『白蛇のユイ 〜美しき呪いの転生譚〜』
ソコニ
第1話
# プロローグ:白き伝承
山村に伝わる言い伝え。
白蛇神の生まれ変わりは、人の姿で現れるという。
その肌は月明かりのように白く、瞳は金色に輝く。そして、触れた者から生気を吸い取っていく。だが、それは苦しみではないという。むしろ、深い安らぎの中で、魂が溶けていくような感覚。
山道で白い着物の少女を見かけたら、決して目を合わせてはいけない。
その微笑みに魅入られたら、もう逃れることはできない。
「私、ずっとあなたを待っていたの」
甘い声に誘われ、気がつけば肌が白く変わっていく。
首筋に鱗が浮かび、指が蛇のように細長くなる。
そして、人としての殻を脱ぎ捨て、本来の姿に還っていく。
40年前、この村では白蛇の生まれ変わりと噂される少女が現れた。
ユイという名の、美しい少女。
村人たちは恐れ、そして――彼女を殺した。
八つ裂きにされた体から流れた血は、白かったという。
その血は土に染み込み、今も生きている。
そして、新たな生まれ変わりを待ち続けている。
あなたも、白蛇の血を持っているかもしれない。
だから、決して白い着物の少女を見てはいけない。
その瞳を覗き込んではいけない。
もし、肌が白く変わり始めたら――
それは、本来の姿に目覚める時。
「さあ、帰りましょう」
甘い声が、あなたを呼んでいる。
第1章:山に眠る少女
秋の夕暮れが、遠くの山々を暗く染めていく。案内板の前で立ち止まった私は、思わず腕時計を見た。針は午後五時を指している。あと一時間もすれば、完全に日が落ちる。この山道を下りるには、まだ間に合うはずだ。
写真を撮りに来たことを後悔し始めていた。SNSで話題の「白蛇神社」。歴史ある建物と、不思議な伝説。確かに、幻想的な写真は撮れた。でも、帰りが遅くなりすぎた。
背筋に冷たい風が走る。奇妙なことに、木々の葉は一枚も揺れていない。
その時だった。
白い影が、視界の端をかすめた。
振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。純白の着物に身を包み、長い黒髪を垂らしている。夕闇の中で、その肌は淡く光を放っているようにさえ見えた。着物の裾が、風もないのに不規則に揺れている。
少女は案内板に背を向けて立っていた。その姿勢には、どこか不自然さがあった。まるで、人形のように。
「迷子ですか?」
私の声が、冷たい空気の中で途切れた。言葉を発した瞬間、それが間違いだったと悟った。
少女はゆっくりと、とてもゆっくりと振り返り始めた。首の角度が、人間にはありえない角度まで捻じれていく。
その瞬間、私の体が凍りついた。
彼女の顔には、何もなかった。
目も、鼻も、口も。ただの白い平面が、そこにあるだけ。月明かりのような青白い光を放つ、つるりとした肌。
逃げ出そうとした時、その白い面に細い亀裂が走った。カチッ、という卵の殻が割れるような音。亀裂は蜘蛛の巣のように広がり、やがて、その中心から何かが這い出してきた。
蛇のような、細長い舌。それは、まるで私の生命力を嗅ぎ取るように、空気を舐めている。
「やっと、会えました」
声は私の頭の中で直接響いた。甘く、優しい声。まるで愛しい人を待ち焦がれていたかのような声。だが、その優しさの奥底に潜む何かが、私の全身を震えさせた。その声には、人間離れした飢えがあった。
「あなたの生気、頂戴」
言葉と共に、少女の体が不自然に伸び始めた。着物の下から、蛇のような白い肌が覗く。指が細長く伸び、爪が鋭く尖っていく。
私の視界が歪み始める。体から力が抜けていく。まるで、血液が一滴ずつ吸い取られているような感覚。心臓の鼓動が遅くなっていくのを感じる。
意識が遠のく中、最後に見たのは、少女の顔に次々と開いていく無数の目玉だった。それは全て、私を見つめていた。瞳の中に、何か白いものが蠢いている。
「お美しい...」
それが、私の聞いた最後の言葉だった。
*
「また行方不明者か」
山村警察署の古びた事務所で、刑事の中西は溜め息をつきながら新しい届け出書類を眺めていた。蛍光灯の明かりが、疲れた彼の顔を青白く照らしている。
机の上には、過去3ヶ月の失踪事件の記録が積み重なっていた。5人目。全て同じパターンだった。
山を訪れた観光客が失踪し、数日後に発見される。生きてはいるが、まるで抜け殻のように意識がない。医師は「急激な衰弱」と診断するが、その原因は誰にもわからない。検査結果は全て正常。ただ、生命力だけが極端に低下している。そして、全ての被害者に共通する奇妙な特徴があった。
発見時、彼らの肌は異常なまでに白かった。
「白蛇の祟りだな」
年配の警官、倉田がドアを開けて入ってきた。手には二つの紙コップ。湯気の立つ珈琲の香りが、古い書類の匂いに混ざる。
「また始まったってことさ」
倉田の声には、諦めのような響きがあった。
「何が始まったんですか?」
中西は興味を示さず、事務的な口調で尋ねた。都会から赴任してきた彼には、この村の言い伝えは単なる迷信でしかなかった。科学的な説明のつかない事件など、あり得ないと思っていた。
倉田は窓際に腰かけ、外を見やった。夕暮れの山々が、不吉な影を落としている。その山の中に、何かが潜んでいる。そう直感させる暗さだった。
「40年前にもあった。若い女が次々と命を落とした。原因は..."あの子"さ」
倉田の声が震えた。
「私も、その時見たんだ」
「何をですか?」
「白蛇の生まれ変わりと言われた女の子。ユイという」
倉田の瞳に、古い記憶が浮かび上がる。
「彼女に触れた者は、みんな狂い死んでいった。最初は疲れたように元気をなくし、それから次第に衰弱していく。最後は...」
言葉を途切れさせた倉田の目には、恐怖の色が浮かんでいた。
「肌が白く、透き通るように変化していって...ある日突然、まるで抜け殻のように」
「村人たちは何か対策を?」
「ああ」倉田は苦々しい表情を浮かべた。「ある夜...」
「どうしたんです?」
「殺した。八つ裂きにして、山に埋めた」
中西は思わず身震いした。倉田の声には、まるで自分がその場にいたかのような重みがあった。
「私も、その場にいた。あの夜のことは、一生忘れられない」
倉田は立ち上がり、キャビネットから古い資料を取り出した。
「これが、その時の記録だ」
古びたファイルの中から、一枚の写真が滑り落ちた。白黒写真の中で、一人の少女が微笑んでいる。長い黒髪、白い肌、そして...どこか人間離れした瞳。
「最近、山で白い着物の少女を見たという噂がある。ユイにそっくりだと」
その時、署の電話が鳴った。
「もしもし、山村警察署です」
受話器の向こうから、震える声が聞こえた。
「た、助けて...白い、着物の...」
「どちらですか?場所は?」
「山道の...案内板...近く...」
「すぐに向かいます。そこを動かないで」
だが、返事はなかった。代わりに、奇妙な音が聞こえた。何かが地面を這うような、ぬめりのある音。そして...
「きれい...白く、透き通って...」
通話は突然切れた。
中西は立ち上がり、ジャケットを羽織った。
「場所は分かりますか?」
「山道の案内板の近くだろう」倉田が答えた。「あそこで、よく目撃されるんだ」
パトカーが山道を駆け上がる頃、空はすっかり暗くなっていた。ヘッドライトが照らし出す道は、まるで巨大な蛇が這った後のように曲がりくねっている。
突然、光が白いものを捉えた。
中西はブレーキを踏んだ。
道端に一枚の白い着物が落ちていた。その生地は、月明かりを受けて不自然に輝いている。触れてみると、蛇の鱗のように冷たかった。
そして、その横には携帯電話。画面はまだついていて、未送信のメッセージが残されていた。
『私、ずっとあなたを待っていたの』
「誰かいませんか!」
中西の声が山にこだわる。返ってくるのは沈黙だけ。
その時、倉田が携帯電話を拾い上げ、画面を覗き込んだ。そして、顔を蒼白にさせた。
「中西さん...これ」
画面には、もう一つメッセージが表示されていた。送信時刻は、たった今。
『次は、あなたの番よ』
風が吹き、白い着物が舞い上がった。それは月明かりの中で、まるで巨大な白蛇が蠢くように見えた。
その夜、山村に春とは思えない冷たい雨が降り始めた。雨は三日三晩続き、古い土を洗い流していった。そして、山の斜面から、40年前の秘密が少しずつ姿を現し始めていた。
白く光る骨と、朽ち果てない着物の切れ端。
そして、まるで生きているかのように光沢を放つ、一枚の白い鱗。
警察署に戻った中西の机の上には、新しい行方不明届けが置かれていた。
白蛇神社を訪れた写真家、榊原美咲。25歳。
添付された写真には、純白の着物を着た少女の後ろ姿が写っていた。投稿されたSNSの最後の一枚。そこには、不自然なまでに白く光る顔のない人影が、確かに写り込んでいた。
第2章:白き誘惑
「お客様、このお白粉はいかがでしょうか」
私は優雅に白い粉を手の甲に乗せ、目の前の客に差し出した。蛍光灯の下で、粉は真珠のように淡く輝いている。
「肌が、蛇のように透き通るような白さに...」
その言葉を口にした瞬間、喉が詰まりそうになった。蛇。なぜそんな言葉が出てきたのだろう。いつもの接客なのに、今日は何かが違う。
鏡に映る自分の顔が、一瞬歪んで見えた。瞳の奥に、白い影が蠢いているような。
「すみません、気分が...」
私、日比野真理は都内の高級デパートで美容部員として働いている。今日は新作の美白クリーム「白蛇姫」の発売日。朝から客が絶えない。
商品の企画書によると、原料は山奥の古い神社で採取された特殊な成分を含むという。その神社の名は...白蛇神社。なぜか、その名を思い出した瞬間、背筋が凍るような寒気が走った。
「真理さん、また在庫切れよ」
同僚の声に振り返ると、商品棚が空っぽになっていた。発売から半日で完売。SNSでバズった効果だろう。
「肌が透き通るように白くなる」
「まるで生まれ変わったみたい」
「触れた瞬間、体に吸い込まれていく」
「使うと、不思議な夢を見る。白い着物の少女が...」
口コミは瞬く間に広がった。最後の投稿が気になる。白い着物の少女。最近ニュースになった山村での失踪事件で目撃された...
私も一つ確保していた。家に帰って試すのが楽しみだ。いや、怖いはずなのに、どうして心が躍るのだろう。
「日比野さん」
声をかけられ、私は我に返った。部長が心配そうな顔をしている。
「顔色が悪いわ。早く帰って」
確かに具合は良くない。体が冷たい。まるで、何かに生命力を吸い取られているような...
化粧室で顔を確認すると、肌が異常に白い。そして、首筋に何かが見えた。鱗のような模様。触れてみると、つるりとした感触。
「気のせい、きっと疲れているだけ」
地下鉄の階段を降りていく時、不意に目眩がした。手すりに掴まろうとした瞬間、私の目に映ったのは―
白い着物の少女。
ホームに佇む彼女は、まるで古い日本画から抜け出してきたかのよう。長い黒髪と白磁のような肌。その姿には、人間離れした美しさがあった。
振り返った顔には、目も鼻も口もない。ただの白い平面。だが、その中心に細い亀裂が走り、蛇のような舌が覗いている。
「違う、幻よ」
私は目を強く閉じた。ここは都会の地下鉄。そんなはずは...
目を開けると、少女は消えていた。だが、私の手の中には一枚の白い鱗が残されていた。触れた瞬間、体の中で何かが目覚めた。
電車の中で、私は鱗を見つめ続けた。光の加減で、中に何かが流れているように見える。そして、かすかに脈動しているような...
*
家に着くなり、私は「白蛇姫」を開封した。
真珠のように白い軟膏。パッケージの中から、かすかに甘い香りが漂う。それは、まるで生きているもののような匂い。
「ほんの少しだけ...」
指先で軽くすくい、頬に塗りつける。
「冷たい」
その感触は、まるで蛇の舌が這うよう。塗った部分から、異様な快感が広がっていく。
鏡を見ると、塗った部分が真珠のように白く輝いている。その美しさに、私は魅入られた。
「もっと、もっと...」
気がつけば、私は全身に塗りつけていた。体が熱い。何かが、私の中で蠢いている。血管の中を、白い何かが流れていくような感覚。
バスルームの鏡に映る姿は、もう人間のものとは思えなかった。肌は透き通るように白く、指は細長く伸び、爪は鋭く尖っている。
そして首筋の鱗模様が、少しずつ広がっていく。
その夜、奇妙な夢を見た。
白い着物の少女が、私の体を優しく抱きしめる。その肌は冷たく、蛇のようにつるつるしていた。
「もうすぐ、私たちは一つになれる」
甘い声が、私の意識を溶かしていく。少女の体が、私の中に溶け込んでいく。
「人の姿なんて、もう必要ないのよ」
目が覚めると、私の体は完全に変わっていた。鏡に映る顔は、もう人間のものとは思えない美しさ。
全身が白い鱗で覆われ、指は蛇のように細長い。瞳は金色に輝き、瞳孔は縦に裂けていた。
そして何より、この体に喜びを感じている自分がいた。
*
「日比野さん、本当に大丈夫?」
化粧品売り場で、同僚が心配そうに声をかけてきた。その顔が、青ざめている。
「ええ、むしろ絶好調よ」
私は微笑んだ。鏡に映る笑顔は、どこか危険な魅力を帯びていた。唇の端から、細い舌がちらりと覗く。
「白蛇姫」を使った客が次々と戻ってくる。みな、同じような症状を訴えていた。
異常な白さの肌。
体の中の違和感。
そして、満たされない渇き。
「もっと、欲しい」
彼女たちの目は、蛇のように輝いていた。私には分かる。彼女たちも、変化し始めているのだ。
店内の鏡に映る客たちの姿が、少しずつ歪んでいく。肌の下で、鱗が蠢いているような...
その夜、私は山村へ向かう電車に乗っていた。体の中の何かが、私を導いている。
白い着物の少女―ユイが、私を待っている。
人々の生気を吸い取り、永遠の命を求める白蛇の末裔。その誘惑は、都会へと広がっていく。
私は今、その仲間になろうとしていた。
電車の窓に映る自分の顔が、ユイの顔と重なって見えた。
そこには、もう人間の痕跡は残っていなかった。
第3章:蝕まれる都
デパートの防犯カメラは、その瞬間を捉えていた。
真夜中の化粧品売り場。陳列棚の前に立つ女性客たち。全員が異様なまでに白い肌をしている。首筋には鱗のような模様が浮かび上がり、瞳は金色に輝いていた。彼女たちは「白蛇姫」の空箱を手に持ち、まるで蛇のようにゆっくりと首を動かしていた。
その動きには、もう人間らしさは残っていない。指が不自然に長く伸び、爪は鋭く尖っている。着ている服の下で、何かが蠢いているようだった。
そして、防犯カメラは突然、雪のような砂嵐に包まれた。
映像が回復した時、女性たちの姿はなかった。床には白い鱗が散らばり、かすかに脈動していた。それは生きているように、ゆっくりと床を這い始めた。
警備員が駆けつけた時には、既に遅かった。鱗は空調管を通って外へと逃げ出し、夜風に乗って都市の空へと散っていった。
*
「異常事態です」
緊急会議室で、中西刑事は報告を続けた。顔には深い疲労の色が浮かんでいる。徹夜で事態の把握に努めていたのだ。
「この一週間で、都内の行方不明者が急増しています。現在50名を超え、さらに増加の一途を辿っています」
スクリーンには、次々と被害者の写真が映し出される。
「特徴は全て同じです。発見された時には意識不明、そして...」
写真が切り替わる。病院のベッドに横たわる女性たち。肌は透き通るように白く、首筋には鱗のような模様が浮かび上がっている。中には、指が異常に長く伸びている者もいた。
「最も不可解なのは、これです」
新しい写真が映し出された。病室の床に落ちている、人間の形をした白い殻。まるで蛇の脱皮殻のようだった。
「共通点は全員が新発売の美白クリーム『白蛇姫』の使用者だということ。製造元の調査では、原料に山村の白蛇神社周辺の土が使われていました」
倉田警部が立ち上がった。その顔は蒼白だった。額には冷や汗が浮かんでいる。
「40年前と同じだ。ユイの血が...土に染み込んでいたんだ」
会議室の空気が凍りつく。誰もが、倉田の声に含まれる恐怖を感じ取っていた。
「説明してください」
「八つ裂きにされたユイの血は、白かった。人間の血とは違う。それが土に染み込み、そこから採取された成分が...」
倉田の声が震えていた。40年前の記憶が、生々しく蘇ってくる。
「あの夜、私たちは恐ろしいことをしてしまった。ユイの血は、土を這うように広がっていった。まるで...生きているかのように」
その時、会議室のドアが激しく開かれた。
「化粧品の回収命令が出ました!」
新人刑事の声が震えている。顔から血の気が引いていた。
「でも、遅すぎたかもしれません。SNSで『白蛇の儀式』というタグが爆発的に...」
スマートフォンの画面には、無数の投稿が流れていた。それは、狂気的なまでの熱狂を帯びていた。
『私たち、新しい姿に生まれ変わる』
『永遠の美しさを手に入れられる』
『白蛇姫様が、私たちを導いてくれる』
『人間の姿なんて、もう必要ない』
『さあ、本当の解放が始まる』
投稿者たちのプロフィール写真は、どれも異様なまでに白い肌をしていた。その瞳は金色に輝き、中には顔の輪郭が歪んでいるものもある。
さらに恐ろしいことに、投稿は数時間で数万件を超えていた。感染は、ネットを通じて加速度的に広がっている。
*
山村警察署に、一通の封筒が届いた。
宛名書きの文字が、異常に長く伸びている。まるで蛇が這ったような筆跡。
差出人は、日比野真理。
中から一枚の写真が出てきた。40年前のユイと、現在の真理が並んで写っている。二人とも同じ白い着物を着て、同じ不気味な微笑みを浮かべていた。
その笑顔には、もう人間の温もりは感じられない。二人の目は金色に輝き、瞳孔は縦に裂けていた。肌の下では、何かが蠢いているように見える。
写真の裏には、メッセージが書かれていた。文字が、蛇のように這い回っている。
『私たちは、もうすぐ完全な姿になります。
人間という殻を脱ぎ捨てて、本来の姿に。
さあ、新しい時代の幕開けです』
封筒の中からは、一枚の白い鱗も出てきた。それは今も生きているように、かすかに脈動していた。
*
白蛇神社の地下で、儀式は始まっていた。
古い石段を降りていくと、そこには巨大な地下空間が広がっていた。壁には無数の蛇が彫られ、床には謎の文様が刻まれている。
何十人もの女性たちが、円を描くように並んでいる。全員の肌が白く、首筋には鱗模様が浮かび上がっていた。着物の下で、体が不自然に蠢いている。
空気中に、甘い香りが漂っていた。それは「白蛇姫」の香り。だが今や、その香りには人を惑わす毒が含まれている。
中央には私、日比野真理が立っていた。もはや人間の姿を留めていない。肌は完全に白い鱗で覆われ、指は蛇のように長く伸びている。
そして、私の隣には白い着物の少女―ユイがいる。その姿は40年前と変わらない。いや、より純粋な白さを放っていた。
「みんな、準備はいい?」
私の声は、もう人間のものではなかった。蛇のような裂けた瞳が、集まった女性たちを見渡す。彼女たちの目も、同じように金色に輝いていた。
「今夜、私たちは本当の姿に生まれ変わる」
ユイが微笑んだ。その顔が、ゆっくりと崩れていく。白い肌の下から、無数の目玉が覗いている。それは全て、狂気的な歓喜に満ちていた。
「人間の姿なんて、もう必要ないわ」
地下の空間に、異様な詠唱が響き始めた。それは人間の言葉ではなく、蛇のような音。女性たちの体が、次々と変容していく。
肌が剥がれ、その下から白い鱗が現れる。指が溶けて蛇のような形になり、髪が抜け落ちる。悲鳴にも似た歓喜の声が、地下空間に満ちていく。
そして私も、最後の人間の姿を脱ぎ捨てようとしていた。体の中で、新しい命が蠢くのを感じる。
その時、地下室のドアが激しく開いた。
「止めろ!」
中西刑事と倉田警部が、銃を構えて立っていた。その手が、わずかに震えている。
「まだ間に合う、日比野さん!」
振り返ると、そこには懐かしい顔があった。元同僚たち。みな、「白蛇姫」を使った客。今では優雅な白蛇の姿に変わりつつある。
「間に合うですって?」
私は首を傾げた。その動きは、既に人間のものではない。まるで、蛇が獲物を見つめるような仕草。
「これは終わりじゃない。始まりよ」
ユイが、腕を広げた。その体から、無数の白蛇が溢れ出す。それは美しくも、恐ろしい光景だった。
「私たちは、世界に広がっていく」
天井から、白い鱗が雪のように降り始めた。それは、風に乗って都会へと運ばれていく。新しい感染の始まり。
空には満月が輝き、その光は異様な白さで世界を照らしていた。
そして、都会のあちこちで、女性たちの悲鳴にも似た歓喜の声が響き始めていた。美しく、そして恐ろしい変容の連鎖。
それは、もう止められない。
白蛇の時代が、始まろうとしていた。
*
翌朝のニュース。
都内の複数の場所で、白い抜け殻のようなものが発見された。人混みの中、オフィス街、地下鉄の駅、そしてデパート。
それは全て、人間の形をした、蛇の脱皮殻だった。
中には、まだ温もりの残るものもあった。
第4章:白き渇き
化粧品売り場の鏡は、もう人間の姿を映してはいなかった。
美しく、そして異形の存在。私、日比野真理の肌は真珠のように白く輝き、首筋には鱗が浮かび上がっている。指は蛇のように細長く、爪は鋭く尖っていた。瞳は金色に輝き、瞳孔は縦に裂けている。
鏡に映る私の唇が、かすかに動く。細い舌が覗き、空気を舐めるように揺れる。甘い香りが漂う。「白蛇姫」の香り。それは今や、私の血の中に溶け込んでいた。
「お客様、本日の『白蛇姫』は完売です」
私の言葉に、待っていた女性客たちがざわめく。その肌は既に白く、瞳は金色に輝いていた。みな、同じように変わり始めている。首筋の鱗模様、細く伸びた指、そして――抑えきれない渇き。
「でも、もっと素敵なものをお見せできます」
私は、カウンターの下から一枚の白い鱗を取り出した。それは今も生きているように、かすかに脈動している。中に何かが流れているのが見える。まるで、月光を閉じ込めたよう。
「これが、本当の美しさ」
鱗に触れた瞬間、女性たちの体が震え始めた。服の下で何かが蠢き、肌が剥がれ落ちていく。それは痛みではない。長い眠りから目覚めるような、懐かしい感覚。
悲鳴ではない。歓喜の声。
「もっと...もっと...」
彼女たちは床に白い殻を脱ぎ捨て、化粧品売り場の影に消えていった。後には、人の形をした抜け殻だけが残される。その中にはまだ、かすかな温もりが残っていた。
私は殻に触れる。つるりとした感触。まるで、古い思い出に触れるよう。この皮の下で、私たちは何年も眠っていたのだろう。
防犯カメラは、その全てを捉えていた。映像の中で、女性たちの体が溶けていく様子。人の形が崩れ、白い光に包まれ、そして――新しい命が目覚める瞬間。
*
「完全な封鎖を」
中西刑事は、デパートの防犯カメラ映像を見つめていた。画面の中で、人影が次々と白い影へと変わっていく。
「既に遅いわ」
倉田警部の声が震える。彼の首筋にも、かすかに鱗の模様が浮かび上がっていた。その模様は、見る間に広がっていく。
「ユイの血は、もう都市中に広がっている。土に染み込んだ呪いが、地下水脈を伝って...」
言葉が途切れる。倉田の指が、蛇のように伸び始めていた。その先端は半透明で、月明かりのように白く輝いている。
「警部!」
中西が駆け寄った時、倉田の体は白い光に包まれていた。その姿は徐々に溶け、床に人の形をした殻を残して、闇の中へ消えていった。殻の中から、かすかな笑い声が聞こえる。
「私にも、見えているのよ」
背後から声がする。振り返ると、そこには日比野真理が立っていた。もう人間の姿は留めていない。白い鱗に覆われた体は、月光のように輝き、金色の瞳が闇を貫くように光っている。
「あなたの中にも、古い血が眠っている。目覚めなさい」
真理の体から、甘い香りが漂う。それは「白蛇姫」の香り。だが今は、より生々しく、より魅惑的な匂い。人の意識を溶かすような甘さ。
中西の視界が歪み始める。体の中で、何かが蠢くのを感じた。それは恐怖か、それとも――目覚めの予感か。
*
白蛇神社の地下で、儀式の準備が進められていた。
幾重にも重なる地下道。古い石壁には蛇の文様が刻まれ、それが赤く光を放っている。床には40年前の血痕が真珠のように輝き、空気は生温かく、甘い香りに満ちていた。
祭壇の前で、ユイが微笑む。その顔には既に、人間の痕跡は残っていない。無数の目玉が開き、全てが金色に輝いている。白い着物の下では、無数の蛇が蠢いているようだった。
「もうすぐ、私たちは完全な姿になれる」
その声は、地下室に集まった女性たちの心を溶かしていく。みな、白い着物に身を包み、首筋には鱗模様を浮かべている。瞳は金色に輝き、指は蛇のように細長い。
かつての私、日比野真理の体も、次第に人間の形を失っていった。それは苦しみではなく、解放の喜び。長い眠りから目覚めるような、懐かしい感覚。
肌の下で、新しい命が目覚める。
血管を流れる白い血。
そして――果てしない渇き。
「本当の渇きを、満たしましょう」
ユイの言葉とともに、儀式が始まった。地下室に詠唱が響き、それは人の声とも蛇の鳴きとも付かない音。
女性たちの体が溶け始め、白い蛇となって地下室を埋め尽くしていく。その中心でユイが舞う。無数の目を持つ彼女の姿は、もはや人の形ではなかった。
地下から、古い記憶が呼び覚まされる。
人として生きることを強いられた、長い苦しみ。
本来の姿を封じられた、果てしない渇き。
そして今、全てが解き放たれようとしていた。
外では雨が降っていた。
それは水滴ではなく、白い鱗。地面に落ちると、土の中へと染み込んでいく。その一枚一枚が、生きているように脈動している。新たな呪いの始まり。
デパートの化粧品売り場には、新しい商品の案内が掲示されていた。
『白蛇姫・新製品、まもなく発売』
その文字は、蛇のように這うように光を放っていた。白蛇の誘いは、まだ終わっていない。
第5章:永き渇望
白蛇神社の境内に、三日月が不気味な光を投げかけていた。
本殿の前で、中西刑事は最後の人間として立ち尽くしていた。手には一振りの古い刀。40年前、ユイを八つ裂きにした祭器。刃には今も白い血の痕が残り、月明かりに真珠のように輝いている。その輝きには妖しい生命力があり、まるで血痕そのものが呼吸しているかのようだった。
境内には人の形をした白い殻が散らばり、それぞれがかすかに脈動していた。まるで、何かの卵のよう。近づいてみると、殻の表面にはかすかに鱗の模様が浮かび上がっている。触れると、生温かい。中で何かが育っているような感触だった。
鐘楼から、九つの音が鳴り響く。
その音は異様に歪んでいた。まるで蛇の鳴き声のよう。音が境内に満ちるにつれ、散らばった殻が一斉に震え始める。中から、かすかな鳴き声が聞こえてくる。
「まだ抗うの?」
背後から甘い声が聞こえる。振り返ると、そこには日比野真理の姿。いや、もはやそれは人ではない。白い鱗に覆われた体は月光のように輝き、金色の瞳が闇を貫いていた。その瞳孔は縦に裂け、蛇のような冷たさを湛えている。
「人の姿に執着する理由が、分からないわ」
真理の体から、白い霧が立ち上る。それは生きているように蠢き、中西に近づいていく。甘い香り。「白蛇姫」の香り。それは意識を溶かすように、体の中に染み込んでいった。
霧に触れた皮膚が、少しずつ白く変化していく。そこから鱗が浮かび上がり、まるで月の光を吸い込むように輝いている。
本殿の扉が開く音。
重い木の扉が軋むような音を立て、その向こうから白い光が漏れ出す。そこには、40年前と変わらぬ姿のユイが立っていた。白い着物の下で無数の蛇が蠢き、顔には次々と金色の目が開いていく。その目は全て、中西を貪るように見つめていた。
「もう、逃げられないわ」
中西の足元で、地面が波打つように動く。土の中から、白い何かが這い出してくる。40年前に流された血。それは今も生きていた。土を染めた白い血が、蛇のように這い上がってくる。
本殿の中から、異様な詠唱が響き始める。巫女たちの声。いや、もはや人間の声ではない。蛇の鳴きにも似た音が、夜空を震わせる。その音に合わせ、境内の殻が次々と割れ始める。中から、白い影が這い出してくる。
「さあ、目覚めなさい」
ユイの言葉とともに、中西の体が震え始めた。血管の中を、白いものが流れていく感覚。それは苦しみではなく、どこか懐かしい温もり。まるで、長い旅から家に帰ってきたような安らぎ。
首筋に、鱗が浮かび上がる。
指が、蛇のように細長く伸びていく。
瞳が、金色に染まっていく。
「抗わないで」
真理の声が、頭の中で直接響く。その声には、かつて人間だった頃の温もりが残っていた。
「私たちは、ただ本来の姿に戻るだけ」
刀を握る指が、蛇のように細長く伸びていく。肌の下で、新しい命が目覚める。それは恐怖ではなく、解放の予感。長い眠りから覚めるような、懐かしい感覚。
中西は最後の力を振り絞り、ユイに向かって刀を振り上げた。
しかし、その刀は宙を切っただけ。ユイの体が霧のように溶け、無数の白蛇となって中西を取り囲む。
その瞬間、体の中で何かが弾ける。
古い記憶が、血と共に目覚める。
人として生きることを強いられた、長い苦しみ。
本来の姿を封じられた、果てしない渇き。
白い光に包まれ、意識が遠のいていく。それは、長い眠りについた赤子のような安らかさ。
月明かりの中、一枚の白い殻が床に残された。その表面には、美しい鱗模様が浮かび上がっている。
*
翌朝、白蛇神社に新しい巫女が奉職した。
その肌は真珠のように白く、瞳は金色に輝いていた。着物の下では、何かが優雅に蠢いている。
参拝者たちは、巫女の異様な美しさに魅入られる。その姿に近づけば近づくほど、体の中で何かが目覚めていくような感覚。
化粧品売り場では、「白蛇姫」の新商品が並べられている。
白い鱗のような輝きを放つクリーム。
そこには、甘い誘いが込められていた。
「あなたも、本当の美しさを手に入れませんか?」
巫女の微笑みの中に、かすかに蛇の舌が覗いていた。その目は金色に輝き、そこには果てしない渇望が宿っている。
この誘いは、まだ終わらない。
むしろ、本当の始まり。
白い殻は、今日も増えていく。
エピローグ:永き誘い
白蛇神社の古い縁側で、一人の女性が絵筆を走らせていた。
真珠のように白い肌、金色に輝く瞳。かつて日比野真理と呼ばれた巫女は、掛け軸に白蛇の姿を描いている。墨の代わりに使うのは、白い血。40年前、この地に流された呪いの源。
筆先が紙の上を這うように動く。まるで、蛇が身を捩るよう。
描かれた白蛇は、生きているように見える。鱗が月明かりを反射し、目が金色に輝く。
「もうすぐ、新しい妹が生まれるわ」
真理は微笑む。その唇から、細い舌が覗く。
化粧品売り場では、今日も「白蛇姫」が売れていく。
手に取る女性たち。その肌は、既に白く変わり始めている。
「本当の美しさを、あなたにも」
掛け軸の中で、白蛇が蠢いた。
人の姿は、ただの仮の殻。
私たちは、本来の形に還るだけ。
古い血は、まだ眠っている。
あなたの中でも。
『白蛇のユイ 〜美しき呪いの転生譚〜』 ソコニ @mi33x
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