ポートレイツ・イン・ナインティス

南沼

龍に至る道

2/4/1999

 中華料理屋の店内にて撮影された写真。

白く塗ったモルタル壁の上に赤いドラゴンの絵。朱がかった丸テーブルと同色の椅子。明り取りの窓の外が暗いことから、撮影時刻は夜と分かる。天井に連なるトラディショナルなランタンでどこか薄暗く照らされるはずの店内は、フラッシュが白い光で上塗りしている。

 壁沿いの席に黒いスーツの男がふたり。どちらも若いアジア系で、撮影者の方に視線を向けている。


***


 リチャード・シュイがずっと焦れていることに、ルオ・リーは当然気が付いている。

舌打ち、貧乏ゆすり、落ち着かない視線。いつもなら咎めだてるちんぴらそのものの態度をずっと放置しているのは、ルオ自身苛立っているからに他ならない。先ほど無断で店内の写真を撮った観光客を小突いて店から追い出す時も、ルオは何も言わなかった。

 リチャードは奪い取ったポラロイドの写真を片手で気ぜわしく振る。光沢のあるシートにゆっくり浮かび上がる、どこか驚いたような顔の自分たち。ルオがそれを覗き込んで嗤う。

「びびった顔してるぜ、おまえ。銃だと思ったか?」

「うるせえ」

 くしゃりと写真を握りつぶす。

「ゴミ箱もねえのか、この店は」

 苛立ったリチャードが半ば丸めた写真を放り投げた時も、白いカラーシャツ姿の店員は少し眉を上げるだけ。

 ボストンチャイナタウンのハリソン・アベニューは成龍飯店、ここの料理はファミリーの皆が口を揃えて誉めそやすが、店員の愛想の悪さと料理提供の遅さにも定評がある。

「おい、まだかよ」というリチャードの怒鳴り声も、「すみません」と悪びれた素振りもない店員の態度も、ルオは黙ってじっと受け流す。

 赤くべったりと塗られた龍をはじめ近世以前の中国画を模したペンキ絵が描かれたモルタル壁はその白色を煙草や煤によって、黄色がかった薄い層を少しずつ重ねている。円卓の色がくすんで見えるのは照明のせいだけではないはずで、椅子はどれも少しずつガタがある。 

 店内にはルオとリチャードの他、客は3人だけ。ひとりは髭を長く伸ばした老人、あとのふたりはお喋りに興じる若い女で、派手な格好を見るにこれから仕事に精を出す娼婦だろう。ひたすら時間を掛けながら粥を啜るあの老人には歯がほとんどないのかもしれないとルオは考える。店員も含めて皆華人で、どの顔も名前こそ知らないが見覚えがある。ここは、そういう店だ。

 だからだ。だからルオは、黙って待っている。文句のひとつも言わずに。30分を越えようとしている待ち時間にも。自分たちが龍幇系の構成員だと知ってなお、飯店の客に対してとる以上の敬意を払おうとしない不躾な店員にも。

 なぜならこの店は、けちで小汚い店構えの成龍飯店こそは、本物を出す店だからだ。

 リチャードもそれを分かっているから、口から糞を垂れ流しながらも我慢している。

 しかしそれにも、限界が訪れる。


「あいつの方が先ってか? おかしいだろ」

「電話で注文があったんです」

 流石に気まずい思いがあるのか、店員の言葉も言い訳がましい。

 店員の、そしてルオとリチャードと女連れふたりと老人の視線の先には、つい今しがたドアベルを鳴らして入ってきた若い白人の男。手には料金と引き換えに手渡された白いビニール袋を提げている。重みのあるペーパーボックスをいくつも詰め込まれたビニール袋は、ボックスの角を詳らかに主張している。

「おれたちの方が先なんだよ、この野郎」

「やめとけ」

 怒りの矛先を変え、男の方に指を突き付けながら唾をまき散らすリチャードの肩を掴むルオ。リチャードはその手を振り払う。振り払われながらも、ルオは白人から目を逸らさない。無精髭の胡乱な白人から、目を離すことが出来ない。

 男はハーフパンツに薄手のシャツと軽装で、何か武器を持っている風でも殊更に敵意を振りまいてくる風でもなく、ただじっと2人を見据えている。中背だが、首と肩を繋いで斜めにそびえ立つ僧帽筋に、殆どを貼ったように尖るふくらはぎ。両の腕をだらりと垂れ下がるがままにしている立ち居姿に思いがけず張り詰めた何かを感じて、ルオの方が先に目を逸らす。

「台無しにする気か?」

 ルオに耳元で囁かれて、リチャードもようやく我を取り戻す。白人から目を逸らし、テーブルに戻る。

 白人はルオたちをもう一瞥だけして、無言のまま成龍飯店を出る。

「なんだ、あの野郎」

「落ち着け、おれたちはちんぴらじゃねえんだ」

「うるせえ」

 おい飯はまだか。リチャードのがなり声に合わせるように、やっとのこと店員が料理を載せた皿を持ってくる。皿から立ち上る湯気が、軌跡を描く。

 牛肉と野菜と共に炒めた、ライスヌードル。

 山のように盛った、殻付きの茹で海老。

 付け合わせの黒味がかったソースには輪切りの唐辛子がたっぷりと散りばめられている。

 店員が無言のまま半ば投げ出した皿がと卓上で立てる音と共に、料理の香りが新たな層をなし、広がる。2人の腹が示し合わせたように鳴る。

「もっと愛想よくできねえのか」

 リチャードの声も、すでに心ここにあらず。

 どこか心許ないランタンの照明の元、ライスヌードルはオイスターソースと油を纏って艶光り、エビの殻は鮮やかなオレンジ色に染まっている。そして肉と魚介とごま油の匂い、卓上の皿から、あるいは厨房から漂うスパイスの香り。全てが多層に重なりながら混じり合う。

「本物だ」

「なんだって?」

「おれたちが食べるのは、本物だ」

「なに言ってんだ、おまえ」

 リチャードは笑う。しかし分かっているはずだ。だから笑っている。

 そうとも。おれたちはちんぴらじゃない。

 おれたちは本物を食べる。

 本物、これが本物だ。ルオもリチャードもその地を踏んだことのない香港に、自分たちのルーツのみなもとに、ここの料理だけが連れて行ってくれる。

 本物を食べて、本物になる。龍になる。

 ああ、そうとも。これからひとかどの男になるおれたちに、これは絶対に必要なのだ。

 音を立ててヌードルを啜るリチャードを尻目に、ルオは箸を持つ前にひと時だけ、ジャケット越しに拳銃をそっと押さえる。

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