第4話 司と弘明

 6月、剣道部は代替わりの時期を迎える。

 榊麗香は大方の予想どおり、女子剣道部の部長に抜擢された。そして副部長に新井恵子と神谷司が選ばれた。

 

 新井恵子は麗香と違い、守りに徹した剣道が特徴で、彼女の型にはまると、麗香でも容易に打ち破れない所か、良くて引き分け、悪くすれば負けてしまう事もたまにある。

 3年生が事実上引退した今となっては、麗香につぐ実力者である。


 神谷司が副部長に選ばれたのは剣道の実力よりも、人柄による所が大きい。

 立場もあるが、どうしても体育会的考えが強く、しかも好戦的な麗香や恵子を程よく抑えられるのは司意外にいなかったし、他の2年生部員も麗香程ではないが、多かれ少なかれ、その傾向が強かった。


 顧問の柳生や3年生達が見た所、今年の1年生部員には傑出した才能を持つ者はいないが、今の女子剣道部の実力を維持するだけの実力は持っており、攻めの榊と守りの新井、影でまとめる神谷の体制で1年生の底上げをする体制を整えた。

 後は現場次第であるが……



 6月のイベントで(特に男子にとって)外せないのがプール開きである。

 女子の学校指定の水着は男子から見たら野暮ったいが、体のラインはバッチリ確認出来るので、品定めには申し分なかった。


 また、麗香にとってもプール開きは密かな楽しみでもあった。

 流石に武光に面と向かって、いきなり上半身裸になれとは言えない。

 変態と思われるのはごめん被りたいし、ましてや武光に抱かれたいとまでは思っていないし、それとこれとは話が違う。


 そんな麗香の密かな諸々の悩みを解消するのがプール開きなのだ。

 誰にもはばかる事なく彼の裸身を堪能できる。


 邦栄高校のプールは屋内プールで、水泳部の他に近所の水泳教室にも貸し出している。

 麗香はできるだけさりげなくを装って武光を見た。

 彼女の予想道理、彼の体付きはボディビルダーの様な見せる筋肉ではなくて、実践的に鍛えられた理想的な筋肉だった。


 私もあんな体が欲しい!

 恋愛感情とは無縁の果たされようのない願いが、彼の体付きを改めて見た時に蘇った。

 これで武光が一年生の時に退学処分になった4人組のようなクズだったら彼女もここまで執着しなかっただろう。

 しかし彼は口数が少なく、ぶっきらぼうだが、麗香が脱靴場に行くまでに話しかけても嫌そうな顔をした事がないし、いやらしい目で見た事もない。

 要するに普通にいい奴なのである。


 麗香は視線を武光から逸らして「ふーっ」……とため息をついた。

 ふと視線を感じて隣を見たら司が意味ありげな笑みを浮かべて彼女を見ていた。

「な、なによ?」

「べ・つ・に~」

 司はからかうように言って、声を落として「やっぱり好きなんだ~」

……と周りに聞こえない様に言った。

 麗香も声を落として反論した。

「別にそんなんじゃないわよ!」

「わかってるって、みんなには黙っといてあげるから」

「あんたねぇ……」

 麗香が更に反論しようとした時、体育の授業を受け持つ九鬼姉弟が来た。


 姉が真由美、弟が隆志といい、競泳の国際大会選手に姉弟揃って選考された事もあり、今は地元の水泳教室のコーチもやっている。

 姉の真由美はともかく、弟の隆志は迷彩柄でピチピチのメンズビキニの競泳水着で来たため、女子から半ば本気で、半ば冗談半分で嫌がられた。

 しかももっこりが異様に立派だった。


 当然ながら女子ではなく、男子の担当である。

 男子にしたら彼の授業は半ば拷問に等しかった。

 体操座りで注意事項を聞かなければならないため、ちょうどもっこりが目の高さに来るわ、女子に目を向けたら注意される、止めは授業終了まで延々とクロールで泳がされた。


 彼曰く「男は常に強くなくてはいけない、ジェンダーなんてカタカナ語に脅されて男の本来の指名を忘れるなよ!」

……と言う事だった。

 ちょうど次は昼休みだったが、男子は皆死んだ魚の目をしていたのは言うまでもない。



 授業の終わった直後、実力テストを明後日やると数学担当の石田から告げられた時、教室はブーイングの嵐が吹き荒れた。


 彼はブーイングが収まってから事も無げに言った。

「2日も猶予を与えてるんだ。本来なら今日いきなりやっても良かったんだぞ」

 そう言って出て行った。


 彼が作るテスト問題は、中間テストや期末テストの様に内申書には影響しないが、より密度が濃くて難解な事で知られているし、80点以上取れれば内申書の評価に影響を与えると噂されている。


 実際に弘明が通っている進学塾で一番成績のいい進学校の燕子花高校の3年生に、石田が中間テストの前に作った実力テストの問題を見せたことがあった。

 彼曰く、ウチの3年生でも80点以上取れる人は何人もいないだろうと言う事だった。

 普段の授業が比較的分かり易いだけに、絶対あいつは趣味でやっていると言うのが生徒達の一致した意見だった。


 それはさておき、弘明は司に放課後に相談を持ち掛けられた。

 数学の勉強を見て欲しいと告げられた時、彼は耳を疑った。

「……頭でも打ったのか?」

「それはいつもの事よ。防具を付けてるから大丈夫だけど、実は女子の間で賭けをしようって事になって……」

 皮肉も通じないのか、まあいつものことだが……

「昼休みに何やら集まってると思ったら何賭けたんだ?」

「石田の実力テストってヒロ君やミーちゃんでも50点がいい所でしょ。ましてや私らなんてドングリの背比べもいいところじゃない。だからその中で一番と二番を取った人に一番悪い点とブービー賞を取った人が、喫茶ヴァルキリーで奢るって事になっちゃったのよ」


 因みにミーちゃんとは相馬美杏の事で、武光と同時期に転校して来た。

「それで、このままだと最下位は確実だから悪あがきをしようという事か」

「うん、そういうこと。私のような可愛い彼女がこのとおり頭を下げて頼んでいるんだから、ここで男を見せないと一生後悔するわよ」

 弘明はわざとらしく深々と頭を下げる司を無言で見て

「ふーっ」

……と、これまた大袈裟にため息をついた。

「見てやってもいいがヤマの張りようが無いから、どうなっても知らんぞ」


 

 2日後、いつものように朝練を終えた麗香は3年生の先輩から借りた数学の問題集をパラパラとめくっていた。

「は~っ」

 無駄な足搔きと知りながら問題集を借りたが、やっぱり無駄だった。

 麗香の成績が上の下なのは数学と物理だけ40~50点台だったからで、他が80点台をキープしていただけに、ここだけが残念なポイントだった。


 こんなややこしい物を考え出した人は誰だ今すぐここへ来て謝れ馬鹿阿保頓珍漢すぐに殺してやるー!


 頭の中で数学を考え出したと言われているアルキメデスやユークリッドをひとしきり罵った後、問題集に再び目を通す。

「やあ、やってるね榊君」

 視線を向けた先に同じく朝練を終えた司がいた。

 そういえば昨日から不自然な程上機嫌だった。

「何かいいことでもあったの?」

「少なくとも麗ちゃんよりもいい点が取れる自信が出来たからね」

 因みに前の実力テストでは麗香は22点、司は15点だった。

 それを考えると、何とも低レベルな争いである。

「どうせ曽根君に泣きついたんでしょ?」

「まあね。この際利用できる物は利用しないと」

 司は悪びれもなく言った。


「わざわざヒロ君の部屋で一日2時間、彼が付きっ切りで教えてくれたんだからね、ブービーより上を行けそうだわ」

「ちょっと待って、今なんて言った?」

「ヒロ君の部屋で一日2時間、彼が付きっ切りで教えてくれたって言ったんだけど?」

「幼馴染とはいえ、ちょっと無防備過ぎない?」

「勿論襲われた時の備えは万全を期して行ったわ」

「一応は曽根君を男として見てる訳ね」

「当然よ。私だって女の端くれだし、それなりに可愛いしね」……と言って殊更胸を張った。


「その可愛い可愛い司ちゃんに、お話があるんだけどな~」

 いつの間にか弘明が司の後ろにいた。

 顔は笑っているが目はブリザードが吹き荒れているかと思うくらい冷たかった。

「あ、昨日までありがとう」

「どういたしまして」

「……どうかしたの?」


 弘明が怒っている事に気付いた司は、むしろ不思議そうに弘明を見ている。

「どうかしたの?じゃないだろう。」

 司は益々不思議そうに弘明を見ている。

「お前は人の部屋に何を忘れていった?手斧を置いたまんまにしていただろう!」

 そう言って写メで撮った手斧の写真を彼女にかざした。


 司は「ああ!」

……といって

「それ多喜火斧(たきびおの)ってゆうんだよってお父さんが言ってたよ」

……と悪びれもなく答えた。


 彼女の父親はアウトドアの趣味があり、たまに庭でバーベキューをやっている。

「ほう~お前は人の家で薪もないのに多喜火斧とやらで何をする気だった?」

「痴漢対策よ」

「はあ?」

「幼馴染とはいえ、仮にも年頃の女の子が男の家に一人で行くのよ。用心に越したことはないじゃない」


 この一言で弘明は本格的にキレた。

「お前を襲うほど酔狂な趣味はないわ!」

「ヒロ君だって私を襲ったりしてたら、今頃棺桶に入ってたんだからね!」

「お前だって、そんなことしたら今頃警察署の取調室にいるわ!」

 お互いにヒートアップして息を切らして深呼吸して、何か言い返そうと身構えた時……


「取り敢えず、夫婦漫才のオチが付いたようだからHRに入りたいのだが……」

 弘明と司はその声で我に返った。

担任の織田が、半ば笑いをこらえて教壇の上から2人を見ている。


 クラスメイトも、同じく笑いをこらえながら、いつの間にか、各々の席に戻っていた。予鈴がなってから5分がすぎていた。

 それに気づいた時、弘明と司はバツが悪そうに自分の席に戻った。


 HRが終わってから弘明は司の席に行き、多喜火斧とやらは、俺が返しといたからと言って、一時間目の物理の授業が行われる理科実験室に早々に移動した。

 周りの者はもう一波乱起こるのを期待していたのだが、肩透かしを喰らって心の中で舌打ちをした。



 弘明は小学校からの親友の大貫修一に愚痴っていた。

「人を強姦魔のように言いやがって、教えてくれと泣きついてきたのはアイツじゃないか。しかも人の家でお菓子を食べ散らかして後片づけもせずにサッサと帰りやがって、オマケになんだあの低次元な会話は!」

 

 修一は愚痴という名のノロケ話を聞いてやるのが彼の役目と思っているので、別段苦にならなかったが、長年の付き合いで2、3気が付いた事があった。

 この2人が本気で喧嘩したら、修一に愚痴も言わず、互いに一言も喋ら無くなり、目すら合わせなくなる。

 修一が知っている限りでは中学校1年生の時の3週間が最長記録だった。


 もう一つが、傍から見たら漫才そのもののやり取りが、2人にとって程よい刺激になって、後に余計な怨恨を残さない役割を果たしている事だった。

 お互いに気付いてないようだが、隣同士で仲良くやっていく為に自然に身に付いた彼らなりの知恵だろうと修一は勝手に分析している。

 最もそんな2人を傍で見ているのが、彼にとっても面白いのだが。

 

 案の定、物理の授業が終わってから教室に帰る時には、お互いに今朝の言い争いは忘れたかのように振る舞っていたが、司から

「あ、そうそう、今度の期末テストの時もヨロシクね!」

……という弘明にとっては爆弾発言が飛び出した時、彼は廊下で固まってしまった。


 修一は固まった弘明を見て改めて思った。

 やはりコイツらは面白い。

 そして決まって彼に向かって弘明はこう言うのだ。

「俺と変わってくれ……今なら弟も付けるぞ……」

 この掛け合いも中学校にいた頃より格段に多くなった。


 ちなみに司は護身用に父親の多喜火斧を持ち出した事を、両親にこっぴどく怒られ叩かれして代わりに木刀を手渡されたのだった。

 両親曰く「木刀なら刃傷沙汰にならないでしょ」

……ということだった。

 肝心の数学の実力テストの司の成績についてはお察しください、だが……


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