夜のやさしい盗人

夜明いふ

第1話

 夜に外に出たのは久しぶりだった。夕飯の肉を焦がしてしまい、開けた窓から入り込んだ空気に僕は誘われてきた。 

 帰ってから焦げ付いた鍋を洗うのは億劫だが、十一月上旬の乾いた空気は心地良い。

 冷えた耳を無意識に揉んだ。


「寒い、あっためてー」


 そう言って、僕の手を耳に当てる妻の由奈は二年前にいなくなった。

 どんなに急いでいても、喧嘩をしていても、顔を見て「いってきます」と言ってくれる優しい彼女。

 散歩中に腕に絡まってくる猫並の液体さも、星が綺麗と見上げる高い鼻の横顔も、昨日のことのように鮮明に思い出せるのに、二度と触れられない場所に彼女は行ってしまった。


「そっち、行こうか」


 思わず仰いだ空は、空気が読めないくらい幾つもの星が瞬いていた。

 すうっと冷えた空気が鼻から入り込んでくる。ため息が嫌いな彼女に指導されたとおり、唇の僅かな隙間から長く息を吐く。

 呼吸に集中するとざわついた心が我に返り始める気がした。

 アンガーマネジメントに似た効果があるのだろうか。無邪気で子供っぽい彼女がそれを視野に入れていたとは到底思えないが。

 意識した冷静さで、ポケットの中からキーケースを取り出した。

 鍵がぶつかる金属音が田舎の静かな夜に響き渡る。

 焦げ茶色の革でできたキーケースは彼女が六年前の誕生日にくれたものだった。


「三十手前の大人の透也には経年劣化を楽しめる牛革にしてみました」


 にやりと笑う彼女もこの先もずっと一緒にいたいと思ってくれているのだと気づいた。

 「ありがとう」としか返せなかったけど、「この先も一緒にいたいと思ってくれてありがとう」という意図を彼女は汲んでくれただろうか。

 後から訊ねたらきっと「言葉が足りない。ちゃんと言って」と怒られそうだから聞けなかった。


「会いたい」


 撫でた革は傷だらけで、愛おしい。一生大切にする。会えなくても彼女だけを愛し続ける。改めて心に誓ったとき、後ろから自転車の車輪の回る音がした。

 振り返るとやはり自転車に乗った人が暗闇からこちらに来ていた。街灯の少ないこの道では顔は認識できなかった。

 道の端に寄って、左手でキーケースをポケットにしまおうとしたとき、生温い風がぶわっと通り過ぎたと同時に手に衝撃を受けた。


「え?」


 盗まれた。

 呆然とキーケースがあった手のひらを見つめていると、言いようのない怒りが湧き出してきた。

 追いかけて絶対に取り返してやる。そう思って顔を上げ足に力を込めたとき、十メートル先で自転車が、ガチャンと音を立てて倒れた。

 

「なんで……?」


 倒れた自転車は無人だった。

 自転車の周りを見てもあるのはアスファルトに短い雑草、田んぼのみで、どこにも人が隠れられる場所はない。

 咄嗟にスマホのライトで照らしてみるが、やはりいくら目を凝らしても人影はなかった。

 理解できない状況に、目の前に倒れた自転車に瞳が逃げ込む。


「これ……」


 自転車は僕のものだった。確かにアパートの前に停めてあった自転車がここにある。

 偶然、盗人が持ち主である僕の横を通り過ぎ、偶然ひったくりを決行したというのか。

 そんな偶然あるのか、狼狽えた手元にあるスマホのライトが地面に転がったある物を照らし出した。

 きらりと光る二つの金属、一つはアパート鍵、もう一つは車の鍵だった。


「なんで……」


 どちらも僕のものだった。

 「なんで」ともう一度唇から滑り落ちそうな疑問は頭を撫でた生温かい風が盗んでいった。


 「生温かい風が吹くと霊がいる」


 どこかで聞いた言葉が耳元で蘇った。


「いるの、そこに、いるの!!」


 叫びに応える者はなく、当たり前のように夜が僕を包み込んでいる。

 びゅっと突風が強く吹き、冷たくなった風が、頬から伝った涙を結晶へと誘っていった。

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夜のやさしい盗人 夜明いふ @soranoaosa

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