クイーンの彼氏

諏訪野 滋

クイーンの彼氏

 遅い午後の美術室。大学の講義の後でふらりと立ち寄った私は、ただ一人残っていた彼を見つけた。後ろから近づくと、描きかけのキャンバスをのぞき込む。


「ねえ。つい先週までは水彩画だったじゃない? それがどうして今週は、いきなり油彩画に変わってるのよ」


「いや、前のやつはなんだか飽きちゃって。でも、油絵ってのも結構楽しいよね。こう、盛るって感じがさ」


 そう言って笑う彼の一枚板のパレットは、実に様々な色彩に占領されていた。ヘリオトロープ、キャナリーイエロー、バーミリオン……表面の木目は完全に隠されてしまっていて、新しい絵の具が割り込める隙間もない。違う色を次々に筆にとっては、脈絡もなくどんどんと重ねていくのが、熱しやすく冷めやすい彼の性格をよく表している。

 そしていくらかも時間が経過しないうちに筆をからんと放った彼は、伸びをしながら立ち上がると、いたずらっぽい表情を私に向けた。


「ところでさ。これから二人で、水族館でも行かない?」


 彼に彼女がいることを、私は知っていた。社長令嬢で容姿端麗、ストリートを歩けば誰もが振り返る学年のクイーン。だけど彼は、そのことについて何も言わない。


「私、帰るね」


 部屋を出ようとした私の手首をつかんだ彼は、強引に振り向かせて腰を引き寄せると、挑発するように私の目を覗き込みながら唇を寄せた……




 しわになった服を整える。誰にも見つからないようにと願いながら、彼よりも先に外に出てみると、すでに日は傾きつつあった。並木道をくぐって正門から出た私は、右側の路肩に停まっている派手な車に気付く。真っ白なコルベットのクーペ、運転席には少し濃いサングラスをかけた例のクイーン。


 パァン、と彼女が甲高いクラクションを鳴らしたので後ろを振り返ると、遅れて出てきた彼が何食わぬ顔でこちらへと歩いてくるのが見えた。やれやれ、いつものお迎えか。軽く二時間は待っただろうに、女王にしては辛抱強いことだね。


 彼らから逃げるように左側へと足を向けた私のカバンが、不意に後ろから引っ張られた。何よ、と顔をしかめながら振り向いた私の目の前で、彼は得意げに水族館のチケットを振って見せる。


 そんなものをいつも持ち歩いてるなんて、誰でもよかったんじゃないの? 彼の移り気に泣かされた女の子は、それこそ彼が描いた絵の数よりも多いという噂だ……


 それに第一、あなたクイーンの彼氏なんだよね?

 ほら、彼女めっちゃにらんでるじゃない。


 シートに埋まったまま固まっているクイーンの目の前で、彼は私の肩を抱きながら、タクシーを拾うために勢いよく片手を挙げた。乗り込んだ車の運転手に、水族館とはてんで異なる住所を早口で告げた彼は、チケットの代りにマンションのカードキーを取り出して無邪気に笑っている……




 ひょっとすると、彼らの痴話喧嘩のにされただけなのかもしれない。だけどそんなこと、私には全然関係ないし。


 あなたがクイーンの彼氏でも、別にいいよ。

 せめて次に目が覚めるまでは、隣にいてくれそうな予感がするから。

 

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クイーンの彼氏 諏訪野 滋 @suwano_s

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