第16話 夏休み・後半2 美杏の第一印象

 地下鉄本郷駅は地下鉄東西山動物園前の次の駅で、国立大学や女子大学が軒を連ねる文教地区でもある。

 ヒガシメルは本郷駅の傍に古くからあるデパートで、地下1階は種々雑多なスポーツ用品店が軒を連ねており、地下鉄本郷駅から地下道で直接行ける。


 水着売場はその一角でかなりのスペースを占めていた。

 女物の水着売場まで来た時、男連中は二の足を踏んだ。流石に興味があるとはいえ、奥に入る勇気は無かったのだ。


「俺達は浜辺で必要になりそうな物を見てくるから、決まったらSNSにメッセージを入れてくれ」

 弘明はそう言って、武光や正信と共に、その場から早々に立ち去った。

 麗香は何か言いたげに、彼等の後ろ姿を見ていたが、エミリアと美杏に両手を挟まれて、奥に連れていかれたのだった。


「そういえば羽黒はどうした?」

 武光が答えた。

「あいつは池田と一緒にアニメのイベントに行ってる」 

「アレか?ギギギ文庫の『ライバルヒロインが多すぎる!!』か?」

「そう、本当は3人で行くはずだったけどエミリアが間違ってバイトの予定を入れちまったらしい」

 それ、わざとじゃないか?と弘明は思った。

 池田から聞いた話だが、前にイベントに言った時は壇上の声優よりも目立っていたらしい。

 彼女はハーフだが顔立ちは、どちらかというと日本人寄りで、それに加えて髪の色は白人もかくやという金髪で、碧眼の美少女でありしかも、Ⅾカップという、実にケシカラン体をしている。


 当然アニメオタクの注目の的となり、積極的なオタクからはメールアドレスやⅩ、SNSの交換を迫られたとか。

 勿論断ったそうだが。

 それを池田から聞いた時は、知らないとは恐ろしいと思ったものだ。(前述の通り彼女は羽黒とは恋人同士であり、弘明は知らないがイタリアンマフィアの祖父と手紙のやり取りをしている。彼が知っているのは羽黒との関係だけである)

 挙句の果てにストーカーまがいの事までされたらしい。その時は羽黒が気が付いて「丁重に」お引き取り願ったそうだが。


 それはさておき、浜辺に敷くシートを見ていたら、すぐ近くで聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「これなんかどう?」

「だめ!こことかここが不必要に出てるじゃない」

「これは?」

「ハイレグは問題外!」

「決まってないのは麗ちゃんだけだよ。スパッと決めちゃいなよ」

「うう~ん……」


 結局麗香は、更に20分掛かってようやく決めた。


 流石にその日はその場で解散となった。

 司と弘明は地下鉄一ツ社駅で降りた。

 麗香は美杏や正信と降りる駅が一緒で、特に断る理由も無いので一緒に帰ったが、そのおかげで、(麗香視点で)二人のアツアツぶりをたっぷりと見せつけられる羽目になった。

 

 司と弘明みたいな幼馴染的な親密さは無いが、時々美杏が正信の耳元で囁いたり、彼がそれを聞いて微笑んだりと、そばで文庫本を読んでいる麗香は、二人に気を取られて内容が殆ど頭に入らなかった。


 正信との話が一段落したのか、何気に美杏が聞いてきた。

「何読んでるの?」

「山本周五郎の『さぶ』」

「あ!それ知ってる。中学生の時、読書感想文書いた人がいたわ」

「渋いねぇ……って私は池波正太郎の『剣客群像』だったけど」

「あなたらしいといえば、あなたらしいわね。いつも時代小説を読んでるの?」

「どうもラノベの類は好きになれなくて……『ライバルヒロインが多すぎる!!』はエミリアの勧めで読んでるけど」


 話しながら麗香は、1学期に美杏が武光と共にクラスに来た時の事を思い出していた。


 美人だけど影のある陰気な子。


 それが彼女の第一印象だった。嫌ってる訳ではないが、積極的に関わり合いになる事もなかった。

 だから四月に美杏が休んだ時、近くに住んでいるにもかかわらず、小学校から同級生の古田に彼女にプリントを渡す役目を押しつけてしまった。

 女子クラス委員の恭子が行かなかったのは、単に帰りの電車の方向が逆だったからにすぎない。


 それまでの彼女の印象は、運動部でも無いのに早くに学校に来て、一人で勉強してる風代わりな子……だった。


 それでも司は頻繁にではないにしろ、エミリアと一緒に話しかけて、「ミーちゃん」と勝手に呼ぶようになったし、いつの間にかエミリアは彼女から現国をマンツーマンで教えてもらう仲になった。


 麗香は早朝の電車で一緒になった時に、運動部でも無いのにどうして早く来るのかと尋ねた事があった。

 彼女曰く、この時間帯に教室で、一人で予習復習をやるのが一番はかどるらしい。

 美杏と話したのは東西山動物園での合同デート以前は、その一回きりだった。


 一番近くに住んでいる自分が、一番彼女の事を何も知らなかった……

 その事実がその時は麗香を軽く凹ませた。

 勿論何から何まで知っている必要はないが、東西山動物園に行った時に、暗い印象しか無かった美杏が普通に笑っているのが、最初は信じられなかったというのもある。


 そういえば美杏は私の事をどう思ってるんだろう?

 そんな彼女の軽い煩悶など知る由もなく、美杏は無邪気に話しかけた。

「あ、そうそう、因みに正信も2学期から茶道部に入る事になったのよ」

「へー!そうなんだ」

 そこで電車が終点に着いた。


 正信とは駅前で別れた。


 麗香は美杏と一緒に歩きながら、電車で疑問に思ったことを聞いてみた。

「ちょっと怖かったかな。前の学校で他校のスケバンが殴り込みをかけてきた事があって、3年生のツッパリが撃退しちゃったのよ。その人に雰囲気が似てたから」

 スケバンにツッパリ……昭和かよ……と彼女は心の中で突っ込んだ。 

「……確か前の学校って中高一貫のお嬢様学校でしょ?そんな突然変異みたいな人がいたんだ!」

「正にそれ、姉御肌の頼れる人だったけどね」

 私、どんなオーラを出してたんだ……


 彼女は唖然とした私を見て悪い事を言ったと思ったのか、話題を変えてきた。

「ねえっ、正信君て子供の頃はどんな子だったの?」

 私は当時抱いていた印象を素直に言った。

「う~ん、その他大勢の名前付きキャラって感じかな。劣っている訳ではないけど、殊更優れてるって訳でも無かったね」

 美杏は何か酷い事言ってると思ったが、続く中学生の頃の話には興味をそそられた。


「でも、中2の時だったかな?彼は隣りのクラスだったけど、男子同士で諍いがあって、確か、ある子に対する虐めが原因だったかな?あんまり酷いから古田が注意したら、逆に絡まれて大勢でボコボコにされたのよ。その時に虐めっ子のリーダーの腕に思いっきり嚙みついて、逆に泣かせてしまってさ、先生どころか警察と救急車が来て大変だったんだから」

「警察と救急車?そんなに酷い噛み傷だったの?」

「いや、運ばれたのは古田の方。他の虐めっ子が殴ったり蹴ったりして何とか引き剥がそうとしたんだけど、その度に噛む力が強くなって、リーダーの子は、古田を先生が2、3人で引き剥がすまで、ズーッと泣いてたわ。体は古田よりも二回りも大きかったのにね。そいつの学生服とワイシャツが歯形の形に破れて、肌にも一生消えない傷が残ったそうよ。」

「正信君はそんなに酷い殴られ方をしたの?」

「肋骨が3本か4本折れてたみたいよ。同じ小学校の何人かで病院に見舞いに行った時に聞いたんだけどね」

「それって障害罪じゃない!」

「一応彼等の親同士で話し合って古田の入院費を、虐めっ子のグループの親が全額負担するって事で示談が成立したから事件にはならなかったけど、虐めっ子のグループが全員無期限の自宅謹慎をくらってたね。古田はお咎めなし」

「意外だわ、そこまでする人には見えなかったけど」

「まあ、それからは私の中では、いざとなったら、そこそこ頼れる人に格上げしたけどね。だから逃したら駄目よ」


 そこまで話した時に美杏の住んでいるマンションに着いた。

「「じゃあ」」

 別れの挨拶がハモった事に思わず笑ってしまった。



 正信は晩御飯を食べた後、自分の部屋でベットに寝転がって小学校の頃を思い出していた。正確には麗香の事を。


 彼女の親は自衛隊員だったため、当時幅を利かせていた自称反戦平和市民団体と、それに何かと、てこ入れする一部のPTA役員の狙い撃ちにあい、一時期学校で孤立していた。

 よくからかわれたり、持ち物や教科書を隠されたり、机に卑猥な言葉を書かれたりもした。

 それでも彼女は意地になって学校に通い続けた。

 彼はそんな麗香を、淡い想いを抱いていたにも拘わらず、見ている事しか出来なかった。

 

 彼等の破局は唐突に訪れた。


 PTA役員と市民団体の幹部のただれた関係、PTA会費や市民団体の費用の私的流用、その市民団体と外国の新興宗教、地元政治家や外から入ってきた某企業との癒着といった大きな物から、麗香への虐めといった小さな物まで明るみになって(切っ掛けは、麗香への虐めを告発した複数の匿名の電話が警察やマスコミにかかったことだったが、後から明るみになった事実が余りにも大きかった為、肝心の虐めが霞んでしまった)、PTA役員達はその地位を失い、自称反戦平和市民団体は解散を余儀なくされた上に、幹部が全員逮捕された。


 虐めに加わっていた者は彼女に謝罪し、積極的に虐めていた者は転校したり、家族ごと県外に引っ越したりした。


 麗香自身は彼等の謝罪を無言で受け、以後彼等と話す事はなかった。

  

 中学に上がってからは、クラスも別々になり、特に接点も無かった。

 彼のクラスに質の悪い虐めっ子のグループがおり、そいつらが、ある一人のクラスメイトを狙い撃ちにして、虐めたのを正信は辞めさせようとした。

 正義感と言うよりも、小学校の頃に麗香が虐められてたのを、見て見ぬふりをしたのを中学で繰り返したくなかったという思いがあった。


 その代償は互いに色々と大きかった。


 虐めっ子のリーダーは正信に一生消えない歯形を付けられた末、メンバーと一緒に無期限の自宅謹慎になり、彼は彼等から殴る蹴るの暴行を受けた末、一週間の入院を余儀なくされた。


 助けた形になったクラスメイトと麗香をはじめとした小学校の同級生が、お見舞いに来たのは三日目だった。

「見直したよ、あんた」

 麗香が言ったのはそれだけだったが、それでも小学校の頃からの自分のしこりが消えた気がした。そして彼女への想いを永久封印する事にした。



 美杏はズーッとニヤニヤしながら父親が買って来た鰻重を食べていた。

「気にいったようだな」

「ん?」

 父親の貞光の問いかけを聞いていなかった美杏は生返事を返した。

「鰻重が気にいった様だなって言ったんだ」

「あ、うん、凄く美味しいよ」

「煩悩の犬は追えども去らず……だな」

「なにそれ?」

「煩悩は払っても払っても、後から湧いて来て、人につきまとう犬のように心から離れないって意味さ」

「それって、もしかしたら悪口?」

「いや、鰻重を食べている今のお前の心境を表現したまでさ」

「微妙に使い方が間違っている様な気がするけど……」

 そう言いながら心の中で、今の私の中にあるのは食欲より恋愛欲だけど、と付け足した。


 そんな美杏の心の内側などつゆ知らぬ貞光は、別な感慨に浸っていた。


 交通事故で妻の明日菜を失い、彼は勿論、娘も今迄の活発さを失ってしまった。

 それでも明日菜との間に設けた一人娘を立派に育てようと、彼はシャカリキになって働いた。邦栄市への転勤が決まった時は、母方の祖父母に美杏をあずけるつもりだったが、彼女が一人じゃなお父さんが寂しいだろうからと、一緒について来てくれた。

 二人共、母が死んだ東京に居たくないと云う思いがあったのも理由の一つだった。

「……は、付き合って何年で結婚したの?」

「え?」

「父さんと母さんは付き合って何年で結婚したの?って聞いたのよ」

 考え事をしていた貞光は突然の質問に戸惑ったが、それでも指折り数えて答えた。

「……8年……かな?大学生の時に出会ったから。しかし、それがどうかしたか?」

 美杏は曖昧に笑って誤魔化した。

「ちょっとね」


 後片付けをして、自分の部屋に戻った美杏は、「流石に早すぎるか」……と、小さく呟いた。



 弘明と司は並んで歩いていた。

 七時前だったが、まだ明るかった。

「どっか寄ってく?」

「お前の奢りならな」

「じゃあ、いいや」

 そう言って手を握ってきた。

「どうした?」

 弘明は内心ドキドキした。

「いや、こうして手をつないで歩くのもいつ以来だろうなーって思ってさ」

 そう言って握った手をブンブンと振り回した。


 弘明は司に握った手をブンブンと振り回されながら、考え事をしていた。

 いつになく上機嫌だな、まあ食事代はロハだったからな。

 しかし、確かに手をつないで歩くのは小学校以来かな?

 あの時も今みたいに楽しそうだったが、俺は今みたいにドキドキしてなかったぞ。

 そんなこと考えている内に、いつの間にか普通に手を握ってる状態になっていた。

 


 うーん、ヒロ君や麗ちゃんにはちょっと悪いけど、久々に充実した一日だった。

 ヴァルキリーでは危うく死にかけたけどね、テヘッ。


 ……でも、実際にヒロ君は私の事をどう思ってるんだろう?

 今でも単なる、ものすごーく親しい幼馴染なんだろうか?

それとも女性として見てくれているんだろうか?

 周りはカップルと思ってるけど、実はキスもしてないんだよ、それをカップルと言えると思う?

 でもでもでも、今までそれで上手く行ってたじゃない。

 その今までがいつまでも続く訳じゃないのよ、わかっているでしょ?

 

 司のそれは、いつの間にか自問自答になっていた。

 今の曖昧な関係を良しとする自分と、一歩踏み込んだ関係に進みたい自分との。


「司……」

 いきなり名前を呼ばれて彼女はびっくりした様に弘明を見た。

 彼は努めて冷静に言った。

「手を話せ、家が見えてきた」



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