第二章 魚影と女装とゴム手袋

2-1


 翌日のことである。


 ぼくは水泳部の顧問に呼び出されていた。


「水泳部、来いや」


 ぼくは天を仰いだ。教職員室の、煤けた天井が見えた。


 水泳に携わる人間というのは、もしかして皆ことごとく、知能が八ビット以下なのであろうか。


「いやです、甘芽先生」


 ぼくが言えば、彼女——御手洗みたらい甘芽あまめは「むう」と唸った。水着の上に小豆色のジャージを羽織っただけという、これまた教師がしているとは到底思えない破廉恥な衣装に身を包む彼女は、その短い髪を大きな手でガシガシとかき回しながら言った。


「そんなに嫌か——


 彼女はそれを、平然と口にした。御手洗甘芽。彼女は知っている。ぼくが河童の血を引くことを——知っている。

 なにせ、彼女は。


「そりゃあ嫌ですよ。あなただって嫌でしょう。——


 小豆洗い。

 と、ぼくはそう口にした。


 御手洗甘芽——彼女は、ぼくと同じだ。

 ぼくと同じ——


「いや、私はそうでもないが」


 小豆洗うの、好きだし。

 などと呑気に言ってくれる。


 ここだ。ここが彼女と合わないのだ。


 御手洗甘芽。彼女はのクォーターだ。聞くに、祖父が小豆洗いであるという。


 小豆洗い。読んで字の如く、小豆を洗う妖怪。

 伝承に曰くして、河原にて小豆を洗い、しょきしょきと音を立てる。

 特徴らしい特徴はそれだけだ。


 これのどこが妖しく怪しいのか全く理解ができないが、まあ今時わざわざ河原で小豆を洗っている人物を見れば少々ギョッとするのは間違いないので、そう言う意味では妖怪と言ってもいい……のだろう、多分。


 いずれにせよ、彼女はそんな小豆洗いの血を引く人間であり、ぼくと同じく、小豆洗いと人間の間で揺れ動いている。


 ただ致命的にぼくと異なるのは、その血が半分なのか四分の一なのかという点もさることながら、ぼくが人として人たるの誇りを持ち、それを胸に高らかと掲げ人足らんとして堂々たる道を歩んでいるのに対し、彼女は特にそういうこともなく、というスタンスで生きているということだ。


 そりゃあいいよなあんたは。

 妖怪になっても、小豆洗うだけだし。


「小豆洗いは小豆洗いで結構色々大変なんだぞ。一日一回は小豆洗わないと夜眠れなくなっちゃうし、小豆洗ってるとつい時間を忘れて洗い過ぎちゃうし」


 なんらかの特別なフェティシズムのような苦労を語りつつ、彼女はため息をついた。


「いいじゃないか、河童。なってしまえば。泳ぐのも早いし、力も強いし、いいこと尽くめだ」

「人ごとだからと言って簡単にいうのはやめてください」


 ぼくは河童になんてならない。人間として生きるのだ。


「そもそも水泳なんぞ、人間のやることではないのです。どうしてわざわざ陸地に上がり、肺と手足を手に入れた人間様が、いまさらのように水辺に戻り、あっぷあっぷとできもしない魚の真似事をせねばならぬのか。ご先祖様が泣いておりますよ。霊長類としての誇りはないのですか、あなた方には」

「万物の霊長たるがゆえにこそ、水中においてもまた頂点足らんとするのではないかね」


 甘芽先生は片眉を上げて言った。ぼくはそれを睨みつけた。


「……だとしても、ぼくは地上の頂点を目指しますよ」


 ぼくが言えば、彼女は「はあ」とため息を吐く。


「どうしても水泳部に入るつもりはないのか?」

「ありませんね」

「助っ人だけでもどうだ。練習は、特別に免除しよう。大会の時だけでも——」

「お断りします。ぼくはもう、終生泳ぎはせぬと魂に誓ったのです」


 ぼくはキッパリと言い切って、踵を返した。


「……田中も、お前を待っているぞ」

「あの海パンやろうとは縁を切りました」


 たとえかつては友であったのだとしても。

 今はもう、赤の他人だ。

 彼と共に泳ぐ日は、もう二度と来ない。


 もう二度と、来ないのだ。


「ぼくの存在は、もう忘れてください」


 それだけを振り向かずに告げて、ぼくは職員室を出る。


 全く、ああ。

 何もかも、ままならないことばかりだ。


 ◯


 助悪郎すけあくろうと言う男がいる。

 本名ではない。あだ名だ。


 本来の名は、鹿威ししおどし鹿驚かかし


 顔がよく、大層な男前で、そして性格はその真反対。


 兎にも角にも女が好きで、その上節操無しの悪食。女と見れば同年代から六十を過ぎた老婆まで、誰彼構わずアプローチを仕掛け、そのくせ付き合うとなるとすぐに飽きて捨てる。


 人の屑と言っていい破廉恥極まる性格をしたその男を、人呼んでスケコマシの助悪郎スケアクロウ


 そんな生きる恥のような男がこそ、残念ながらこのぼくの、数少ない友達の一人だった。


「この間さぁ」


 言いながら、洗面台の前、鏡を見ながら、金色に染めた髪をいじる。男子トイレ。奴が今髪を触っている手が、小便をした後一度も洗っていない手であることを、ぼくだけが知っている。


 汚い。


 ぼくはそう思うものの、ぼくの髪を触られているわけでは無かったので何も言わなかった。


「俺、例の殺人鬼、見ちゃったんだよね」


 髪をセットし終わった後、奴はようやく手を洗った。順番が逆ではないか。


「例の殺人鬼とは?」

「ほら、この近くでさ、三人? 四人? 殺してるっていう」


 ぼくが聞いたときには三人だったはずだが、またぞろ被害者が増えたのかもしれない。厭な話だ。


「あれか。なんだ。殺害現場でも見たのか?」

「うーん。そういうわけじゃない……ん、だけど、近いかな」

「ふむ?」

「なんかさ。多分だけど——死体運んでるとこ、見ちゃったんだよね」


 死体——を?


「そ」


 奴はこちらを見ず、鏡だけを見ている。


「まー、確たる証拠があるわけじゃないんだけどね」


 曰くして——

 それは一昨日の夜——というより、早朝と言った方が良い時間。

 彼はいつものように女と遊び、そして朝帰りと洒落込んでいたらしい。

 そんな最中——帰り道の、路地の陰に。

 彼は、それを見たという。


「なーんかさ。妙にでかい荷物を運んでんだよね」


 その影は、大きな鞄を背負っていたという。


「リュックサックってんじゃあないんだな。でっけーボストンバッグみたいな? もう、俺の身長と同じくらいのデカさなんだよ。それをこう、ほとんど引きずるみたいにしてさ、裏路地をこそこそ歩いてるわけ」


 あ、やばいな、と思った。


 彼はそう語る。


 なにせ——匂いが。


「血の匂いがしたんだよ」


 前、ヤクザの女に手ェ出しちゃった時にも、同じ匂いを嗅いだことがある、なんて彼は言った。


「濃厚な、ってわけじゃない。でも、確かに感じた。それで思ったんだよ、ああ、ありゃ死体だな、ってさ」

「それで、どうしたんだ」


 いい加減、小便臭いトイレから出たいぼくは、話の結論を急かした。この男には、こういう悪癖がある。話を引き延ばしたがるのだ。


「ちょっとだけ、後を追ってみようかな、って思ったのさ」


 好奇心だった、という。

 女に手を出すのと同じ。なんとなく、危なそうな気配。そこに手を突っ込むのが、たまらないのだ、という。ぼくには理解できない性だったが、ともかくとして、彼はその衝動に従い、人影を追って、その人物が入っていった路地裏に、自分もまた踏み込んだという。


「そしたら——」


 その場には。


 、という。


「——それで?」

「それだけ」


 彼は首を振った。


「それだけってことはないだろう。その怪しげな人物はどこへいったんだ」

「それが全くわからない」


 彼は言う。


 その路地裏は、そもそもという。三方をビルの背に囲われ、行き場のない。

 そんな場所に入り込んで——どこへ姿を消したのか。


「お前の見間違い、ってことはないのか?」

「うーん。その確率が、五十パーくらい」


 俺、酒入ってたし、なんて平然と言う。平然とした未成年飲酒の告白。全き屑の所業である。この男を見るといつだって、こうはなるまいと気が引き締まる。


「だから警察にも言わなかったし、お前以外には誰にも言ってねぇ」


 でも——


「俺は確かに、見たんだよ」


 死体を運ぶ——その影を。


 ——


「異形の影、ねぇ」


 ぼくはきゅ、と蛇口を捻って、流れ落ちる水を止めた。


「やっぱりお前の見間違いなんじゃないか」


 ぼくが言えば、彼はそうかなぁ、なんて首を傾げる。


「まあいいや。それでお前、今日の放課後、遊べる?」

「遊びたいところだが、金がない」

「貸すぜ?」

「女から毟り取った金をだろう。そんなものに触れれば手が腐る。要らん」


 遊ぶ金くらいは自分で稼ぐ。


「そう言うわけだ。せいぜい女と遊んでいろ」

「なんだよ釣れねえな」

「男を釣ったところで面白くもなんともないだろうが」


 ぼくは言って、トイレを出た。


 ハンカチを忘れて、手が濡れたままだった。

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