4-4
◯
賀茂川と高野川が合流する三角州、いわゆる鴨川デルタの直上に、下鴨神社はある。
その境内に広がる広い森が、糺の森であった。
近年、その一部が民間に売りに出されたりなどと変遷はあるものの、古来より親しまれ続ける京都の名所の一つであり、またぼくにとっても、よく慣れ親しんだ憩いの場だ。
まもなく来る夏の日には、古本市が開かれることもあり、潤果と二人で、そこに訪れたこともある。
だからこそ——
「お前は……」
雄大に聳える木々が伸ばす、翠の枝葉に覆われた空の下。
そこに佇む人影は、あまりにも異物として際立ち過ぎていた。
まるで——空間に落とされた染みのように。
差し込む木漏れ日をすら拒絶する、黒く、光のない、その人影。
茹だるような湯気が、水浸しの布から立ち上っている。
あの夜。
石海椿を殺した、黒尽くめの妖怪。
それが——人気のない、午前の糺の森に、佇んでいる。
「潤果はどこだ」
ぼくは一歩、その人影に近づいて——問う。
問いただす。
糺の森にいる、と潤果からはメッセージが来ていた。
しかし、ここに潤果の姿は見えない。目の前の、あの黒尽くめの妖怪が、何かをしたのは間違いないだろう。そう思って——問う、の、だけれど。
「ここにいるよ」
それは。
それは潤果の声だった。
いつものように、間延びしたそれでは無かったけれど——それでも。
それでもそれは、瀬来目潤果の声であって、ぼくが聞き間違えるはずもなく。
問題は——それが、聞こえて来た方向だった。
「え——」
ぼくは思わず、己の耳を疑う。
その声が聞こえてきたのは——
黒尽くめの妖怪の元からだった。
「気付かなかった?」
言いながら——彼女は。
その黒布を、焼き尽くした。
濡れそぼっていたそれが一瞬で蒸発し、さらには燃えて、灰に変わる。
煙が、晴れれば。
そこには。
低い背、無い胸、童顔、糸目。
瀬来目潤果が——立っている。
「なんで、お前——」
彼女は、下着姿だった。
ブラジャーとパンツだけが、身につく全てで。
白い肌が、よく見えるけれど。
そこには。
青い、炎が。
空のようなそれでは無い、どこか恐ろしげな、青黒い炎が——這っている。
そして、彼女の、その頭上には。
「猫耳、が」
猫耳が、生えている。
二つの、黒い耳が。
ぴこぴこと、動いている。
作り物では無い。間違いなく、生きたそれが。彼女の頭上に、生えている。
よく見れば——尻からも。
過激なTバックが覆い損ねる尻からも。
尻尾が、生えて。
黒いそれが、ふらふらと、揺れている。
まるで。
その姿はまるで、人間では無いかのように——異形で。
ぼくは。
ぼくは一歩、後退る。
「私ね」
彼女はそんなぼくを見て——目を、見開く。
そこにあった、瞳は。
縦にひび割れる、猫のような瞳で——
「妖怪のハーフなんだ」
にゃおん、と。
彼女は、どこか寂しげに——獣の声で、鳴いてみせた。
◯
火車という妖怪がいる。
その名の通り、炎を纏う車の妖怪である。
悪行を重ねた人間の死体を奪うとされ、地獄からの使者であるとも、その正体は歳経た化け猫であるともいう。
「——私はね、そんな火車と人間の間に生まれた子供なんだ」
パチパチと、青い火花が散っていた。
彼女は——瀬来目潤果は蒼黒の炎に塗れたまま、語る。
「私にお父さんが居ないの、知ってるでしょう?」
潤果の家は、母子家庭である。彼女が物心付くよりも早く、父親は亡くなった、と。そう聞いた。
交通事故だった、と。
「本当はね、違うの」
私のお父さんはね——
「退治されたの」
人を襲う邪悪な妖怪として。
殺されたのだ——と、彼女は語った。
「火車は、死体を襲う妖怪」
古来より、猫は不吉の象徴として扱われてきた歴史がある。
黒猫が横切ると、なんて逸話はそれこそ西欧から入り込んだ迷信の一つであるが、しかしそんなジンクスを抜きにしたって、古来から、猫と魔性を関連付ける逸話は数多く存在する。
猫を死体に近付けてはならない、という教えはその代表的なものであって、理由は猫が死者を起き上がらせるからだとも、その死体を奪うからだとも言われる。
いずれにせよ、猫は人の死に近い魔性であり——ゆえに。
人の死体を喰らう火車は、猫の妖怪なのだ。
「だから、ね——伊江郎くんなら、わかるんじゃないかな」
彼女は言った。
「私と同じ、妖怪と人間のハーフである伊江郎くんなら」
「お前、知って——」
「知ってたよ、ずっと」
伊江郎くんが、河童だってこと。
「黙っててごめんね」
彼女は微笑んで言った。
けれど、ぼくは。
「違う、ぼくは、河童じゃない」
それを否定する。
たとえ父親がそうであるのだとしても、ぼくは河童なんかじゃない。ぼくは——
「人間だ——って、胸を張って言える?」
その言葉に、ぼくは。
「言えるさ」
と、答えた。
ぼくは。
ぼくはどこまでだって人間だ。
河童じゃ無い。
河童なんかじゃ、無いんだ。
答えれば、彼女は。
「ふうん」
と、目を細める。
「そっか。伊江郎くんは、そうなんだ」
私とは、違うんだね。
彼女は、何かを諦めるように言う。
「私はね、言えないよ」
自分が人間だなんて——言えない。
ゆらり、と。
彼女が纏う炎が、揺れる。
「少しずつ、引きずられていくんだよ」
妖怪としての性に——引きずられていくんだ。
それは。
それはぼくも、心当たりのあることで。
けれど。
決定的に違うのは。
河童が、水の妖怪であるのに対して——
「火車は、人の死体を食べる妖怪」
その娘である、私はね——
「人の死体を食べたくなるんだよ」
たとえば、ぼくが。
耐え難くきゅうりを食べたくなるのと、同じように。
あるいは——もっと根深く。
彼女は、人の死体を食べたくなる。
妖怪としての血が、そうさせる。
「まさか、それじゃあ……」
「うん」
ぼくが、想像したことを。
彼女は肯定する。
「今、京都で起こっている、殺人事件の犯人はね」
私なんだよ——伊江郎くん。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます