3-5
◯
「——はぁっ!?」
「目が覚めたか」
ソファに寝かせていたトンカラトンが目を覚ましたようだったので、ぼくは読んでいた本をパタリと閉じた。
「こ、ここは——」
「ぼくの家だ」
自宅、である。
ぼくはトンカラトンをあの世ではなく、自らの家に導いてやっていた。
「なんのつもりだ?」
トンカラトンはぼくを睨みつけるが——自転車もない、刀もないの単なる黒包帯ぐるぐるおじさんにいくら凄まれたところで、恐ろしくもなんともなかった。
「ふん、決まっているだろう? 貴様には、情報を吐いてもらうことにしたのだ」
まさか、いきなり襲いかかってきた通り魔まがいの変態に、無意味に慈悲をかけるわけもなし。敗者の責務として、勝者には従ってもらう。
「敗者だとぉ?」
トンカラトンは目を細めて言った。
「へい、よう、ふざけんなよお前、俺は負けたつもりなんざねぇぞ。あんなの、ただの交通事故だろうが。お前との勝負は、まだ終わっちゃいないぜ」
「負け惜しみだな」
ぼくは切って捨てた。勝負など時の運だ。決まり手がなんであれ、最後に立っていたのはぼくであり、倒れていたのはこの男である。誰がどう見ても、ぼくの勝利であることは揺るぎない事実として観測されるであろう。
「第一、誰が死に体だったお前を生かしてやったと思っている? あの時、ぼくが助けてやらねばお前は間違いなく死んでいたぞ。お前を轢いたトラックの運ちゃんなぞ、貴様を見るや否やすぐさまこの世のものではないと勘付き、トドメを刺すべく雄叫びをあげていたのだ。それを身を挺して止めてやったのが、どこの誰だと思っている」
ぼくがつらつらと恩を語ってやれば、トンカラトンは「ぐむぅ」と唸る。どうやら、それなりに効いたらしい。
「……テメェに負けたわけじゃねぇ。だが——命を助けられたのもまた事実だ。仕方がねぇ、ほんのちょっぴりだけ、話してやるよ」
何が聞きてぇ、と彼はぶっきらぼうに言った。
「ふむ、まず——お前を雇ったのは、石海椿で間違いないか」
「ああ、そうだよ」
思ったより、素直に答えた。「どうせ、その辺りは見当ついてるとこだろうがよ」なんて負け惜しみをいうが、大方、敗者としての自覚が出てきたということだろう。よきかなよきかな。
「なんだか失礼な勘違いをされてる気がするが——へい、よう。それで? 俺を雇ったのがあの鬼娘だったとしたらどうするんだ? 言っとくが、スリーサイズなら知らねぇぜ」
「誰がそのように破廉恥なことを聞くものか。その女だがな——」
ぼくはトンカラトンに、聞くべきを聞いた。
「烏帽子を脱いだところを見たことがあるか?」
「は? ……いや、ねぇけど、それがどうした?」
なるほどな。やはり——そうか。
一つ頷き、合点する。
で、あるならば——
「トンカラトンよ」
「お、おう?」
「貴様は傭兵なのだと言ったな」
であれば——
「ぼくに雇われないか?」
「はあ——?」
トンカラトンは、大きく顔を歪めた。まるで信じられないものを見た、とばかりの形相である。
「いや、意味わかんねぇだろうがよ。俺を雇うってお前……敵同士だったんだぞ」
「それがどうした。すでに決着はついただろう」
「だからついてねぇって……第一、あの鬼女と戦えってんならごめんだぜ」
「なんだ、鬼が怖いのか」
「そうじゃねぇよ。傭兵稼業ってのは、信頼が大事なんだ。コロコロと鞍替えして、元雇い主に刃向けるような傭兵なんざ、誰も雇いたく無いだろうがよ」
「なるほどな。ま、いずれにせよ、貴様に依頼したいのは、石海椿と戦えなんて仕事ではない。むしろ——戦う仕事ですらもない」
「は? だとしたら、いったい俺に何をさせようってんだよ」
「うむ、お前には——」
目を丸くする彼に、ぼくは堂々と、恥じることなく言った。
「窃盗を依頼したいのだ」
◯
石海椿との決闘が行われることになったのは、翌日の夜のことであった。
月下。ぼくは自ら指定した決闘場——弊学、新神海岬学園のグラウンドの一角にて佇んでいた。
果たし状を渡したのは、ぼくからであった。トンカラトンを通して渡した果たし状に書き込んだメッセージはシンプルである。
『明日の深夜零時、新神海岬学園のグラウンドにて待つ。一対一にて勝敗を争うべし』
それに対し、トンカラトンが持ち帰った返事は『了承』。
かくして決闘は執り行われる運びとなり——そして今。
ぼくは石海椿の到来を待っている。
「……と、来たか」
振り向けば、そこには、椿の着物。
白木の下駄。頭上には烏帽子。
二本の角が、月夜を裂く。
黒髪の美鬼——石海椿が、そこにいた。
「果し状だなんて、古風ですね」
瀟洒な微笑み。月が照らすその頬には、うっすらと朱が差されていた。
「紳士だからな、ぼくは」
言えば、彼女はくすくすと嘲るような笑い声を上げる。
「和平の使者を殺しておきながら、紳士気取りですか?」
「何が和平の使者だ。化け物を寄越しておいて、よく宣う」
「化け物、ねぇ。それでいうのなら、あなたもそうなんじゃあありませんか?」
袖口から取り出した扇子で、口元を覆う。
「へたれだなんて、とんだ大間違いでしたよ。あなた、立派に
くすくす、くすくす。輪唱する嘲り。ぼくは憤る。
「ぼくは妖怪じゃない、人間だ」
「妖怪ですよ。誰がなんと言おうとね。あなたも——私も」
目を細めて、言う。雲が月を薄く覆い、降る明かりが波を打つ。入り混じる光陰。揺らぐ境界の中——発される、爆発的な妖気。叩きつけられる殺意の奔流に、思わず飲まれそうになる、けれど。
「ぼくに、その脅しは効かないぞ」
「ほう、これが脅しに見えますか?」
彼女は面白そうに言った。「流石は河童の血を引くだけありますね」なんて侮辱を続けるけれど、ぼくはその挑発には乗らなかった。
なにせ——勝ちは、すでに決まっているのだから。
ぼくは彼女に、改めて視線を向けた。
「本当に、一人で来たんだな」
はっきり言って、五分ではないかと思っていた。彼女が約束を無視し、自らの配下を引き連れてリンチの姿勢に入ることは、十分以上にあり得ることだと想定していたが——約束は守られたようだ。
「濡れ女を殺せる相手に戦えるレベルの妖怪は、もう私しか残ってませんからね。あれでも、トップクラスの実力者だったんですよ、彼女。ま、傭兵なんぞに頼るくらいには戦力不足だった、ってことです」
なるほど、そんな事情があって。トンカラトンが襲って来たのか。
ならば——
「改めて、条件を確認しようか」
「いいでしょう」
ぼくが言えば、彼女は頷く。
「勝てば総取り、負ければオケラだ。お前が勝てば、鴨川の権利書だがなんだか知らないが、全てお前にくれてやる。人喰いでもなんでも好きにやればいいし、ぼくの首でも父の首でも、好きなように持っていくがいい」
ぼくは病室の父の身柄を勝手にかけた。すまぬとは言わん。この大一番に、寝込んでいる方が悪いのである。文句があるなら——起きてこい。
「その代わり、ぼくが勝ったその時には」
「その時には?」
「島根に帰れ。そして二度と人を食わんと約束しろ」
言えば——彼女は。
「あはっ」
まるで子供のように——笑う。
あはあはと、けらけらと。まるで可笑しくて仕方がないとでも言いたげに、笑い続ける。
笑って笑って、笑い尽くして——そして。
「それは、無理な相談というものですよ」
彼女は、凄惨な笑みと共に言った。
「だって、人って美味しいじゃないですか」
食べられないくらいなら——死んだ方が、マシなくらい。
彼女は、うっとりと微笑んだ。
「だから、いいですよ。人喰いが気に入らないというのなら、私が負けたそのときは、この首、持って行ってくださいな」
その代わり。
「あなたが負けたら——私が食べて差し上げましょう」
彼女は言って、涎を垂らす。その目に宿るのはただ一つ——食欲きりだ。
「悪食め。ぼくなんぞを食べたところで。美味くはなかろうよ」
「さて、それはどうでしょう。実は私、河童ってまだ食べたことがないんですよねぇ……どんな味なのか、実に気になります」
彼女は舌舐めずりをした。下品な所作でさえ、汚さよりも妖艶さが勝つのだから、美人というのは誠に得で、憎らしいこと限りない。
「ふん、気になるというのなら、ぼくに勝って確かめてみれば良いさ。もっとも貴様には——不可能なことだろうがな」
ぼくは言って、両手を広げる。それを見つめる彼女の視線は冷ややかだ。
「言いますね」
「言うとも」
ぼくの余裕は崩れない。なにせ、必勝はすでに成っている。
ぼくは、勝てる試合をしに来たのだ。
「鬼の私に、勝てる気ですか?」
「鬼のお前には、勝てないだろうな。だが——お前は鬼じゃない」
ぼくは宣言する。師匠と共に見抜いた——彼女の正体を。
「お前は、牛鬼だろう」
牛鬼。
それは西日本に伝わる妖怪の一種であり、名前に鬼とは付くが、鬼とは全く異なる妖怪である。
姿は主に、頭は牛、体は蜘蛛とも鬼とも言われ、時には昆虫の羽を生やしたものもいるという。
西日本各地に出没する、広域の妖怪ではあるが——その中でも。
「お前は、石見の牛鬼だ」
島根県西部——石見国に伝わる伝承に曰く。
牛鬼とは、海や川などの水辺から現れる妖怪であり、濡れ女などの妖怪を引き連れて現れることもあるという。
「極めつけなのは、お前が初めて現れたあの夜だ」
——何処かから響いた、『行こうか、行こうか』という問いかけに、影鰐が『来いや』と返した瞬間、奴はその場に現れた。
それは——
「石見の牛鬼の伝承だ」
島根県は大田市、邇摩郡温泉津町の伝承に曰くして。
とある日、漁師が船で釣りに出向いた時、岸の方から、『行こうか、行こうか』と声がした。漁師が『来たけりゃ来いや』と返したところ、牛鬼が現れ、船へ猛然と泳ぎ来たという。
コールアンドレスポンス——妖怪の中には、言葉の受け答えを鍵とした呪術を扱う者もいる。石見の牛鬼は、まさしくその一つだったのだろう。
「ふうん、よく調べましたね。乙女の秘密を探るなんて、はしたないこと」
彼女は言って、ため息を一つ。
「それで? 私が鬼でなく牛鬼だからと言って、それがどうだというのです? あなたと私の間に隔絶した力の差があることは変わらないでしょう」
「変わるよ。お前が鬼でなく牛鬼なのだというのなら——お前には、明確な弱点がある」
言えば——彼女は眉を動かした。
「弱点?」
「思い当たる節があるんじゃないか」
ぼくは笑った。そして、語る。
島根県は大田市邇摩郡温泉津町、日祖の伝承に曰く。
ある時、一人の漁師が漁の後、船に忘れ物をしたことを思い出し、妻が止めるのも構わず取りに行こうとした。妻はどうしても行くならばと、漁師に御仏飯を食べさせてから家を出した。漁師が船に戻ると、突如として牛鬼が現れたが、牛鬼は「お前は御仏飯を食っているので近寄れない」と言って逃げていったという。
また島根県は江津市渡津町、塩田の伝承にも曰く。
ある時、小野川という関取が、浅利峠という場所で牛鬼につけられた。彼は一度自宅に戻り、御仏飯を食べて出ると、塩田の浜で牛鬼と相撲を取り、見事勝利したという。
島根では、子供が山や海に出かける時には、怪我のないようにと御仏飯を食べさせる風習があったという。
「まさか——」
石海椿は目を見開いた。
「そうだ、ぼくは——御仏飯を食べている」
御仏飯。それは読んで字の如く、仏前に備えた白飯である。
「それもただの御仏飯ではないぞ。我が母方の菩提寺にて、御本尊様に供えられていた御仏飯の中の御仏飯を盗——お借りして、喰らってきた」
「なんて罰当たりなことを……」
石海椿は眉をハの字に曲げて引いたようにいう。よほど御仏飯が恐ろしいらしい。
そう、ぼくがトンカラトンに依頼した窃盗業務の内容とは、御仏飯を盗み出してくることだった。
我が家にも仏壇があるのはあるが、父方の——河童の先祖までをも祀っている妖怪臭い仏壇である。それでは満足な効果は得られぬやもしれぬと思い、いかにも御利益のありそうな、千年続く由緒正しい寺であるところの母方の菩提寺より、御仏飯を拝借したのである。
「牛鬼の弱点と言えば、御仏飯。そしてぼくはすでに、それをたっぷりと喰らっているのだ」
仏様の加護ぞある。
ぼくは自信満々に言うが——石海椿は、困惑したように眉を顰める。
「えっと、それで?」
「む? それでとは?」
「いやあの、まさかとは思いますが——御仏飯を食べて、それだけですか?」
彼女は気の毒そうに言った。
あれ、おかしいな。
「そうだが……恐ろしかろう? 御仏飯だぞ」
「いやあの、すいません——何一つとして怖くないです」
え?
「御仏飯とかそんなの、効きませんよ」
ほら。
言いながら、彼女は——ぼくの頬を思いっきりぶっ叩いた。
「痛——っ!?」
「全然近寄れますし手出しもできます」
な、なぜ——!?
驚愕の表情を浮かべるぼくに、彼女は哀れみの目線を向けた。
「いや私、確かに石見出身ですけど、だからと言って、その民間伝承に出てくる牛鬼そのものではないですからね」
牛鬼の弱点が御仏飯とか、初めて聞きましたよ。
なんて彼女は言った。
「よくもまあ、そんなマイナーな伝承調べて来ましたね、ほんと……。そしてよくもまあそんなものを頼りに自信満々でいられましたね……」
彼女は心の底からの憐憫を込めて言った。嘘だろう。馬鹿な。そんなことがあっていいのか? しかし彼女は、伝承の通りの瞬間移動を使って——
「使っては、いますけどね。だからと言って、全ての伝承通りというわけではないですよ。ほら、それだったら私、そもそも人の姿になれているのがおかしいでしょう」
本来なら、牛の頭に蜘蛛の体、じゃないですか。
そう言った彼女は——人の姿を、している。
「そ、それは、うちの父だって人に化けているし——」
「そもそも、ですよ?」
彼女は出来の悪い生徒に教える教師のような声色で言った。
「妖怪が全て伝承通りの性質を持っているというのなら、たとえば河童は、金物に触れたら絶命するはずじゃないですか」
彼女は言った。
「あなた、金属に触って死にます?」
「……死なない」
うちの父などゴルフが趣味で、しょっちゅうゴルフクラブの手入れをしている。あれは間違いなく、金属製だ。
「伝承が全て確かだっていうなら、私が鬼でも豆投げたら逃げていくでしょう。あなた、本物の鬼相手に豆持って立ち向かう勇気あります?」
「……ないです」
完全なる論破であった。ぼくは何も言えず、俯くしかない。
「なんで鬼や河童は伝承通りの弱点がないってわかってて、牛鬼だけは伝承通りに弱点があると思ったんですか? どう考えたって、おかしいじゃないですか」
全てが全く道理である。
敵に、教え諭されていた。
ぼくは月を見た。とても綺麗な月だった。もしかしたら、人生最後に見る月かもしれなかった。
石海椿は、可哀想なものを見る目でぼくを見ている。
「……それじゃあ、やりますか」
粛々と、彼女は言った。
「あの、ご相談があるのですか」
「……なんです?」
「やっぱり無かったことにはしていただけませんか」
「できませんねぇ」
石海椿は即答した。
ぼくは泣きそうな気持ちになった。
「いやだ! 死にたくない!」
「安心してください。出来るだけ長く、生かしたまま食べてあげますよ」
「嬉しくない! 嬉しくない!」
石海椿は拳を構えた。ああ! 殺される!
「ほら、あなたもせいぜい、抵抗してくださいよ。河童の味も気になりますが——それとの戦いだって、大事な前菜なんですから」
彼女は嘲るように笑った。ふざけるな。これ以上河童の力を使っても見ろ。ぼくは今度こそ、本当に河童になってしまうかもしれない。
それだけは——ごめんだ。
たとえ、死んだって。
ぼくは、絶対に。
絶対に、絶対に、絶対に——禿げたくないんだ。
「——まだ、あるぞ」
ぼくは、歯を食いしばる。
「伝承は、全てが全て本当ではない」
しかし——彼女が言葉による呪術を扱うように、本当である伝承もある。
「伝承に、曰く」
島根県は大田市、五十猛には、大浦という浜があった。そこにはウシワニという怪物が現れ、度々人を脅かしていたという。
そのウシワニを退治したのが、和田徳左衛門という男であった。
三度の飯より相撲が好きという男であり、その噂を聞きつけたウシワニの方が、彼と相撲を取りたいと言い出したのである。
困ったのは徳左衛門だった。そのような化け物と相撲なぞ取りたくない。困った徳左衛門は阿弥陀如来に縋り、そして仏から天啓を授かった。
曰くして、ウシワニの頭には水盆があり、そこに入っている水をこぼすと力を失うのである。
徳左衛門はウシワニと相撲を取る前に、向かい合うウシワニに対して何度も首を傾げる所作をした。するとウシワニはそれが人間の挨拶なのだと勘違いして同じ動作をし、その際に頭の上の水盆から水がこぼれ落ちてしまったという。
そして、力を失ったウシワニを、徳左衛門は相撲で叩きのめしたのである。
「お前はいつも、頭に烏帽子をかぶっているな」
その下には——何がある。
言えば。
「——っ」
石海椿は、今度こそ動揺した。
それを見て——ぼくは内心でガッツポーズをする。
やはり、やはりそうなのだ。
牛鬼が弱点などない、完全無敵の妖怪であるのならば——鬼を装う理由などない。
その烏帽子には、意味があったのだ。
だとするのなら。
だとするのなら彼女は、きっとぼくと同じなのだろう。
彼女の心が——手に取るように、わかる。
だからこそ。
「その烏帽子、取って見せろ——!」
ぼくはその残酷を、確信と共に行使した。
ぼくは雄叫びをあげて、石海椿へと飛びかかる。当然、石海椿は抵抗しようとするが、今ばかりは天が味方したのか、ぼくの方が早かった。
「ああっ!」
その頭上烏帽子を勢いよく剥ぎ取れば——そこには。
「……え?」
ぷかぷかと、水の球が浮いていた。
いかなる力のよってなのか、水はひとりでに球状を保ち、器に入ることもなく、ふわりと浮いている。
水盆は——なく。
水の球だけが、そこにはあった。
「……え?」
ぼくは気になって、その水球を毟り取った。
「ぐっ、ぁああああああああああ!!」
瞬間、石海椿は凄まじい勢いで苦しみ出すが——ぼくはそれどころではない。
「……皿は?」
ぼくは問う。
彼女の頭頂部。水球が浮かんでいた下には。
さらっさらの。
艶々とした黒髪が。
たっぷりと、生え揃っている。
一部の隙もなく。
一部のハゲもなく。
綺麗に綺麗に、生え揃っている。
「よくも、よくもやってくれましたね——!」
彼女はぼくから距離を取り、憎々しげに睨みつけてくる。
「流石は河童、水を操るのはお手のものということですか。私が数多の人妖を喰らい、貯め続けて来た妖水を、こうもあっさりと奪い取るなんて——」
彼女は何やらごちゃごちゃと文句を言っているが、しかし——
「皿は?」
ぼくは。
ただそれだけが、気になっていた。
彼女の頭に、皿はない。
黒々とした髪だけが、生えている。
「皿? 何を言っているのです? 皿があるのは、河童でしょう」
私は牛鬼ですよ——なんて、彼女はこともなげに言った。
ああ、そうか。
そうか——
「……お前は、ぼくの敵だ」
「……ふふ、そうですよ。私は、あなたの敵です」
彼女は怯えたように後ずさる。その瞬間——ふと、気付く。彼女から感じていた莫大な妖気が——まるで感じられなくなっていることに。
「もしかして、さっきの水が力の源泉だったのか?」
「いや自分でそう言ってたじゃないですか」
だから私の烏帽子を毟ったんでしょう、なんて言われるけれど、違う。そうではあるが、そうではない。
ぼくは。
ぼくはそこに——皿があることを、期待していたのだ。
「仲間だと、思ったんだ」
「は?」
同じ苦しみを分かち合える、仲間だと。
「なのにお前は、ぼくを裏切った——」
「いや裏切ったも何も、元々敵じゃないですか。何言ってるんです突然」
彼女は首を傾げるけれど、関係ない。
ぼくは、ぼくは傷付いていた。
どうしてだ。
どうして、河童ばかりなんだ。
どうして河童ばかり——禿げるんだ。
同じ水の妖怪だろうが。
頭に水を浮かせておいて、その器はどこへやったんだ。
こんなの、不公平じゃないか。
「今、わかった。お前は、ぼくの敵だ——!」
「いやあの、初めからそうですけれど……え? 本当に何? 怖い……」
ぼくは彼女に指を突きつける。
「美しき牛鬼、石海椿よ! ぼくはお前に決闘を申し込む!」
「なんだか分かりませんが……いいでしょう。受けて立ちますよ。上乗せしていた力を奪ったからと言って。調子に乗らないことですね。私は牛鬼! 如何なる状況にあろうとも、正真正銘の大妖怪だ!」
彼女は言って、拳を構える。
ぼくは腰を深く落とした。
月明かりが照らす中——ぼくらは睨み合う。
「はっけようい——」
自然と、ぼくはつぶやいていた。石海椿の視線が、鋭く研がれる。
「——のこった!」
ど、と衝撃音を立てて、がっぷり四つに組み合う。凄まじい力で押される——が。
「——戦えぬほどではない!」
己を鼓舞するように、叫ぶ。人としてみれば怪力も怪力だが、しかし決して、太刀打ちできぬほどのというわけでは無かった。現に、ぼくはこうして、彼女と組み合い、押し合えている。河童の力を使わずしても、これならば——なんて、思ったぼくに対し。
「は、これが、私の本気だとでも?」
彼女はそう言って——強く、身に力を込めた。
「ぬぅ、おおおおおおっ!」
一気に、押し込まれる。まるで人間ではなく、自動車と押し合いをしているかのような力の重み。あるいはそれこそ——牛と力比べをしているかのような、人外の膂力。
だが、しかし。
相撲は、力ばかりで取るものではない。
「う、ぐ、おおおおおっ!」
押し込まれる力を利用して——いなす。
相手の袖を掴み、押し込む力に逆らわず——引く。
「むっ」
姿勢を崩し、前のめりになったところを——落とす。
「がっ——」
石海椿に土を付けた。相撲ならば決まり手だが、これは神事ではない。だからこそ、ぼくもまた手段を選ばずの攻撃ができる。
豊かな黒髪が生える頭を、思い切り踏みつける。起きあがろうとしていた彼女は再び頭を大地に打ち付けた。ガチン、と火花の飛ぶ音。いかな大妖怪、牛鬼といえど、これは効くだろう——と、楽観したぼくを諌めるように。
「う、ああっ!」
石海椿は雄叫びをあげ、踏みつけるぼくの足ごと強引に頭を上げた。そのまま、クワガタムシが敵をそうするように——二本の角を讃えるその頭で、ぼくの体をひっくり返す。
「ぐあっ」
背から地面に叩きつけられて、肺から空気が吐き出された。咳き込むぼくに——間髪入れず、お返しとばかりに殴りつけられる。
「やらせるかっ!」
叫びながら、ぼくは転がってそれを避け、逆に、落ちて来た腕に組みついた。下半身を跳ね上げて体に絡み付かせ、相手を強引に引き倒し、そのまま逆十字固めへ。サブミッションこそ王者の技よ。梃子の原理を利用した関節技は、完全に決まれば、力の差では外せない。牛鬼であれど、人の形を取る以上——関節の構造は同じだ。ぼくは彼女の伸び切った腕にそのまま力を込め続ける。そして——
「ぎゃああっ!」
破裂するような叫び声。それに前後する形で——ばきりと、関節が砕ける音色が響く。
技を解けば——立ち上がった石海椿の腕は、肘からぶらりと折れ落ちていた。
「片腕、もらったぞ」
「……っ、やってくれましたね」
彼女は肩で息をするが、しかし、その瞳は敗者のそれでなく。
「衣がダメになりますから、嫌なんですけどね」
正真正銘、全力を尽くして差し上げましょう。
彼女は言って——ぶくり、と。
その体が、膨れ上がる。
ミチミチと着物が裂け、そこに現れたのは——
巨女。
肥大化した牛の角を二本、頭上に戴き、身の丈はちょうど二倍ほど。筋骨隆々といった出立ちにして、服は裂け切っての、ほぼ全裸。まろびでた乳房が——なんとも。これは。結構なものをお持ちでいらっしゃって、大変いけない。あー、これはいけない。いけませんよ。そんなところまで牛鬼なのですか。なるほどこれは一本取られた——
「どこを見ているんです?」
「どこも見ていないが?」
ぼくは慌てて視線を逸らした。いついかなる時も紳士としてあるべし。師匠の教えを唱え直し——って。
「戦闘中に敵から目を逸らす馬鹿がどこにいます」
ごう、と風を切り、迫った手が、ぼくの首根っこを掴み上げる。ああ、クソ、なんと卑劣な戦法か。紳士たるぼくの紳士的な視線移動を利用して、強制的に隙を作るとは。
しかし——相手は片腕だ。追撃のないネックハンギングごとき、どうとでもな——る?
「な、ん、だ……?」
体の力が、猛烈に抜けていく。生命を維持するにあたって大切な何かが、猛烈な勢いで体から失せていく。いや違う、これは、なくなっているのではなく——吸い取られているのだ。
「伝承を調べたくせに、これは知りませんでしたか?」
そう言えば、石見の牛鬼には、こんな伝承もあった。
曰くして大浦の岩場に出た牛鬼は、手のひらに『なんでも吸い付けるもの』を持ち、それで相手の自由を、奪ってしまうのだ、と——
「うぐううううっ!」
体から、大切な『何か』を吸い取られる度——その二本角の間、彼女の頭上に、小さな水球が生じていく。確か、妖水だのといっていたか。ああして、妖怪や人間から、力を吸い取り、溜め込んでいたのだ。
しかし、それが水であるのならば——奪い返せる。
河童の力だ。さっき、無意識的にそうしてしまったように——水球から、妖水を吸い取ってしまえばいい。
河童は、水を操る。その力は、どんな妖怪よりも強いのだ——と、父は汚い笑顔で言っていた。釣り上がった嘴に並ぶ、悪魔のような牙を思い出す。師匠の歯より、汚かった。あんな歯になるくらいなら、死んだ方がマシだと思った。
なのに。
それなのに——
「くそったれがぁああああああっ!」
雄叫びをあげて、生じる水球から、妖水を奪い返す。水を操るは、河童の力。ああ、結局使ってしまった。畜生、クソが。また、ハゲが大きくなってしまう。これ以上は、隠せないかもしれない。ぼくはまだ、十代なんだぞ。それがどうして、こんな目に遭わなくてはいけない——
ぼくは。
ぼくは河童になんて、なりたくないのに——
「ぎぃいいいいっ」
牛鬼が、叫び声を上げる。みれば——その体が、少し萎んでいる。水球はとっくになくなっていて——ぼくは力を奪い返すに飽き足らず、吸い取り返していたようだ。
ぼくは慌てて、力を止める。もうすっかり、ネックハンギングの力は弱まっていた。拘束を脱し、着地する。
「く、河童と水勝負を挑んだのが、間違いでしたか——」
彼女は弱々しく言いながらも——しかし、闘志は消えず。
「それでも、勝つのは私だ!」
啖呵を切って、殴りかかる。
だが——なんと間の悪いことだろう。
ぼくの体はあいにくと、過去類を見ないほどに絶好調を迎えていた。
拳の軌道が、見える。
紙一重で、迫り来るそれを避け——突き進むその手首を掴む。
そして、迫り来る勢いを利用し——一本背負い。
「もらった」
小さく呟き——支点力点作用点。梃子の力を利用して——ぐるりと一回転。
石海椿を——背中から、思い切り、大地に叩きつける。
「が——はっ」
それが、決まり手となった。
石見椿は——力無く、大地に横たわったまま——動かなくなった。
「ま、参ったか」
ぼくは、なるべく胸を張っていった。どっと、汗が沸いてくる。直感でわかる。これ以上は本当にまずい。これ以上、この有り余る力を使ってしまえば——ぼくは本当に河童になってしまう。だからこそ、これ以上の戦闘は絶対に避けたい。祈るように、石見椿の目を見れば——
「……参りましたよ」
彼女は力無く——そう告げた。
「まさかこの私が、半妖風情に負けるとは」
彼女は横たわるままに、苦渋の表情でいった。
「死にたくなるくらい、情けない」
ふ、と。小さく自嘲して、彼女はぼくに視線を向けた。
「殺しなさいな」
「待て、その前に、一つ聞かせろ。お前はなぜ——京都に来たのだ」
わざわざ島根くんだりから、京都まで。観光というわけでもなし、一体どうして。
「ま、時代の流れというやつでしょうかね。住処を追われたんですよ。今や妖怪より、人間の方が強い時代ですから」
そんな中でも——
「京都は、妖怪が強い勢力を持っている」
だからその縄張りを、奪おうと思った——と、彼女は言った。
「特に鴨川なんて、水の妖怪にとっては聖地みたいなものですからね。ここを縄張りとできれば、一気に、力を増せる」
「そのために、父を襲ったのか」
ぼくが問えば——彼女は、不思議そうな顔をした。
「父?」
「今更惚けるな。お前たちが襲ったのだろうが。鴨川の権利書目当てに」
「いえ、それは初めから、あなたから奪うつもりでしたよ。一番弱いところから狙うのは、戦略的に当然でしょう」
鴨川河童の一人息子となれば、呪術的にも権利譲渡は十分成立しますし——
「それに、あなたの父親は、相当強いと聞いてましたからね。無策では挑めませんよ」
「馬鹿を言え。それでは誰が、父を病院送りにしたというのだ」
「は?」
彼女は今度こそ——大口を開けて驚いた。
「病院送り? あなたの父が?」
「そうだが?」
「冗談はよしてくださいよ」
彼女はそれを鼻で笑う。
「三十三代目鴨川守護、伏見桜
ありえない——と彼女は捲し立てた。
伏見桜妖司郎は、確かに父の名であるが——それが、なんだ。島根まで名が轟く武闘派? あのしょぼくれた中年男性が?
「それこそありえないだろう。お前、何か勘違いしてるんじゃないか?」
ぼくは彼女に真実を問いただそうとして——
ふ、と。
背後から——水気のある音色が、聞こえた。
振り向けば——そこには。
黒尽くめの人影が、立っていた。
ぴちゃり、ぴちゃりと、ししどに水気が滴り落ちる。
ずぶ濡れの、びしょ濡れの、滝行でもして来たのかと思うほど水を吸い尽くした、分厚い黒布を、頭から被っているのだ。
顔は当然、見えず。されど——奇妙に。
その濡れた黒布からは、白い、霧のような靄が立っていた。
「な——何者だ」
ぼくは誰何する。しかし——その人影は、何も答えない。代わりのように——ぬるり、と。
ぼくの脇を通り過ぎて、石海椿の元へと向かう。
「おい、待て——」
その肩を掴もうとするけれど——
「熱っ!」
手のひらを、火傷する。尋常ではない温度だった。白い靄は、湯気だったのだ。ししどに濡れたその黒布は、現在進行形で、沸騰している真っ最中だった。
止め損なった人影が、石海椿の元へとしゃがみ込む。
「お前は——そうか」
彼女が、何かを言おうとした瞬間——その腕を、振り上げて。
「やめろっ!」
静止のために、ぼくはその人物に組みつこうとするも——間に合わず。
その腕の先に伸びた、悪魔のような鉤爪が、石海椿の胸を穿った。
「か——」
断末魔はか細く。彼女は吐息のような声を漏らし——絶命する。
ぬるりと、またもぼくの腕から逃れ、その場を飛び退った黒い人影の鉤爪の内には——まだか弱く脈動する、石海椿の心臓が握られていた。
鉄錆の匂いが——満ちる。
「お前、何を——」
する、と。言い切る前に。
彼女はそれを、黒布の裏の、顔の方へと持っていき——
ぐちゃりと。
ぐちゃぐちゃと——喰らう。
ぼくは。
ぼくはそれを、ただ見ているしかできなかった。
心臓を貪り尽くした人影は、ほんの一瞬、ぼくの方へと視線を向け——ふ、と。
その場から跳躍した。
尋常ならざる脚力でその場から飛び上がり——そしてグラウンドの、高い高い柵を越えて、何処かに、消えていった。
「……」
ぼくは立ち尽くす。石海椿の死体が、ゆっくりと冷えていく。
月が翳り、雲が満ちて。
やがて——ぽつりぽつりと、雨が降り出した。
それはやがて、ざあざあとした土砂降りに変わり、ぼくの体を強かに打つ。
体の芯までが冷え切って、まるで水の中にいるようで。
それでもまだ、ぼくは——動くことが、出来なかった。
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