第28話 誰にとっての骨折り損

 一連の事件に取り敢えずの決着が付き、2年Ⅾ組も静けさを取り戻した。

 しかし、幾つかの点で変化があった。


 一つは曽根弘明と神谷司にある種の落ち着きが出来た事。

 今迄は定期的に夫婦漫才が見れたのに、すっかり普通の恋人になってしまった。

 彼等の夫婦漫才は2年Ⅾ組の半ば名物だっただけに、男女を問わず内心残念に思ったのはここだけの話。


 もう一つは古田正信と相馬美杏が付き合っていることが発覚した事。

 以前から噂にはなっていたが、これは正信と美杏が皆の前で発表したとかではなくて、ある日彼女が昼休みに恭子達と日茶生女子学園で習った護身術の話をしていた時、たまたま近くにいた正信を呼んで、護身術の実践をしたのだ。


 いきなり抱き着かれた時の対応、電車での痴漢への反撃の仕方など実際の状況を再現した実践的な物だった。

 そして最後にこう締めくくった。

「例え私達の様に親しく付き合ってても、備えあれば患いなしよ」……と一部の事情を知っている人達意外の者に衝撃を与えた。


 何せその場の流れでサラッと言ってのけたのだ。

 その場で珍しそうに数々の護身術のかけ方を見ているうちに一種の違和感を感じていた一同は、その一言で何と無く納得して、特に男子は美杏に関節技を掛けられて本気で痛がっている正信を、7割の嫉妬と3割の同情が複雑に入り混じった目で見ていたのだった。



 再開発で森小路区の人口は駅前と区役所を中心に3割程増えた。

 地図上で下にある名邦区に次ぐベッドタウンとして賑わいを見せていて、地下鉄の駅もそれまでは名邦区までだったのが森小路区に伸びていた。

 もっとも地下鉄の駅と言っても地下に潜るのは一ツ社駅の手前からで、それまでは地上を走っている。


 しかし、人口が増えていくという事は大小の犯罪も増えるという事である。

 車上荒らしや置き引きや痴漢、住民同士のトラブルや駅周辺の歓楽街での喧嘩……

 森小路区の犯罪発生率も5割程増えた。


 特に朝と夕方の電車内での痴漢の発生率は、新栄駅から終点の森小路区役所前駅の間でうなぎ登りに増えていた。



 相馬美杏は帰りの電車の中で立ったままスマホを見ていた。

 一ツ社駅の近くにある進学塾の帰りである。そこは曽根弘明に相談したら紹介された塾で、彼も通っている。


 それはともかく、美杏は差し迫った問題に一人で対処しなければならなかった。それは恐らくこの世に電車やバスが発明された時に、同時に発生した負の遺産、即ち車内での痴漢行為である。


 最初は電車が満員で、彼女も立っていた事もあったので、単に手か何かが当たっただけと思っていたが、明らかにおかしいと気付いたのは尻に当たった手の動きが、撫でまわす様な仕草を始めたからである。


 美杏には大声を上げるという選択肢は不思議と思い浮かばなかった。むしろ、この不届き者をおのが手で懲らしめてやろうと思っていた。

 彼女が前に通っていた日茶生女子学園は、色々な面で窮屈な学校だったが、ただ一つ、護身術が必須科目になっていた事が、かの学校が周囲の痴漢から恐れられる一因となっていた。


 彼女も知らず知らずの内に日茶生女子学園の気風に染まっていたようだった。


 しかし、この痴漢にどんな対処をしようかと考えている事が、要らぬ誤解を招いたようで、痴漢は更に大胆になった。

 尻を触っていた手が胸に移動したのだ。しかも、両腕が。

 そして、彼女の程よく実った肉の果実をその手でもてあそび初めた。


 その瞬間、美杏の中で何かが切れた。

 彼女の両腕はその瞬間、胸をもんでいた両腕の両人差し指を握りしめて、躊躇いなく指を折りにかかった。痴漢の両人差し指はメキッとゆう音と共に意外と簡単に、有り得ない角度に曲がった。


「◇■◇◆□‼」

 痴漢は悲鳴をあげる事もままならず、美杏に折れた両人差し指を捕まれたままの状態で固まっていた。


 美杏が痴漢の両人差し指を使い物にならなくした瞬間、電車は名邦区の藤ヶ崎駅に着き、ここで乗客の半数位が降りて、サラリーマンと思われる痴漢も無理矢理彼女を突き飛ばして、乗客に紛れて逃げて行った。

 後には突き飛ばされて尻餅を付いた美杏と、痴漢の物と思しき肩掛け鞄が落ちていた。



 護身術を使って人を傷つけたのは初めての経験だったが、やってしまったという後悔は微塵も感じなかった。むしろスポーツとは異なる奇妙な爽快感が、頭のてっぺんから足の先まで駆け巡っていた。


 それはともかく、痴漢が忘れていったこの肩掛け鞄をどうすればいいのかが問題だった。

 普通に考えたら痴漢事件の証拠品だし、事を荒立てたくなかったら、落し物として駅員に預ければいい。


 しかし何故か心に引っ掛かるものがあった。あの事件がなかったら、痴漢事件の証拠品として近くの交番に届けただろう。しかし、悩んだ末だが鞄の中身を見る事にした。

 

 私は最寄り駅の森小路東口駅の中のベンチに座って、痴漢の落としていった肩掛け鞄の中身を確かめた。鍵がかかっていなかったので、余り悪い事をしていると云う感覚は無かった。

 それに悪い事をしたのはあの痴漢が先だ。


 そうやって自分自身の説得に成功した私は鞄の中身をみた。

 中には名刺入れと彼が務めていると思しき会社の資料、ノートパソコン、タブレット、そしてダイアリーが入っていた。

 ノートパソコンとタブレットは流石にロックがかかっていたので、中身は見れなかったが、名刺には顔写真が印刷されていた。

 

「ふ~ん、意外といい男じゃない」

 名刺の顔写真にはポマードで固めたと思しき髪に、顔写真用の作り笑顔を浮かべた端正な20代後半と思しき男が写っていた。


 名刺には『Ðesire for recognition株式会社 プロジェクト推進部課長 大陸耕作』とあった。因みに名前の下にひらがなで『りくこうさく』とルビが降ってあった。


 ダイアリーも見てみた。

 仕事の予定に混じって、Tはこの日が狙い目とか、Sはこの日が多いとか書いてあったので、痴漢の予定も書いてある様だった。

 それらに交じって、スタミナ100とかスナップ20とかパワー30とか書いた箇所も散見された。

 (この時点では、美杏には何のことだかサッパリわからなかった)


 取り敢えず名刺を1枚失敬してスマホでダイアリーと会社の資料を撮影した。

 そして肩掛け鞄は駅前の交番に届けて、前後の事情を説明して痴漢の両人差し指を折った事を正直に話した。


 警官達は一瞬呆気にとられた顔をしたが、それでも私から肩掛け鞄を預かると、森小路警察署に連絡した。


 程無く森小路警察署からミニパトに乗った女性警察官が二人来て、交番から肩掛け鞄と一緒に私の身柄を預かった。


 高御堂夕紀と内海聖(ひじり)と名乗った女性警察官は、後ろの席で緊張している私を気遣うように話しかけた。


「痴漢の指を折ったんだって?やるじゃない」と高御堂さんが褒めた。

「中々出来る事じゃないよ。嫋やか(たおやか)な見た目に反してやるときはやるんだね」と内海さんが絶賛する。

「は、はあ……ところで、こういう場合ってやっぱり過剰防衛になるんでしょうか?」


「う~ん、状況によるけど、お尻どころか両手で胸まで揉まれたんでしょ。罪に問われることは無いとは思うけど……」

「まあ、形だけの注意位でしょ。夕紀も高校生の時に痴漢にもっと酷いことをしても厳重注意ですんだし」

「それは忘れろ」


 私は今日初めて会ったばかりの二人に、何故かデジャヴーを感じていたが、そこでミニパトが森小路警察署に着いたため、そのまま忘れてしまった。


 森小路警察署では簡単な調書を取ってから、高御堂さんがミニパトで送ってくれた。道すがら彼女が私のデジャヴーの正体を明かしてくれた。


「あなたも邦栄高校の生徒でしょ。実は私と内海も邦栄高校の卒業生なのよ。確か私達の同級生の毛利って人がそこで教師をやってるはずよ」

「毛利先生はうちのクラスの副担任です……」


 そう答えつつ、神谷司と図書室で毛利聡子が卒業した時の卒業アルバムを見た時のことを思い出していた。確かに毛利の隣で肩を組んで笑っていた当時の面影が薄っすらと残っている。


「じゃあ鈴木もまだ邦栄高校の教師をやってるの?」

「確か3年生の学年主任だったはずです」

「うわ~」


 因みに、さらに後になって聞いた話だが、毛利先生とは、在学中は悪友とも言っていい間柄で、当時担任だった鈴木先生にとっては頭と胃の痛い存在だったらしい。

 さらに言えば毛利が教師になる切っ掛けを作った事件の関係者の一人だと云う事だった。


 それはともかく、マンションまで送られた私は、明日学校が終わったら森小路警察署に来る様にいわれ、彼女は帰っていった。



 相馬美杏は昼休みに、昨日失敬した名刺の会社名と大陸耕作の名をスマホで検索していた。彼女の予想通り、大陸耕作は本名でSNSのアカウントを作っていた。


 まずÐesire for recognition株式会社、略してÐFR社だがコンサルティング会社としては業界3位の会社で、本社は東京にあり、実際にそこそこの実績は上げているようだった。

 美杏が会社のホームページを見た限りでは、怪しい所は無かった。


 しかし、大陸耕作のSNSのアカウントには馬鹿長いプロフィールと、それなりに端正な顔を気持ち悪いドヤ顔に歪めて、何処かの海で複数のビキニ姿の女と撮った写真がアップしてあった。女は顔がわからないように加工がしてあったが……


 コメント欄には『これからこの女の子達残らず食っちゃいます♡♡♡』とかいてあった。他にもスタミナ最高とか、上半身裸でポーズをとった写真とか……兎に角、見てるだけで心に苦痛を感じる写真のオンパレードだった。


 自己紹介も明らかに盛っているのが高校生の美杏でも分かる位で、文章に知性の欠片も感じられなかった。

「はあ~」と思わずため息が漏れた。

 彼女の17年間の人生で、これ程までに徒労感に襲われた昼休みは無かっただろう。


「どうしたの?早くも倦怠期?」

 エミリアが話しかけてきたが、言っている事は案外容赦がない。

 しかし、美杏も慣れたもので、軽く受け流す。

「だったら、いの一番に貴女に相談してるわ」

 そういいつつ、スマホの画面を彼女に見せた。


「!?」

 エミリアもスマホに表示された画面を見て、流石に呆気に取られて固まった。

「なにこれ?」

 美杏はその場で答えずに、エミリアを廊下につれだした。

 

 余談だが、邦栄高校の廊下には窓がなく、珍しい吹きさらしの構造である。

 当然、雨風には非常に弱く、雨が降ったら廊下がビショビショになる事はしょっちゅうである。


 幸い今は快晴なので風が心地良く、結構な数の生徒が廊下でおしゃべりを楽しんでいる。

 廊下にでた美杏とエミリアを目ざとく見付けた他のクラスの男子が、遠巻きに眺めている。彼女達は何と言っても2年Ⅾ組=羽黒組の所属なのだ。

 うかつに声など掛けたら、どんな目に合うか分かった物ではない。


 そんな恐怖心が、この学校に何人かいる自称プレイボーイから彼女達を守っていた。


 それはともかく、手摺りにもたれ掛かった美杏は、昨日自分に降りかかった一連の災難を溜息混じりに話した。

「思いを切った事したわね~」

「『を』はいらないわ。まあ、指を折った事はこれっぽちも後悔してないけどね。それはともかく、今日は学校が終わったらもう一度警察署に行かないといけないのよ」

「そうなの?」

「そうなの」

 オウム返しに返事を返した所で5時間目を告げるチャイムがなった。

 

 

 帰る前のHRが終わってから、美杏は織田から鈴木先生が呼んでいるから職員室に来る様にと、お達しがあった。

「スクールバックも忘れるなよ」と言われたので少なくとも怒られる為に呼び出された訳ではないようだった。


 鈴木は生活指導部の顧問も兼ねていたので、彼に直接呼び出しを食らう事は閻魔大王の前に引きずり出されるのと同じだと半ば本気で言われていた。


 それはともかく、美杏は流石に緊張して職員室のドアをノックした。

「どうぞー」

 近くにいたと思われる教師がやや間延びした声で答えた。

「失礼します」

 遠慮がちに職員室に入る。


 職員室には鈴木の他に毛利もいた。

「おう、来たか」

 彼は立ち上がって彼女達を伴って職員用の駐車場に行った。


「あの、どちらに行かれるのでしょうか?」

「森小路警察署だ。君も行くんだろ?まあ、我々は君の保護者みたいなものだ」

 そう言って彼女に後ろの席に座るようすすめる。

 型遅れのカローラの車内は煙草の臭いが充満していた。


 助手席に乗った毛利がシートベルトをしながら文句を言った。

「仮にも女性を載せているんだから、もう少し気を使ったらどうなんですか?芳香剤を置くとか?」

「すまんな、今までも誰かさん達の後始末でストレスが溜まりに溜まって、そこまで気が回らなかったんでな」

「ぐっ……」

「やっとお前たちを送り出したと思ったら、別の生徒が問題を起こす。その繰り返しだからな。因果な商売だよ。何度警察署周りをした事やら……」


 毛利はすっかり小さくなって下を向いていた。

 美杏は役者が違うと妙に感心したのだった。








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