伏神

@aiba_todome

 積もる雪だ。

 賢見静けんみしずかは一目でそう判断した。

 雪国に住めば積もる雪かどうかは誰でもわかるようになる。かつてこの地で生まれた学者は、雪は天からの手紙と例えた。親指の爪ほどの牡丹雪は、木々を押しつぶすほどの空の重みを伝えている。


 空からの手紙は、地に足をつけるものにとっての白紙となる。獣は自らの来歴を、その紙に記していた。


「イノシシ。かなり


 口数は少ない。少女は、今現在18歳の賢見静は、過度の発声は体力を奪うことを経験として知っている。それが冬の雪山ならなおさら、ということも。

 それでも声は出てしまうものだ。人は話すことで淘汰とうたまぬがれた生き物である。何かに話しかけてしまう。人に、獣に、山に、神に、そして犬に。

 ゆえに彼女の前で雪をこぐ少女は、少女の形をしたものは、人ではあり得ない。

 それは全く声を発しなかった。何らかの肉体的な不具合があるわけではない。ただ話すという機能が存在しなかった。


日太刀ひたち、追え」


 静の声に人形ひとがたは振り向く。甘い香りの立つ赤朽葉色の長い髪は、半ば雪に埋もれている。雪の重みに耐える木々と同じように。

 口元は緩やかに結ばれ、微笑みの形をとる。開くことはない。その微笑みのまま、腰まで埋まっていた雪から浮上する。巨大だった。2mに近い長身の、しかしその骨格は少女のものだ。

 前傾姿勢。猫背と言い表すにはあまりにも本来のそれに近い。獣そのものの歩様。四つ足で雪を蹴れば、ほとんど沈むことなく疾駆する。


 静は射撃の体制に入る。木に左肩を寄せるようにして体を固定。積雪ゆえに伏せ射ちはできない。膝立ちになって銃床を肩にあてる。銃身は長かった。三八式歩兵銃。長い重心と軽い弾薬による命中精度と扱いやすさは、この銃をアリサカと呼ぶアメリカにおいても愛用者がいる。

 雪が積もる。少女の黒髪に、華奢な肩に。長い銃身に。

 

 雪が爆ぜた。静のいる山肌の下、渓流の通る谷底のやぶ。そこから飛び出した塊は、沢に沿うように敷設された細い道に躍り出る。砲弾のような肉体は剛毛と雪に包まれている。

 イノシシは冬眠をしない。そのため森の恵みの少ない冬には飢えが野生の臆病を上回り、人里に姿を現す。その短い脚は雪を走るには向かず、北国では雪の少ない沢沿いや人間の道路に出没することになる。すなわち人類と競合する。


 イノシシは道路に立ち、ぶるりと震えて雪を払う。静は撃たない。道路を横切るような射撃は、たとえこの数時間、車の一台も走らない山道であろうと許されない。

 ゆえに待つ。獲物が追い込まれるのを。追い込むものを。

 雪がふわりと浮き上がり、赤い狗はイノシシよりも低く走った。

 獲物の毛が逆立つ。イノシシは神経質で臆病な生き物だが、だからこそその恐怖が闘争心に変化したとき、非常に危険になる。

 雄のイノシシならその牙は15センチに達することもあり、嚙み合わせによって常に研ぎあげられている。高さはちょうど人間の太もものあたり。この突撃を受けた場合、動脈の損傷からの失血死もありうる。それが顔ならば、被害は言うまでもない。


 野獣の牙は、ちょうど狗の眼に刺さる位置である。

 時速60キロで駆け、1メートル以上の柵を跳び越す脚力が向けられる。狗の表情は変わらない。有るか無きかの微笑みを浮かべ、緩やかに見えるほど滑らかに、最高速度を維持する。

 つややかな髪と獣の剛毛が、一瞬絡み合った。


 100キログラムの肉がぽんと飛ぶ。壁に当たったビー玉のように、運動の方向が斜め後ろに捻じ曲げられた。

 イノシシは道のわきで押し固められた雪塊に落下する。自身がたどった道筋をいまだ理解できずに、固く重く湿った雪の中でのたうち回る。

 射線は道路を外れていた。


 たん、と山彦が響く音量。しかし命を奪うには軽すぎる音が過ぎて、消えた。

 前足のわきにあるイノシシの心臓から、雪を真っ赤に染めるものがあふれる。


 狗は主人が銃口を下げたのを見た後で、獲物に近づき、その傷跡に口をつけた。


「日太刀。あまり飲みすぎないで」


 静はお行儀の悪い狗をたしなめる。帰りも長いのだ。腹に詰め込みすぎては支障が出る。

 狗は、日太刀は、微笑みをそのままに顔を上げた。首には喉笛を守る棘のついた赤い輪。胸元まで血に濡れている。雪に紛れるようにと買った白いセーラー服が台無しだった。


「ああ、また汚して……。どうしよう。迷彩服は法律でだめだし」


 狗に、人の形をした犬に、伏に、戦闘的な服を着せるのは禁じられている。その上で手に入りやすく、ある程度頑丈な服は限られていた。

 主人の悩みなど素知らぬ顔で、日太刀は獲物を担ぎ上げる。猟伏りょうぶせがいなければ、女子高生の身でこんな大物は運ぶこともできない。

 その場で解体して軽くしてから、狗とバイクで重量を分担して帰る。それがいつもの狩りだった。


 あたりはずいぶん血なまぐさい。掃除もしなければいけない。狗を飼うのは苦労が多い。女手一つには余る仕事だ。賢見静は苦労が好きではなかった。


「それでもあなただけだからね」


 人は話さねば精神を保てない。それが答えることのない犬であっても。人形ひとがたであり狗である伏であっても。

 そして人間ではない伏は、黙って微笑む。


 静はこの大イノシシを吊るすのに良い木を探し始めた。

 

 

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