこらじゅうあざだらけ。顔など、額が割れ、唇が切れ、血だらけだ。鼻血もだらっだらである。ありていに言って、汚かった。
「酷い面だな」
「うるさいよ」
潤果は肩で息をしている。
それでも——それでも。
彼女の目は、ぼくを向いている。
「私が、勝ったら」
彼女は言う。
「君のお父さんを、殺すよ」
意識を取り戻す前に、今度こそ殺す。
彼女は言った。
「そうすれば私は、私は、元に戻れるんだ」
元の日常に、戻って。
家にだって、帰れるんだ。
彼女はそう、叫ぶけれど——
「それならなぜ、もっと早くやらなかったんだ」
わざわざ、それをぼくに言うまでもなく。
ぼくがのほほんと、蛤姫と遊んだりしているうちに、病院で寝ている父を、ぶっ殺してしまえばよかったではないか。
いくらでも、チャンスはあった。
「今だって、そうだ」
あのまま。
あのまま車輪の回転を緩めずにいれば、ぼくを殺し切ることが、出来ていた。
それなのに、こいつは。
瀬来目潤果は、ぼくを殺さなかった。
「うるさいっ!」
彼女は叫ぶ。血混じりの涙が、流れ落ちた。
「私は、化け物なんだよ」
彼女は、爪を構えた。
「人殺しなんだ」
「そうか」
「人喰いなんだ」
「そうか」
「ひとでなしなんだ」
「そうか」
私なんか——
「死んじゃったほうが、いいんだよ」
呟くように、言って。
彼女は両手の爪を広げたまま、ぼくへと迫ってくる。
まるで抱擁を求めるようなその突撃は、酷く隙だらけで、まるで殺してくれと懇願しているようで、だからこそ。
「ぼくの知ったことではない」
ぼくは言って——彼女の腹に、拳を突き立てた。
「う——あ……」
深々と。肘までもが、彼女の腹部に入り込む。
へそから、腑の奥底へ。どう見たって致命傷なほど、深く。ぼくは彼女の腹の中に、腕を挿入し、そして——
「痛く、ない?」
潤果は、困惑したように呟いた。
当たり前だ。ぼくは彼女の腹に腕を突っ込んだが、それは物理的に腹を裂いたわけでも、抉ったわけでもない。
ただ、あるものを引き摺り出すために、河童としての奥義を使ったのである。
「河童は、水を操る妖怪だ」
ゆえに、河童は体の一部を、短時間の間であれば、水そのものに変化できる。
そうして液状化した腕を、彼女の体に染み込ませ——そして、探っているのである。
「——河童の好物を知っているか?」
ぼくは潤果に問うた。
その答えは、きゅうりではない。
「河童はな——」
人の尻子玉を食うんだよ。
ぼくは言う。
尻子玉。
それこそが、ぼくの探すもの。
彼女の腹の奥深くに、腕を突っ込み。
ぼくは、尻子玉を引き抜こうとしていた。
「し、尻子玉——?」
彼女は困惑したように問う。
当たり前だろう。
なにせ、尻子玉を引き抜かれた人間は死ぬと言い伝えられているのだから。
彼女は怯えたような目で何かを言おうとし——けれど。
それをやめて、覚悟を決めたように、目を瞑った。
「いいよ」
彼女は震えるような声で言う。
「やって」
「わかった」
その覚悟に、答えるように。
ぼくは腕を——引き抜いた。
そして。
彼女のへそから、飛び出したのは。
真っ赤な。
血のように真っ赤な——まんまるの玉。
尻から出てこそいないけれど。
これこそが正真正銘、尻子玉だ。
そして——尻子玉を抜かれた潤果は、どさりと倒れる。
その肌には、もう炎は灯らず。
猫耳も尻尾も、全てが全て消え去っていた。
そして——ぼくは。
その尻子玉を、頭上に掲げる。
実に旨そうな、立派な尻子玉であるが、仕方ない。
ぼくはよだれが垂れるのを必死に食いしばって我慢して、それを掲げ続ける。
そして、ず——と。
指が。
神の指が、降りてくる。
超次元的な思索。具現化した思考概念が三次元空間に落とす影。非ユークリッド幾何学的な奇妙な曲線によって構成される悍ましく歪み狂ったその水棲の指先が、ぼくの手のひらから、直接、尻子玉を受け取り、そして——
その口元へと、運んでいく。
むしゃむしゃ、ごっくん。
『 うまい 』
神はそれだけを言って——消え去った。
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