初恋の墓標
不破ぷりん
第1話 初恋の墓標
男の方のいちばんの魅力は、お声じゃないかとわたくしは思うの。
お兄様のお友達のクラヴィット様は、それはそれは素敵なお声の方でいらした。よくバルコニーから見下ろしてお歌を歌っておられたわ。
ボーイ・ソプラノというのですって。その時はまだそんなことちっとも知らなかったんだけれど、あのお声を初めて聴いた日にわたくしは、恋の甘さをおぼえた。
それはそれは透き通って高らかに、神に祈るようなそのお声で、クラヴィット様は賛美歌をお歌いになった。
いつもは庭で騒々しくも楽しげにさえずっている小鳥たちがいっせいに黙り込んだわ。きっと聞き惚れて、自分たちの歌を恥じていたのだと思うの。
わたくしはクラヴィット様がおいでになるのを、いつも心待ちにしていた。
おでましになったとたんにまとわりついてお歌をせがむわたくしに、クラヴィット様はちょっと眉を下げて困ったように微笑んでいらした。
そしてクラヴィット様がお答えになるより先にお兄様が必ず言ってしまうの。
「アメル、むこうへ行っていなさい。お兄様はクラヴィットと大事な用事があるんだ」
クラヴィット様はわたくしに申し訳なさそうなお顔を向けてはくださるけれど、お兄様の後をついて行ってしまわれる。お兄様のお部屋にはいつも鍵がかかっていたわ。
だけど、あの日は。
クラヴィット様がそろそろ出て来ないかしらとそわそわ待っていたわたくしの耳に澄んだお声が聞こえて。
わたくし、顔を上げたわ。でもはっきりとは見えなかった。
なぜか少しだけ開いたお兄様の部屋のドアの隙間から、聞いたこともないようなお声が漏れていて、中にお兄様たちがいるのだと思ったの。
「ああ、ロゼレム、ロゼレム!」
クラヴィット様なのかしら。高く歌うような鳴くようなお声がかすれて涙に滲んでいるようだった。
暗がりの中ぼんやりと人影が重なっているようにも見えたわ。
わたくしはなぜか、見てはいけないものを見てしまった気がして立ちすくんだ。
けれど目が離せなくて、全身が耳になったように緊張して、あの方のお声を聴いていたの。
お兄様が「こんな声、他の誰にも聞かせられないな」って低く嗤って、あの方は「あっ、あぁ」とお声を漏らしながら甘く切ない吐息をお零しになられた。
ぼんやりした頭とくっきりする聴覚。胸が締め付けられるようで痛くて苦しくて。でもその圧迫感が少しも嫌ではないのが不思議でたまらなかった。
わたくしは、音を立てないように息を詰めて後退って、それから裸足になって駆けていったわ。
とても怖かったけれど、それ以上になぜか妖しく美しくて。それから夜になると必ず思い出したの。
普段は神に捧げるあのお声が、あんな……あんな風に、くるおしく乱れてしまわれるだなんて。
それからしばらく経った頃、クラヴィット様はうちに来なくなったわ。
お兄様は明らかに落ち込んで、わたくしにひどく当たり散らした。わたくし、誰にも何も言わなかったわ。それなのにお兄様は、まるで憎いものでも見るようにわたくしを睨んで、そして、ある日急にお兄様の結婚が決まった。
とてもおめでたいはずなのにお兄様だけが沈んで暗いお顔をなさった。
結婚のお祝いにクラヴィット様が明るいお歌を歌ってくださるかと思ったのに、あのボーイ・ソプラノは聴けなかったの。
なぜ、とわたくしは訊いたわ。
婚礼衣装を纏ったお兄様は蔑むようにわたくしを見下ろして答えた。
「クラヴィットは死んだんだよ」って。
「神様が召し抱えてしまわれたの?」
と尋ねたわたくしに、お兄様は一言「川に身を投げた」とだけ、おっしゃった。
後になってから町じゅうで噂された言葉を知ったわ。あの方のお歌を賞賛したのと同じその口で言うのよ。
「あのボーイ・ソプラノがアドフィードのご令息を誑かした。いい声で歌うと思ったがどうやら悪魔が化けていたらしい」
わたくしは精一杯、黒いドレスを着てクラヴィット様の眠る場所へ駆けて行ったわ。
ひどく静かでひんやりとした墓地で、わたくしは泣きじゃくって叫んだ。
「あなたは悪魔なんかじゃない。だってあんなにも透き通ったお声の悪魔が、いるはずもないもの。あなたはいつだって天使様より美しいお方よ!」
そうだそうだと頷くように小鳥たちが悲しい歌をさえずった。
わたくしは、叶わなかった初恋の墓標に真っ白い花輪を捧げたわ。
白いアネモネはあの方にとてもお似合いだと思うから。
わたくしをたった一度で魅了した誰よりも美しいあのお声は、もう二度と歌を紡ぐことはないけれど、今もこの耳の底に甘くはりついて離れてくれない。
初恋の墓標 不破ぷりん @pudding-fuwafuwa
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