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 ◯


 賀茂川と高野川が合流する三角州、いわゆる鴨川デルタの直上に、下鴨神社はある。


 その境内に広がる広い森が、糺の森であった。


 近年、その一部が民間に売りに出されたりなどと変遷はあるものの、古来より親しまれ続ける京都の名所の一つであり、またぼくにとっても、よく慣れ親しんだ憩いの場だ。


 まもなく来る夏の日には、古本市が開かれることもあり、潤果と二人で、そこに訪れたこともある。


 だからこそ——


「お前は……」


 雄大に聳える木々が伸ばす、翠の枝葉に覆われた空の下。


 そこに佇む人影は、あまりにも異物として際立ち過ぎていた。


 まるで——空間に落とされた染みのように。

 差し込む木漏れ日をすら拒絶する、黒く、光のない、その人影。

 茹だるような湯気が、水浸しの布から立ち上っている。


 あの夜。

 石海椿を殺した、黒尽くめの妖怪。

 それが——人気のない、午前の糺の森に、佇んでいる。


「潤果はどこだ」


 ぼくは一歩、その人影に近づいて——問う。

 問いただす。


 糺の森にいる、と潤果からはメッセージが来ていた。


 しかし、ここに潤果の姿は見えない。目の前の、あの黒尽くめの妖怪が、何かをしたのは間違いないだろう。そう思って——問う、の、だけれど。


「ここにいるよ」


 それは。

 それは潤果の声だった。


 いつものように、間延びしたそれでは無かったけれど——それでも。

 それでもそれは、瀬来目潤果の声であって、ぼくが聞き間違えるはずもなく。


 問題は——それが、聞こえて来た方向だった。


「え——」


 ぼくは思わず、己の耳を疑う。

 その声が聞こえてきたのは——


 


「気付かなかった?」


 言いながら——

 その黒布を、


 濡れそぼっていたそれが一瞬で蒸発し、さらには燃えて、灰に変わる。


 煙が、晴れれば。

 そこには。


 低い背、無い胸、童顔、糸目。


 瀬来目潤果が——立っている。


「なんで、お前——」


 彼女は、下着姿だった。

 ブラジャーとパンツだけが、身につく全てで。

 白い肌が、よく見えるけれど。

 そこには。


 青い、炎が。

 空のようなそれでは無い、どこか恐ろしげな、青黒い炎が——這っている。


 そして、彼女の、その頭上には。


「猫耳、が」


 猫耳が、生えている。

 二つの、黒い耳が。

 ぴこぴこと、動いている。

 作り物では無い。間違いなく、生きたそれが。彼女の頭上に、生えている。


 よく見れば——尻からも。

 過激なTバックが覆い損ねる尻からも。

 尻尾が、生えて。

 黒いそれが、ふらふらと、揺れている。


 まるで。

 その姿はまるで、——異形で。


 ぼくは。

 ぼくは一歩、後退る。


「私ね」


 彼女はそんなぼくを見て——目を、見開く。

 そこにあった、瞳は。

 縦にひび割れる、猫のような瞳で——


「妖怪のハーフなんだ」


 にゃおん、と。

 彼女は、どこか寂しげに——獣の声で、鳴いてみせた。


 ◯


 火車という妖怪がいる。


 その名の通り、炎を纏う車の妖怪である。

 悪行を重ねた人間の死体を奪うとされ、地獄からの使者であるとも、その正体は歳経たであるともいう。


「——私はね、そんな火車と人間の間に生まれた子供なんだ」


 パチパチと、青い火花が散っていた。

 彼女は——瀬来目潤果は蒼黒の炎に塗れたまま、語る。


「私にお父さんが居ないの、知ってるでしょう?」


 潤果の家は、母子家庭である。彼女が物心付くよりも早く、父親は亡くなった、と。そう聞いた。

 交通事故だった、と。


「本当はね、違うの」


 私のお父さんはね——


退


 


 殺されたのだ——と、彼女は語った。


「火車は、死体を襲う妖怪」


 古来より、猫は不吉の象徴として扱われてきた歴史がある。


 黒猫が横切ると、なんて逸話はそれこそ西欧から入り込んだ迷信の一つであるが、しかしそんなジンクスを抜きにしたって、古来から、猫と魔性を関連付ける逸話は数多く存在する。


 猫を死体に近付けてはならない、という教えはその代表的なものであって、理由は猫が死者を起き上がらせるからだとも、とも言われる。


 いずれにせよ、猫は人の死に近い魔性であり——ゆえに。


 火車は、猫の妖怪なのだ。


「だから、ね——伊江郎くんなら、わかるんじゃないかな」


 彼女は言った。


「私と同じ、伊江郎くんなら」

「お前、知って——」

「知ってたよ、ずっと」


 伊江郎くんが、河童だってこと。


「黙っててごめんね」


 彼女は微笑んで言った。

 けれど、ぼくは。


「違う、ぼくは、河童じゃない」


 それを否定する。

 たとえ父親がそうであるのだとしても、ぼくは河童なんかじゃない。ぼくは——


「人間だ——って、胸を張って言える?」


 その言葉に、ぼくは。


「言えるさ」


 と、答えた。

 ぼくは。

 ぼくはどこまでだって人間だ。

 河童じゃ無い。

 河童なんかじゃ、無いんだ。

 答えれば、彼女は。


「ふうん」


 と、目を細める。


「そっか。伊江郎くんは、そうなんだ」


 私とは、違うんだね。

 彼女は、何かを諦めるように言う。


「私はね、言えないよ」


 自分が人間だなんて——言えない。

 ゆらり、と。

 彼女が纏う炎が、揺れる。


「少しずつ、引きずられていくんだよ」


 妖怪としての性に——引きずられていくんだ。


 それは。

 それはぼくも、心当たりのあることで。


 けれど。

 決定的に違うのは。

 河童が、水の妖怪であるのに対して——


「火車は、人の死体を食べる妖怪」


 その娘である、私はね——



 たとえば、ぼくが。

 耐え難くきゅうりを食べたくなるのと、同じように。


 あるいは——

 彼女は、人の死体を食べたくなる。


 妖怪としての血が、そうさせる。


「まさか、それじゃあ……」

「うん」


 ぼくが、想像したことを。

 彼女は肯定する。


「今、京都で起こっている、殺人事件の犯人はね」


 私なんだよ——伊江郎くん。

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