第9話 駆ける
静かな朝は訪れて、衣代の落ち着かない時間が引き出された。のどかな時間は一つの音によって掻き消され、衣代は廊下を駆けていた。
「お嬢様、ご無事ですか」
松時財閥の別荘の内の一つ、結良乃の希望で住んでいるらしいそこは澄んだ静寂を纏った立派な二階建て。一人で使うにはあまりにも大きすぎて虚しさと寂しさ、間延びした静寂などが同居してくるものだ。
大きな物音は果たして何を以て引き起こされたものだろう。不安が募って自然と足を動かしてしまうものだ。
「お嬢様、お嬢様……結良乃、お嬢様!」
緊迫した声と共に階段を駆け下りドアを開いてリビングの中へと視線を向ける。目に入った物は横転した掃除機と棘の生えたうさぎのぬいぐるみ。ノズルから入り込もうと努力しているようにも見受けられる様だが明らかに吸っている。耳を失っているような姿は紛れもない。事故の悪戯だった。
「切ります」
掃除機のスイッチを切って訪れた静寂は結良乃の眉を顰める顔を色濃く目立たせていた。
「どうなさったのですかお嬢様」
結良乃は腰をさすりながら片眼を閉じながら衣代の足首に絡みつく。
「痛いよ、今日は学校いけないかも」
そのままふくらはぎへ、流れるように太ももへと上がり、結良乃は顔を上げた。
「私の脚なんて固いだけですよ」
「そうでもないわ」
体勢を立て直しつつ衣代のくびれに腕を回して控えめな胸に頬を寄せる。スーツジャケット越しでは空っぽの主張だけが残り、実体はあまり感じられなかった事だろう。それでも満足できたのは好きであったからに他ならない。
「衣代は若いよね」
「五年後も同じ事、言えるかな」
丁寧語を喉の奥に閉じ込め距離を縮める。二人きりで甘えている、そんな時だから。
「同じように高校に通ってるけど、私は二年も前に大人になった人だから」
海外留学の飛び級と訓練による段位、それから初めの仕事にして失敗までの半年。今と比べてあまりにも濃密な日々が脳裏で蘇り、今にも時間を忘れてしまいそう。
「大丈夫、その時には私もあまり変わらないくらい老いているもの」
共に歩む時間がどれ程続くのだろう。結良乃は永遠に近いものとして語っているものの、延長の保証はない。
「信じればお父様も理解してくれるわ」
「跡継ぎの話をなさりそうですけどもね」
結良乃の腕が緩み、離れて行く。衣代は時計を指して支度をするよう無言で訴えながら朝食を用意する。もはや弁当を作るだけの時間は残されていなかった。
「今日はお弁当なしなのかしら」
「申し訳ございません、お時間足りなくて」
腰を折って頭を下げ、髪を揺らしながら顔を上げる流れを目で追っている結良乃の姿がそこにあった。
「いいわ、今日は飛ばして行くわ」
「飛ばすのは私ですし飛ばしません」
ルールを超越するスピードを出した車はすぐさま警官の目についてしまうだろう。それは分かり切った話。
「出来れば通学時間を飛ばしてゼロに変えたいものです」
しかし、結良乃は首を左右に振って髪を空気に流しながら声にする。
「嫌よ、衣代の運転大好きなんだから」
「息抜きでしたか」
朝食と着替えを手短に済ませて車に乗り込む。ドアが閉じられた途端に衣代はエンジンをかけた。
「制服で運転はムリなのかしら、時間の節約になるわ」
「流石に呼び止められてもっと時間が潰れてしまいますよ」
結良乃の提案はすぐさま破り捨てられ、そのまま車は動き始める。いつも通りの道のり、いつも通りの木々のアーチに同じような車の列。しかし結良乃はそのような景色の中で毎日笑顔を見せていた。そこまでがいつも通りという事だった。
学校に着いてから結良乃をすぐさま教室に向かわせて衣代も制服に着替えて駆け抜ける。教室のある階へと続く段の連続の途中で追いついた時の結良乃の顔は驚愕に充ちていた。
足並み揃えて教室のドアを開いた時に真っ先に目が合った聖香に軽く手を掲げて指を折っては伸ばして会釈の代わりとして席に座ったその時に教師が入って来た。
――ギリギリです
そんな事があってから体育の授業で更に走る羽目にあい、続いて昼休みが訪れた。
「どうしてこうなったのですか」
ただただ走り抜けていた。結良乃はチョココロネを欲していただろうか。衣代は全力で風となっていた。購買部のパンはそれ程在庫を抱えていない事を確認した過去を思い返すだけで気持ちは更に焦り始める。
「どうしてこうなったのですか!」
飛び込むように階段を駆け下りる姿は獅子の如し、教室の窓から覗いていた同じ格好の人々はそれぞれに別々の表情を浮かべて同じ感情を描いていた。その中でも目の端で瞬間的に捉えた口をぽかりと空けている男子の姿が滑稽でありながらも分かりやすく感情群の印象として焼き付いた。
「どうしてこうなったのですか!」
確実に朝のやり取りで弁当を用意できなかったせい。コンビニなどに寄る時間さえ取れなかった過去の自分自身を恨みながら息を切らしれ必死に足を動かし続けて行く。
購買部に着いた時には三人程度。衣代が並んだ次の瞬間、後ろに長蛇の列が出来上がる。
――急がなければ大変な目に遭ってましたね
午前から今の今までひたすら急ぎ、駆ける回数が段違い。そんな事実を確かめながら肩を落とし、結良乃の希望は落とさない。
チョココロネとソーセージパンを買って戻った衣代を迎え入れたのは衣代の席に膝をついて座り、背もたれに干し物のように身体を掛けている衣代と苦笑いを浮かべながらメロンパンの袋を開けている聖香の姿だった。
「衣代ちゃんやっほー」
控えめな声、明るく努めようとしている様は顔の輝きと大きな目から印象付けられるものの、可愛らしい口から響く音が大人しさを主張してしまう。
「聖香さんはいつも優しそうですね」
「ちょっと、衣代」
二人の優しい空気を結良乃が一人で壊してしまう。許せない、そんな感情が身体の強張りから見て取れた。
「申し訳ございません」
無言でチョココロネを奪い取るように受け取りながら頬に力を込めている。そんな結良乃の頬が膨れているように見えてつい静かな笑い声を零してしまう。
「笑わない、それと聖香さ、美術部の顧問の先生にも衣代の写真渡したんだって」
曰く、顔写真の一枚のみとの事だがそれ一枚でも大いなる危機と化してしまう可能性を秘めていた。
「先生も欲しいって言ってたから」
「いえ、宜しいのです」
「ちょっと、衣代」
衣代は正式には高校の生徒ではない。それを知る人物はそう多くない。聖香もまた例外ではなく、顔写真の流出が恐ろしい理由を実感できなくて当然だった。教師であれば入学前に耳にしているはずがなに故に部外者を記録した媒体を持ち歩くというリスクの高い行動に出たのだろう。
――何か引っかかる
聖香の方へと顔を微かに傾け、視線に重々しい感情を込める。おっとりとした聖香、日頃の態度や発言からして嘘を吐いているようには見えず、もしかすると利用されているかも知れないということ。
「いいかしら、明日だからね、クレープ」
「ふふっ、いただきます」
「いや明日だから」
写真をもらうという形で仲良くなった二人。しかしながら衣代が聖香と仲良くする事を良しとしない態度に軽い反感を覚えてしまう。
「聖香さん、手がしっとりとしてますね」
「あまり柔らかくなくてちょっと骨っぽいんだけど」
「骨っぽさは見当たりませんけど、少し固いようですね」
聖香の薄い手に衣代のこれまた薄い手が重ねられる。細長い指同士に日が射し、光と影の曖昧な境界線の上に置かれているよう。
「私よりは柔らかですよ」
「えへへ」
結良乃はこの会話を耳に流し込み、幾度と無く再生を繰り返しているよう。眉間にしわが寄りかけていた。
「春だけど少しかさついてるね。私のハンドクリーム使ってみて」
鞄からミントグリーンのポーチを取り出してチャックによって閉じられていた口を開き、細い指で探り取る。
「手を出して」
出された手に少し粘り気を感じさせつつも滑らかなクリームを塗り付ける。そんな流れを手も出せないまま目にし続けている結良乃にとっては最悪の光景だろう。
「ありがとうございます、良さそうだったら買ってみます」
薄っすらと広がる桃の香りが甘く、青春に付けられた色は淡く。ただ結良乃の嫉妬のこもった湿気塗れの視線だけが色濃く、酷に彩る現実。
「ちょっと、衣代」
痛みを伴う音、上ずった声が今の彼女の感情で本性と結びついた流れ。それを止める事など出来ない。
「私以外の子と」
「特別で大好きな親友です、守りたくなるくらいには」
そんなありふれた特別を与えられた、ただそれだけで聖香の想いは輝かしさを獲得する。散りばめられた星は間違いなく彼女の美しさを引き立てていた。
そんな聖香を前にしてとてもではないが互いに近付かないようになどと言えるはずもなかった。
「なら良いけど。私もなんだかんだ聖香の事大好きだし」
「嬉しい」
素直な表情に真っ直ぐな言葉。聖香には後ろめたい隠し事など無いだろう。衣代は断定を認識の印として己に焼き付け、ペットボトルの緑茶に口をつける。
「購買か自販機通さなきゃ飲み物すら手に入らない日が来るなんて」
結良乃の口がそう動き、声が意味を形作る。この現状を作り上げた原因がそのような事を告げる様は滑稽というべきか哀れというべきか。
「ですけどお嬢様は朝の楽しみを満喫していましたからね」
その瞬間、聖香は顔を微かに傾けて目の輝きに一筋の曇りを浮かせて衣代を凝視する。日頃のゆったりとした雰囲気は鳴りを潜め、好奇心が鈴を鳴らしている。
「二人はどういう関係なのかな。知りたい」
ふと生まれた沈黙。果たしてどのように誤魔化せばいいものだろう。聖香とは言え同い年のボディーガードやメイドと言った話を信じるはずもない。真実が反対側の流れへと導いてしまう。狙った通りとは言え少しの寂しさが生まれる。
それから更に沈黙は続く。どのような言葉を差し出そう。唇は震え、脳裏に浮かぶ言葉のどれを選ぼうかと指は動いて定まらない。それでも早く答えなければ怪しまれてしまう。
「……恋人でしょうか」
苦し紛れに選んだ言葉が結良乃の瞳を押し広げ、頬に季節から少し外れた桜を咲かせた。
「だからちょっと不機嫌だったんだね、ごめん」
「いいのいいの、大丈夫よ」
わざとらしい笑顔を向けながら誤魔化す彼女だったものの、気配は本物だと赤裸々に語っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます