恋する君に恋をした。

むつき。

恋する君に恋をした。

 ”好きな人に想いが届かない”と嘆き落ち込む君を慰めるのは今日で何度目だろう。


 恋愛が不器用で今までは恋に恋し辛い思いしてきたと話したあの日の君。やっと本当の“好きな人”を見つけたんだ!とふにゃりと笑ったその顔に僕の心は大きく脈を打った。


 僕が彼女に出会ったのは数か月ほど前。その時には既に半年以上を想いを寄せる男性がいたみたい。

 その男性の話題になった途端に感情豊かになってふにゃりと照れて笑っては、どうアプローチしたらいいかと急に落ち込む君。


 けれどその人のことが本気で好きなのだと言うことが伝わる優しい心根と、目が合った瞬間に吸い込まれるような輝いた瞳。

 そんな君に僕はいつからか恋心を抱いてしまった――。


「ねぇ~、こんなにも一途で相手想いで一生懸命な女他に絶対いないって~!」


「[[rb:叶芽 > かなめ]]はそれ自分で言うのやめたらもう少し魅力的になれると思うけど......」


「うるさいな[[rb:響季 > ひびき]]! こうでも言ってなきゃやってらんないんだってもう!」


 ――あ、また始まった。


 彼女の名は[[rb:叶芽 > かなめ]]。僕が好意を寄せている女性で、そのまた彼女も別の男に好意を寄せている。

 すなわち、三角関係といったところだろうか。


 そして[[rb:響季 > ひびき]]というのは僕の名前。お互いに敬称をつけないのは仲がいい証だと思ってる。


 街を行き交う人が思わず目で追いかけてしまうような美貌と、可憐な服を着こなすスタイルの良い体。

 何事にも一生懸命で努力も怠らず誰にでも分け隔てなく親切でお人好しな性格の叶芽は、彼女がその気になってもならなくても周囲の人間はみんな叶芽に魅入られていく。


 僕だってその一人だ、男性から人気の絶えない彼女に好意を寄せる人は多い。

 とは言っても肝心の本命にはなかなか振り向いて貰えないみたいだけど。


 ただ、一定以上仲良くなると途端に可愛げのなくなる発言が増える。というか情緒不安定とでもいうのだろうか、化けの皮が剥がれて内面の可愛くない部分が垣間見える。


 突っ込みどころ盛りだくさんの惚気にも似た恋愛相談を聞かされ、アドバイスしようもんならすぐに怒られてしまう。

 そんな理不尽すらも愛おしく思うほど僕は彼女の恋のことを心底好きになってしまった。


 ただ、叶芽には幸せになってほしい。ちゃんと結ばれてほしい。


 だから、僕はこの想いを心から溢れ出ないように隠し続けて今も叶芽とは友達として仲良くしている。


「でも、みんな言うけど叶芽はよく頑張ってるし充分魅力的な女性だと思うよ?」


「それで“あの人”が気づいて振り向いてくれたら今こんな拗ねてないしー......」


「気付いてもらうために今アプローチ頑張ってるんよね? この間みんなで遊びに行ったときは楽しめた?」


「まぁ、楽しめたけどさぁ......」


 そう言って叶芽は頬杖を付いて不服そうにカシオレのグラスを手にする。

 やけ酒と言わんばかりの勢いでグビグビと飲み進めるものだから、あっという間にグラスは底を見せた。


 社会人になってほんの数年の叶芽が、年甲斐もなく幼稚な姿を見せるのは今のところ僕の前くらいだろう。

 彼女より三年ほど人生の先輩である僕は、叶芽のお世話係とでもいうのだろうか。楽しい時も辛い時もこうして叶芽の傍に寄り添ってはひたすら彼女と二人っきりの時間を堪能する。


 今日は久々に叶芽と僕の仕事の休みが重なり、それを先日知った叶芽が今夜の飲みに誘ってくれた。

 なぜ本命でない僕を飲みに誘い、肝心の本命の“あの人”にはデートの誘いをしないのか。


 叶芽にその気はないのだろうけど、僕からすれば男と女が一対一でバーまで飲みに来てる。これは立派にデートと言うのではないのか。

 恐らく彼女は何も考えていない。何も考えていないだけに、心に漂うモヤモヤとした感情が気持ち悪い。


 それでも僕は二つ返事で僕は今日この場にきてしまった。

 惚れた弱みというのモノなのだろう。


「楽しめはしたけど、あの人みんなの人気者だからちょっと話したらすぐ他の人のとこ行っちゃうもん」


「人気者は大変だねぇ、叶芽の本命もそうだし、叶芽自身も最近また告白されてなかったっけ?」


「うん。でも私、あの人以外の男性に興味ないんよねぇ」


「ほんと一途だよなぁ叶芽」


 分かってはいる。彼女が他の男性に興味を示さないことなんて。

 それこそ僕だって叶芽に好意を小出しにはしているが、何一つ大した反応を示してくれない。


 叶芽と出会ってからのこの数か月で彼女と関わる様々な人を見て、今の叶芽に恋心を抱いても無念に終わることはとうに気づいていた。

 まぁ、頭では分かりきった所で簡単に変えられるものじゃないのが人の心という面倒なモノ。


 どこか憂いを帯びた叶芽の少し伏せた瞳。考え事をしているのか空のグラスをひたすらに見つめ、溶けた氷が形を崩しカラッとグラスの音を立てた。


「......何?」


 叶芽のぽつりと呟く言葉ではっと考えを取り戻す僕。

 その儚い瞳に吸い込まれていつの間にか僕までぼーっとしていたらしい。


 ぱちっと目が合う。この瞳ももう随分見慣れたというのに、それでもこの心のときめきだけは慣れない。


「......いや、僕をバーに誘うくらいなら本命の人に声かければ良かったんじゃないの?」


「声かけたけど、予定があるんだってさ」


 叶芽の声は、先ほどよりまた一段と深く沈んだ。

 その断られ方を聞くのも何度目だろう。これ以上深く掘り下げても叶芽の表情が晴れないのは知っている。


 だから僕は「そっか」とだけ言ってグラスを空にした。


 叶芽曰く“あの人”は多忙らしく、何かのお誘いをしてもほとんどは断られるらしい。


 彼女にとってアプローチはほとんど経験ないことらしく。それでも好きな人を振り向かせるために勇気出して女性側からアタックし続ける叶芽の努力はなかなか報われない。


 叶芽と出会って間もない頃からずっと恋愛相談には乗ってきたが、本当によく頑張っているし彼女の本命である“あの人”は実によく愛されているんだなと僕は思う。


 数多の男性が欲しがるほどこんなにも魅力に溢れた彼女が時に大喜びし時に眠れないほど寂しい思いをするのは、全て“あの人のせい”なのだろうか。

 叶芽にこんなに愛されてる“あの人”が羨ましいし、同時に同じくらい妬ましい。




 間もなくして終電に間に合わせる為に店を出て叶芽を駅まで送る。

 いつものように、今日も改札から叶芽の姿が見えなくなるまで見守っていた。叶芽も見守ってくれていることを知ってて階段のギリギリで振り向いて僕に大きく手を振った。


 そんな君の姿が見えなくなった途端、心に広がっていたほんのり甘い幸せは不味く不愉快な感情へ豹変する。


 ――僕の恋人に、なってくれないかな。


 心に渦巻くこの感情は叶芽に届かない。

 それでも、僕は君のことが好きだった。


 でも僕は自分の幸せより君の幸せを願い続けている。


 ねぇ、叶芽、ひとつだけ教えてよ。

 いつも泣きそうな顔で後ろ向きな愚痴と不安ばかり吐いてるのに、“あの人”と結ばれて本当に幸せになれるの?


 家に帰ってからは服もカバンも今日の記憶も、全て投げ出すように部屋に散らしては手短にシャワーを済ませてベッドに横たわる。


 時計が天辺を過ぎた頃。充電器を差したスマホの画面を消して閉じた瞼には、上手くいってないのに幸せそうに“あの人”のことを語る叶芽の笑顔がこびりついていた――。

[newpage]

『ねね、今度一緒に水族館にデート行くことになった!』


 せっかくの連休だというのに、早朝から何の連絡か。

 眠い目を渋々開いてスマホをつけてみれば、叶芽から嬉しそうな連絡が飛んできてた。


 最近は叶芽からの惚気が増え、“あの人”と二人で会話したりする時間が増えてきたみたいだ。

 やっと進展があったのか。叶芽の努力が無駄ではなかったんだということに少し安堵する。


 ところで、先月サシで飲みに行った時の悩みっぷりはどこへ行ったのだか。

 桜が咲く季節に合わせるかのように、あの二人の恋は少しずつ前へ進んでいく。


 もしかしたら桜が二人の進展に合わせて咲いてるのでは? なんて寝ぼけた頭で下らないことを考えながら寝不足故の大きなあくびをして連絡を返す。


『良かったじゃん! 今まで断られっぱなしだったもんね』


『そうなの! それも今回、珍しく向こうから誘ってくれてさ~』


 正直、やっとか。という気持ちが大きい。

 いくら叶芽のこととはいえ、ひたすら好きな人の恋愛の愚痴を聞かされていては流石の僕もメンタルが持たない。


 上手くいっていることに嬉しさを覚えつつも、これで愚痴を聞くこともだんだん減って一緒に過ごせなくなるのかと思うと寂しさも膨れ上がった。


「人の心ってなんでこんなわがままなんだろうな......」


 開けたカーテンと窓からふわりと桜の花びらが舞い込み、手のひらに落ちる。


 ――あぁ、僕の春は一体いつ訪れるんだろう。


 叶芽の恋を全力で応援するって決めたのに。あの二人の未来が現実味を帯びていくほど叶芽のことを手放したくなくなってしまう。


 ずっと傍で寄り添っていたのに、どうして僕のところにはきてくれないの?

 誰よりも君のことを愛していたのに、そんな僕を置いて“あの人”のところに行くの?


 ......叶芽に見返りを求めていた訳じゃない。でも、僕の方がずっと君の近くにいたのに。


 つらいなぁ、分かっていたはずなのに。僕は結局叶芽の“一番”にはなれないんだ。


 僕の恋は報われない。でも、それで叶芽が幸せになれるなら構わないって綺麗ごとで片付けれるほど単純な気持ではなかったらしい。


 日が沈んだ頃には叶芽からデートの写真の数々が送られてきた。

 そこに写る叶芽はどれも僕が知らないほど幸せそうで。


 いつか叶芽がヤケ酒していたように、今度は僕がハイボールの缶を開けて口に含む。


 ぐちゃぐちゃに搔き乱されるような心情も思想も、口の中に広がるハイボールの風味で無理やり上書きしていく。


 彼女のことを純粋に愛せるように。叶芽のことを想う気持ちや行動に芽生えつつある邪な考えや感情をアルコールで消毒するようにもう一缶に手を伸ばした。




 仕事に家を出ては帰宅してを繰り返す退屈な代り映えしない日々。

 叶芽と過ごす時間はあっという間に減り、いつしか会話することすら珍しくなっていた。


 でもそれでよかった。叶芽の恋愛が上手くいくことを望んでいたし、絡む時間が減ることによって叶芽への想いはどんどん小さくされていくから最近はそこまで悩まずいられるようになってきている。


 夏に入る前の雨の止まない梅雨の時期、じめじめしていたのは外の世界かそれとも僕の心か。


 もし、叶芽が離れていく前に僕の気持ちを伝えていたらどうなっていたんだろう?

 この恋が後悔だって思いたくなくて、そんな考えが脳裏に浮かんではすぐに思想をやめる。


 ――いや、違うな。“後悔だと思いたくない”って考えてる時点でもうこれは立派な後悔だ。


 でもこれは僕がしたくてしたこと。彼女の恋を応援するんだって決めて、ちゃんと貫いた。

 なのにどうして、後悔なんてしてしまうんだろう。


 僕の生活から叶芽が消えつつある今、同時に世界から色が消えていく。


 あぁ、せめて、好きという気持ちだけでも伝えておけばよかったな――。


 ふと、スマホの通知音が鳴る。

 空気を読んだのか読めてないのか。そんなタイミングで連絡をしてきたのは、僕の心を進行形で狂わせている人物の叶芽からだった。


『響季ひさしぶり、あのね、、、』


 日も暮れ切った20時のこと。通知バーに表示されるのは現在の時刻と見慣れた“叶芽”という差出人。

 慌てるようにメッセージを開き、何かまだ物言いたげな彼女のチャットの続きを静かに待つ。


 僕は知っている。『、、、』や『......』など叶芽が時々見せる独特の文章の癖、それは文末に書き置くことで意味ありげな雰囲気をあえて漂わせ、同時に叶芽の心のSOSのサインのひとつでもあった。


 あと、文頭で名前を呼んでくるときは、ほとんどが話を聞いてほしい合図だったりする。


 静寂な部屋、響くのは降る勢いの増す雨音と僕の鼓動。


 嫌な予感がする。元々人一倍頑張り屋なくせして人一倍人を頼るのが苦手な彼女のことだ。


 僕はすっかり頼り先を僕から“あの人”にシフトチェンジしたのだと思っていたけれど、“あの人”と上手くやれていれば今更僕に一体何の用件で――。


『私、振られちゃった......』


 上手くいってると思ってたんだけどな。なんて追加のメッセージと共に焦り笑う絵文字が送られてきた。


 ――どうして?


 真っ先に脳裏に浮かんだのはその言葉。

 最近上手くいっていたのに、仲良さそうだったのに、何があったの?


 しばらくそれらしい会話もなかっただけに今の叶芽の状況が何一つ把握できていない。

 大きなショックを受けた時の叶芽は自分が傷つくこと抵抗を抱かなくなるほど自暴自棄になってしまう。


 これはまずい。


 困惑と焦りに支配されないよう、最大限自分を落ち着かせて詳細を聞くために叶芽にメッセージを送る。

 そして返されるメッセージの数々から少しずつ何があったのか、叶芽の事情が分かっていった。


 根強いアプローチの末に何とか交際に発展できたこと。

 けれど“あの人”との心の距離はまだまだ遠かったこと、それでも自分なりに楽みつつ一生懸命交際していたこと。


 だが、付き合ってみたけどやはり違う、叶芽とは付き合えない。となって一方的に別れを告げられたらしい。


 荒れた情緒で打ち込まれていたことが想像に容易い叶芽の長文。


 今自分が誰よりも辛いというのに“あの人”のことを悪く言うどころか文句のひとつも言わず、責めるのは全部自分自身のこと。

 叶芽は悪くないのに、あんなに頑張っていたのに。


 事情が分かって改めて思うのは叶芽が報われなかったことへの悲しみと怒り。

 ――そして、それでも尚“あの人”が好きで諦めるつもりはないと僕に宣言する叶芽自身にも同様の感情を抱いた。


 もう、そんな人放って僕のことを見てよ。と入力しては送信ボタンを押さずに入力メッセージを白紙に戻す。


 こんなこと言ってる場合じゃない、今の叶芽は物凄く辛く苦しく悲しんでいるはずだ。

 本来なら通話を繋いで詳細を聞きたかったが、『泣いてるから無理』と断られてしまっている。


 つらいね、苦しいね。たくさん頑張ってるの僕は知ってるよ。

 ――でもそんな慰めの言葉じゃ全然足りなくて、叶芽は『消えたい』『いっそのこと死んで楽になりたい』と悲観する。


 普段の僕なら「そこまで悲観しなくとも......」って思っただろうけど、事情も相手も今回は格別だ。


 昔から異性にあまり愛されたことがない彼女、今度こそ幸せになろうと自分磨きも仕事もプライベートも頑張って、恋愛にこんなに一生懸命だったのに。


 好きな人がいる。その人に似合う女性になりたいから――。

 それだけの意思で何事にも一生懸命打ち込んでいた。


 もしその全ての頑張りの根本たる“あの人”に振り向いて貰えなかったとしたら?

 僕だったら、きっとどうしようもない悲しさや虚しさ、辛さに襲われて自暴自棄になるだろう。


 僕から叶芽への片思いは希望のないモノだと分かっていたから恋心を根源に日々を過ごすようなことは避けていたし、実らないと思っていたからショックは少ない方だと思う。


 そんな僕でも自暴自棄になると想像できた。

 僕の比にならないほど頑張ってきた彼女。ただ話を聞いて傍に寄り添うだけで心が落ち着くのを待てるほど大丈夫な精神状態だとは思えない。


『叶芽、今からそっちまで会いに行ってもいいか?』


 好きな人が死を望むような嘆きをしていると言うのに、駆けつけない男がどこにいるものか。

 返事も待たずして上着をハンガーから引っ張り、最低限の荷物をポケットに詰める。


 玄関まで行き靴を履いたその時、スマホがまた通知音を鳴らす。


『やだ、こないで』


 僕を拒否するメッセージ。

 でもこんなのは想定内。素直になるのが苦手な叶芽のことだ、これはきっと本心じゃない。


『でも今の叶芽を放っておけないよ』


『知らない、こないで。おねがい……』


 これも想定内。僕の想像以上に精神が追いやられているのだろう。

 "こないで"なんて言うけど、僕との連絡のやり取りをやめる気はないみたいで。


 その証に先程から送信するメッセージにはどれもすぐに"既読"の文字がつく。


 これが全て僕の勘違いならそれでいい。でももし嫌な予感が本当だったら......


『30分くらいでいつもの大公園に着くから、来たくなったらおいで。嫌ならこなくてもいいから』


 送信ボタンをタップし、玄関を出て鍵を閉めれば施錠の確認もせず駆け足で大公園に向かう。


 大公園は叶芽の家の近所にある場所で、二人でよく散歩がてら遊びにきては下らない世間話や将来への不安などいろんな話をした。

 そう、僕にとって特別な場所。


『お願いだから、放っといてよ…………』


 片手に握りしめたスマホから伝わるバイブの振動。今はスマホ画面に表示された通知バーをタップする気はない、大公園へ向かうのが先だ。


 正直、この状態で叶芽が公園に来る保証はどこにもない。

 そもそも"こないで"って言ってるのに僕が無理やり会いに行ってるんだ、家から出てこない可能性も充分にある。


 それでも良い。僕はただ、僕にできる最大限のことを叶芽にしてあげたい。


 ――叶芽は、公園まできてくれるのだろうか。


 本音を言うならあの精神状態の叶芽を一人にはしていたくない。もちろん彼女のことが心配だけれど、僕が一緒にいたいという気持ちの方が今は上回ってる。

 叶芽が苦しんでるのを理由に、僕はどうしてこんなわがままで身勝手な人間なんだろうか。


 町明かりの多い住宅街の中にあるとは思えないような大きな木々の立ち並ぶ大公園沿いの道。


 結局、ここに着くのに要した時間は予定の半分ほど。いや、十分ほどで到着した。

 見渡す公園内は先ほどまでの住宅街の雰囲気と打って変わり、とことん人の気配はなく静かで風に煽られる木々の葉が擦れる音は少し心を落ち着かせてくれた。


「叶芽」


 ベンチに踵を乗せ膝を抱えてうずくまる君は、僕の声に気づいて伏せた顔をゆっくりとあげて虚ろな目でこちらを見る。

 正直会えないと思っていた。それに加えて叶芽がこんな早く着いてると思わなくて驚いた。


 一段と整えられた容姿、今日は“あの人”とデートしてたのか?

 だからこんなに綺麗な髪や服装ですぐに出てこれたのかもしれない。


 なんて声を掛けよう。時間をかけてこだわったであろうメイクは涙でぐしゃぐしゃで、どんなに泣いていたのか想像すると一段と心が痛む。


「横、座っていい?」


 そう聞くと、叶芽はコクリと頷いてくれた。

 ベンチに腰掛けると君はまた膝で顔を隠してしまう。


 表情こそ分からないものの、小さく跳ねる肩と微かにすすり泣く様子が窺えるから今はそれで充分。


「なんで、いつもこうなんだろうね。私......」


 焦れったい無言の間を先に壊したのは叶芽の方だった。

 ぽつりと呟く君の声は今にも消えてしまいそうな儚い空気をまとっていて、今すぐにでも抱きしめたい気持ちを僕はグッと堪える。


「仕事もプライベートもたくさん頑張ってきてさ、振り向いて貰えるような魅力的な人になろうと何事も全力で頑張ってたつもりだったんだけどね」

「......でもさ、全部ダメだったよ。せっかく、付き合えたのになぁ」


 叶芽の声がどんどん震えていく。

 そう言って軽く嘆く声色には僕への配慮が含まれている気がした。少しでも心配させないように、空元気なまま無理に笑う。


「ねぇ響季。前に話した私が恋人欲しい理由、覚えてる......?」


「覚えてるよ。好きな人がいればもっと自分磨きを頑張れるのと、あとは辛い時に寄り添って欲しい......って」


「ちゃんと覚えててくれたんだ」

「ほら、私って結構情緒不安定だから、たくさん頑張る代わりに辛い時に支えが欲しくってさ」


 ゆっくりと君は話を続ける。

 好きな人との話なんていくらでも覚えてるよ、僕が叶芽と出会って間もない頃、目を輝かせて惚気と恋愛への強い意気込みを語ってくれた。


 けれどその瞳の輝きももう、今は消え去ってしまったのかもしれない――。


「わたし、生きるの下手で全力で頑張れる代わりに辛くなっちゃう時も勢いすごいからさ」


「うん......」


「たった一人でいいから、私のこと理解して受け止めてくれたら、こんな苦しい思いももっと減って今よりずっと幸せで。って、それでっ.....」


 顔を上げた叶芽の表情はぐしゃぐしゃで、大粒の涙を零しながら僕に思いのありったけを訴えかけてくる。

 その言葉に、声色に、どれほどの感情が籠っていることか。知ってる、君の頑張りはちゃんと見てるよ、知ってるよ。


 涙が止まらなくなるほどの辛い夜を何度過ごしても変わらず君はいつも一生懸命で、挫折する度に君は涙を枯らすほど泣いては眠れない日々を過ごして。


 それでも、君は前に進むことをやめなかったね。


 辛い時は寄り添うし、君のこと全部受け止める。

 ねぇ叶芽、僕じゃダメかな――?


 そう言いかけたけど、勇気がなくて言えなかった。

 叶芽のことを応援してきた手前、今更僕の気持ちを伝えていいのか迷って決断できない。


「なんで私、こんな人生こんな辛いことばっかりなのかなぁっ......!」


 ついに嗚咽して、必死に両手で涙を拭う叶芽。もう無理せず、思いっきり泣いていいんだよ。


 僕は手を伸ばして叶芽の頭に触れた。初めて、叶芽に触れた。

 いや、厳密には“僕から触れる”のが初めてだ。


 叶芽とは二人で過ごすことも多かったし、スキンシップを取るのが好きな叶芽は僕の気も知らないでいつも軽々しく僕の肩や手に触れる。


 でも、僕から触れてしまえば二度と戻れない気がした。気持ちが抑えれなくなって、手放したくなくなるから今まで決して触れてなかったのに。


 なんだか、触れないと叶芽が壊れてしまう気がしたんだ――。


「たくさん頑張ってきたね、叶芽。もう、充分頑張った。僕の前ではもうこれ以上頑張らなくっていいんだよ」


 ヒビの入ったガラス瓶を割らないようなイメージで、叶芽の頭を丁寧に優しく撫でる。

ほんの一瞬でもいい。今は叶芽の辛い思いを和らげてあげたいし、僕がどうしてあげたらいいか分からなくなったのもあった。


 途端に叶芽は声をあげて泣き始める。

 手で必死に拭っていた涙も勢いを増して、叶芽は手を目に添えるだけに留まって拭うことを諦めた。


 ――叶芽の辛さを全部僕が肩代わりできたら。


 好きな人の力になれないってのは、本当に辛いよ。力にならせてよ、叶芽。


 僕は腕をゆっくりと叶芽の背中にそっと彼女を抱き寄せる。


「あのね、叶芽」


 叶芽が少し泣き止んで顔をあげる。

 こんなに目が晴れてメイクも涙でボロボロで、なのに吸い込まれてしまう瞳と、見惚れてしまう整った顔立ち。


 あぁ、もう僕の心も限界なのかもしれない。

 ――いや、今さっき君に触れた瞬間にもう限界を超えた。


 どうせ僕の知らない[[rb:男 > あの人]]に振り回されて叶芽が傷つくくらいなら。


「僕、叶芽のことが好きだよ」

「ずっと、君のことが好きだった」


 途端に見開かれた目。叶芽の瞳に溜まっていた涙が一粒の雫を作って頬を伝った。


 すべて僕が受け止める。傷ついた過去も苦しい想いも、一緒に背負っていくから。

 ひとりぼっちになんてさせない。今までたくさん頑張った分、その心の傷を僕が少しでも癒せたら――。


 “全部支えるから、僕と付き合ってほしい”


「なんで、今なの」


 だが、喉まで出かかった言葉は叶芽の声に遮られて言えなかった。


 冷たい声。

 叶芽の震えた声色、落とした顔。僕の腕から離れる為に押し当てた叶芽の指先に力が籠って、僕の服に爪が食い込む。


 予想から大きく外れた叶芽の反応、嫌な胸のざわつき。

 そしてようやく僕の脳が、今のは“言ってはいけなかった言葉”なのだと理解した。


「......ふざけないで」


 静かに重く心に響く、普段より低いその声色は僕の中の不安や焦りの感情を煽るには充分だ。


 再び顔をあげた叶芽の瞳はまた涙を零していて、感情がぐちゃぐちゃに混ざった泣いているのか怒っているのか分からない顔で僕をまっすぐに見つめる。


「私は......私は、あの人のことが好きなの。ずっと、誰よりも好きだったの......!」

「響季のことが好きな訳じゃない、それは分かってるでしょ!? どうして、そんなこと言うの......」


 分かってる、叶芽が“あの人”のことしか見えないほど一途なことも、大切にしていたことも、誰よりも大好きで愛していた事も全部理解してる。

 待ってよ、僕が伝えたいことはそんなことじゃない。そんなつもりで言ってるわけじゃない――!


「ごめん、違うんだ。叶芽のこと困らせたい訳じゃなくて僕はただ――!」


「私が、結ばれたいなんて思ってしまったから! 一緒にいられるだけで、声が聞けるだけで幸せだって。それ以上求めなければこんな辛い思いしなくて済んだのに......!」


 「ごめん」とか「君が好きだ」とかじゃなくて、ただ、君の力になりたいだけなのに。


 そりゃあ誰だって好きな人と結ばれたいって思うよ。より大きな幸せ求めることの何がダメだってんだ。


 上手く言葉が出てこない、大事な場面なのに思考が渋滞して言葉が出ない。


 僕の服を力強く握っていた手を放す君。同時に、感情がまるで消え去ったかのように瞳の輝きが消える。

 叶芽は何も言わず立ち上がってこの場を去ろうとするから、僕は反射的に君の手首を掴んだ。


「待って叶芽、今の君を一人にさせたくない!」


 これ以上苦しんで欲しくない。お願いだ、叶芽。


「叶芽が辛い時は傍にいたいんだ、僕にできることならなんだってやるから――!」


 叶芽の心にどうしても伝わってほしくて、今の僕では冷静になる余裕も手段や言葉を選んでる時間はなかった。


「痛い」


 ――そう言われて、反射的に離す手。

 気持ちが昂っていたばかりに、いつの間にか叶芽の手首を相当な力で握ってしまっていたのだろう。


 叶芽は僕が掴んで赤くなった手首をもう片方の手で握る。

 それは僕が握ったのを上書きするように見えたし、もう掴まれないように庇って守るようにも見えた。


「......ごめん、今はもう放っておいて」


「叶芽ッ――!」


 僕が真剣な眼差しで叶芽を見つめるが、叶芽はその以上に鋭く冷たい瞳で僕を睨む。


 背を向けて歩いていく彼女。こういう時、本当なら追いかけるべきなのだろう。

 けれど、冷たい叶芽の態度に心が凍てつくような感覚に陥ってしまって、それ以上の言葉を放つことも後を追いかけることもできなかった。


 叶芽の姿が見えなくなっても頭と心は大混乱のまま。

 あんな顔させたくて好きだと言った訳じゃないのに――。


 あぁ。拒まれたショックで気づけなかったけど、今やっと分かった。


 叶芽はこのまま“あの人”のことが好きなままでいい、諦めなくていい。

 だから、どうか僕のこと頼ってほしい。って――。


 素直にそう言えば良かった。言葉なんて選ぶ必要なかったし、嫌われることを恐れている場合じゃなかった。


 「一人にさせたくない」なんて言って。

 ――本当は、僕が独りになりたくなかっただけなのに。


 言いたかったはずなのに言えなかった、「付き合って欲しい」と「愛してる」の言葉。


 もう少し素直になれば、彼女の心に届いていたのかな。


 冷たい言葉で突き放されたって。

 それでもまだ、君がまだ“あの人”を想うように、僕は叶芽のことが好きだよ――。

[newpage]

 どんなに心配していても、その気持ちは叶芽にとって迷惑なものでしかない状態。

 とても落ち着かない日々を送っているけど、今の僕にできることは彼女を信じて落ち着くのを待つくらいしかなかった。


 公園で叶芽に会って数週間経った。けれど、あの日の出来事は今でも鮮明に思い出せる。

 それほど僕にとって大きな出来事だった。


 届かなかった言葉も想いも、拒絶されたショックも。

 仕事どころか日常生活にも支障をきたすほど沈んだ心を少しでも軽くするため、大きく息を吸って吐いてみるがそれはただの溜息にしかならない。


 結局、あの日家に帰ってから叶芽には『あの時言ったことは忘れて』とだけメッセージを送った。

 けれどそれも“既読”の文字がついただけで返信もこない。


 朝起きたらスマホを見て、寝る直前まで叶芽のことを気に掛ける生活。

 唯一生存確認ができる彼女のSNSのアカウントを覗きに行っては、モヤモヤして画面を閉じるの繰り返し。


 今日も今日とて、就寝準備を済ませたというのに布団に入って眠るまでが長い。

 手癖で開いたSNSのタイムラインに流れ着く叶芽のひとつの呟きが視界に入る。


 『好きな人のこと忘れることができたらどんなに楽なんだろう』

 たったその一文が、僕の心を大きく揺らした。


 ――忘れさせてあげたい。僕の存在で、彼女の恋愛を上書きしたい。

 心に渦を巻くような、僕らしくもない歪んだ愛の考え。


 その後に立て続けで流れてきた、『夏祭り行きたいな、りんご飴とか食べたい』という叶芽の呟き。


 途端に僕は考えることをやめて、既読で済まされていた叶芽との個チャを開き、深夜の勢いを借りてメッセージを入力する。


『叶芽、りんご飴食べに行く?』


 以前までの“友達”だった頃の関係を装って、この間の公園での出来事なんてなかったことにして、さりげなく夏祭りの誘いをする。


叶芽のSNSの呟きのほとんどは“察して”という意図が込められてる。僕はこのチャンスを逃すわけにはいかない。


『響季の奢り?』


 返信きたらいいな。なんて思っていた時にはメッセージが送られてきたから僕は思わず「えっ」って声を出して驚く。


 散々既読無視してたくせに。なんて心の中の一部の僕が拗ねつつも、特に落ち込んだ様子も見せずいつもとなんら変わらないテンションで叶芽がメッセージくれたことが本当に嬉しい。


『いいよ?』


『ほんと!? やったー!』


 ちょっと図々しい叶芽も、今となっては愛らしい要素のひとつだった。

 りんご飴ひとつでここまで喜んでくれるなんて、本当に可愛くてどうしようもない。


 あぁもう、この数週間あんなに思い悩んで心配してたのに。

 たった一言メッセージがくるだけで全部許せてしまうのだから、恋心とは本当に恐ろしい。


『響季、私、花火も見たい』


『え、もちろんいいけど』


 叶芽は気分転換も兼ねて遊びに行きたいらしく、思いのほか話は早く進んだ。

 次の週末にある花火大会を見に行く約束を取り付けて、その後大した会話もないまま『おやすみ』というやり取りを残してスマホの画面を閉じる。


 久々の安堵と嬉しさ。心の中で大きくなっていたわだかまりは僕の悩みも知らずにスッと落ち着く。

 連絡せずにいた数週間、たくさん思い悩んでいろんな葛藤があったというのに、たった数分のメッセージのやり取りでそれらの感情が消えていくんだ。


 それがどうしようもなく悔しいけれど、それ以上に幸せで、僕の気持ちには光が差し込んでいた。




 花火大会の夕方、日が傾いてきたとはいえど暑い気温に変わりはなくしっとりと汗ばむ肌に服が張り付いて少し気持ち悪い。

 響く蝉の声と祭り会場に向かう人たちで町は賑わっており、どちらかというと家に引きこもりがちな僕には少し負担が多い。


 週末までの数日はあっという間に過ぎ、叶芽の到着を待ちながら見上げる夕焼け空はいつにも増して綺麗に見える。


「響季!」


 無事到着したか。そう思い声の主へ視線を向けると、そこには見慣れない叶芽の浴衣姿があった――。

 濃い紫を基調に白い百合が描かれており、白い帯がより浴衣の印象を引き締めて魅せる。


 普段は下ろされてる長い髪は丁寧に結われてアップにして紫の大きな花の髪飾りをつけており、さらけ出された首に釘付けになってしまう。

 夕焼けよりも遥かに綺麗な叶芽の浴衣姿を見た途端にうるさいほど高鳴る心臓。


「お待たせ! どう? せっかくの夏祭りだし浴衣着てみたんだ~」


「あ、うん。すごい、似合ってる......よ」


 無邪気に袖を揺らしてはにっこり笑う彼女の姿に、僕の心は限界を迎えた。


 ――落ち着こう。一旦落ち着こうか。

 自分の心に語り掛けても、心臓はドクドクと早く脈を打ったままだ。


 確かに叶芽は最初から可愛かったけれども――!


「ねぇ、今日はりんご飴買ってくれるんでしょ? 早く祭り会場行こうよ!」


 そう言って叶芽は俺の袖を引っ張るものだから、反射的に体が前進する訳で。

 会場へ向かう足取りは軽く、あの日公園で見せた叶芽の不安定な精神状態は知らないうちにどこかへ消えたのかもしれない。


 ――今日のこと、叶芽も楽しみにしていてくれたのか?

 いやまさか、リフレッシュって本人も言ってたし。楽しみにするには別だろう。


 祭り会場、金魚すくいで泳ぐ金魚たちを見て「可愛いねぇ」なんて呟く叶芽。

 いや、君の方がずっとずっと可愛いって。


 ――というか、二人で夏祭りにくるのって本格的にデートなのでは?

 いやいや、今までも叶芽に呼び出されてはご飯とか買い物二人でよく行ってたじゃん。そんなこと今更叶芽は意識してないだろ。


 「毎度あり!」りんご飴の屋台のおじさんが、りんご飴を叶芽に手渡しする。

 礼を言って受け取る叶芽。ふと、おじさんからの視線がこちらに向く。


「兄ちゃんらデートかい? こんなべっぴんな彼女、変な男に連れていかれんか心配やなぁ!」


 いや、デートじゃないんだけどな。まぁでも傍から見ればデートにしか見えないか。そうだよな、僕ならそう思う。


 ん?いや待て今のおじさん、叶芽のこと『べっぴんな彼女』って――。


「か、彼女じゃないので――!」


 反射的に言葉が漏れたけど、こればっかしは許してほしい。

 事実付き合っていないし、叶芽が不快な思いするかもしれないようなことしないでくれ。


 軽く頭を下げて叶芽の手を引っ張って店を後にする。

 背中から「それはすまんかったな、また買いにきてくれよ!はっはっは」なんて聞こえるけど恥ずかしくって聞こえないフリをした。


 やば......叶芽の手握ったままだ。


 おじさんに言われたことに動揺して、あの店を早く離れたくて叶芽の手を引いてそのまま今。


 パッと手を放し、叶芽の方へ振り返る。


「あっ。ごめ、ん――」


 いや、違う。厳密には手を“放そうとした”。

 するりと抜ける僕の手を、叶芽が握りしめるものだから手が離せなくなって。


 あれ? なんで手、離してくれないんだ......?


 叶芽が今何を考えているのか分からず、手を引くことも、かと言って握り返すこともできる訳がない。

 困惑した視線を向けた叶芽は、妖艶な笑みを浮かべていて思わず息を呑む。


「響季、花火が綺麗に見えるとこまで移動しよっか」


 そう言って今度は君が僕の手を引く。この様子だとオススメのスポットとか知っているのだろうか。

 特に会話もないまま、僕の一歩先を歩いてリードする叶芽の背中を見つめていた。


 叶芽は僕と手を繋ぐことに抵抗ないのか? りんご飴買った時も僕ばっかり動揺してて、なんだか物凄く悔しい。


 恋愛経験結構あるもんね。それは伝わるけどいつもと様子が違うから本当に困惑する。

 今日の叶芽はどうしたんだろう?




 町明かりから離れた薄暗い道からも外れ、道なき芝生の上を歩いていく。

 周囲の人影も少なく足元の安定しない場所。叶芽が何も言わず立ち止まり、僕も隣に並んだ。


 そろそろ花火が上がる時間。けれどその前にどうしても僕は叶芽と話しておきたいことがあった。


「あのさ叶芽、この間の公園でのことなんだけど」


「......うん」


 淀む言葉。もしまた拒絶されてしまったら――なんて不安は、不思議と叶芽の手を握っていると気にならない。


「その時に僕が言ったことって、覚えてる?」


「え......そっちが忘れろって言ったのに思い出させるつもりなの?」


 緊張感をまとう空気を叶芽が唐突に壊す。

 僕は思わず「ごめんって!」と口にした。


 まぁ確かに僕が忘れろって言ったもんね、ちょっと自分勝手だったか?


 でもそれはそれとして大事な話しようって時に限って......いや、だからこそ叶芽はあえて張り詰めた空気を壊してくれたのかな。


 叶芽らしいなって思ったら、不思議と肩の力が自然と抜ける。


「ごめん、あの時本当はちゃんと言いたかったことがあってさ」


 今度こそ、伝わって欲しいな。

 いや、また伝わらなくたってもいい。それでも、ちゃんと言おう――。


「あのね叶芽。――俺、叶芽のことが好きだ。やっぱり、付き合って欲しい」

「“あの人”のこと好きなままでいい、追いかけたままでいい。でも、僕にもっと支えさせてほしい」


 ずっと好きだった。君のこと考えるだけで胸がいっぱいになるのはきっと、この感情のせいだ。

 言葉がスラスラと出てくる。あぁ、僕の声帯のどこからこんな優しい声が出てくるんだ。


 僕のわがままだけれど、この感情だけは君に届いて欲しいな。

 あのね、僕はずっと――。


「叶芽のこと、愛してるよ」


 ほんの少し視線を落としていた叶芽が真っすぐに僕の瞳を見つめる。

 視界が暗くて細かい表情までは分からないが、もしかしたら何か驚いているのかもしれない。


 なんて愛おしい感情なんだろう。この気持ちを言葉にするだけで、暖かくてふわふわした感覚で心が優しく包み込まれていく。


 でも、叶芽の答えが少し怖いな。繋いでいた手にはどちらともなく力が籠っていた。

 次の瞬間、叶芽はふいっと顔を逸らす。


「私、まだあの人のことが好き。それでもいいの?」


「もちろん」


 即答した僕の言葉に、叶芽の指先がピクッと跳ねる。


「響季のこと好きにならないかもよ」


「構わないよ、一緒にいられるだけで充分」


 そんな返答、想定してない訳がない。

 恋している叶芽の姿は第三者として見ていてもとても魅力的で、その姿も含めて僕は君を好きになったんだから。


「私、いつも元気か落ち込んでるかで極端だし、一緒にいたら疲れるよ」


「疲れたことないし、それより僕は叶芽と一緒にいたいかな」


 そんなところも“全部含めて”叶芽のことが好きなんだけどなぁ。


 ふと、繋いでる手に少し力が加わったと思うと、叶芽の手がするりと離れる。

 汗ばんだ手のひらに夜風が触れて少し涼しい。


「構ってくれない時があったら拗ねるかもよ」


「その時は叶芽の好きなお菓子を買ってきて機嫌がよくなるまで甘やかすよ」


「本当に私のこと好きなのかなって、すぐ不安がるかも」


「じゃあ、叶芽がもういい。って言うまで何十回でも何百回でも愛を伝える」


「私なんかが好きだなんて、見る目ないんじゃないの?」


「どうしてそんなこと言うの?」


「だって、私めんどくさいしさ......」


「まぁでもそれは今に始まったことじゃないじゃん」


「――ちょっとそれは失礼じゃない?!」


 漫才みたいな叶芽のツッコミに僕は思わず笑ってしまう。

 本当ならここは叶芽のめんどくさい点を否定すべきなのかもしれないが、ちょっと魔が差してしまった。


「もう~! 響季のばか! 雰囲気大事にしてよね!?」


 そうやって文句言う叶芽も言葉とは裏腹に笑っていて、僕の肩を叩く。

 あぁ、叶芽は可愛いだけじゃなくて面白い。ずっと一緒にいても飽きない。


 「涙出てきたんだけど」って言いながら叶芽が涙を拭う。

 どんだけツボ浅いんだ叶芽は。なんて思いながら、二人で笑ううちに次第に落ち着いて空気が静まり返る。


 少し居心地の悪い無言の続く静寂。

 叶芽の返事には期待しないつもりだったのに、先ほどの告白もあわさって心臓がドキドキしてとても気持ち悪い。


「分かった。そこまで言うなら私――響季と付き合いたい」


「え......ほんとに?!」


 慌てて咄嗟に出た声は少し上ずってしまった。

 いや、え、だってでも今さっき叶芽、「お付き合いする」って言ったよね。


 僕の聞き間違いじゃ、ないんだよね――?


「うん。だってここまで言われたら拒否する理由も特にないし」


 視界が明るくなったと思ったら、途端に周囲の音を掻き消して鼓膜を独占する花火の打ちあがる音。


 そっか。じゃあこれで僕と叶芽は晴れて恋人になるのか――。


 打ちあがる花火も綺麗だけれど花火を見つめる君の横顔はもっと綺麗で。


 今まで花火大会なんて特に興味なかったけれけれど、隣に君がいるってだけで花火も世界もこんなに綺麗なんだね。


 時間も忘れて僕たちは花火に魅入られて、夢中で眺めてた。

 けれど叶芽と結ばれたなんて実感も現実味も少しもない。


 あれだけ“あの人”を想い続けていた叶芽。薄々気づいてた、もう追いかけるのに疲れてること。

 恋を忘れるには新しい恋がいいとも聞くし、今日の叶芽の様子だっていつもと違って変だ。


 まるで、僕に気があるような――。


 いや、叶芽が何を考えているのかは分からないけど、少なくとも今の叶芽は僕を選んでくれた。それで僕は満足だ。

 きっと今日のことは、この先何年経っても思い出すんだろうな。


 花火のフィナーレ。特大サイズの花火が立て続けに散っては大きな音を響かせる。


 好きな人と結ばれるのって、こんなに幸せなことなんだね。

 叶芽といるだけで既に幸せだったのに、想像を容易く越える幸せの感情の愛おしさは言葉では言い表せない。


 君は今まで本当にたくさん頑張ったね。

 大丈夫。僕がちゃんと幸せにするから――。


「叶芽、愛してるよ」


 花火の明かりがゆっくりと消えて辺りはまた暗闇に包まれる。

 余韻に浸るように、幸せな感情を噛み締めるように、僕が言うと君は苦笑いした。


「気が早いなぁ、私まだ響季のこと好きになった訳でもないのに」


 そんなに大きな愛を剥き出しにされたら反応に困る。と眉をしかめて笑う君。

 僕も「ごめん」と軽く笑う。


 その時にふと、手の甲に触れる感触。

 視線を向けると叶芽の手があって、たまたま当たったのかと思い手を引こうとした。


 けれど君は、するりと僕の小指に人差し指を絡める。


 驚いて叶芽の顔を見たら、君は少しそっぽを向いた。


 僕が叶芽の指を優しく解くと、君が遠慮気味に手を放そうとしたけど、お構いなしで叶芽の手のひらを掴み指を絡ませる。

 さっきとは違う、恋人繋ぎってやつ。


 すると、一瞬ピクッと跳ねた君の指は数秒の時間をかけて僕の手を握り返してくれた。


 それが嬉しくって叶芽の小さな手の温もりを噛み締めるように優しく握ると、先ほどよりも強い力で叶芽も握り返してくれる。


「......手、繋いでていいの?」


「まぁ、響季となら......」


 一瞬目が合ったと思ったらまた視線を逸らす叶芽。

 暗闇でよく見える訳じゃないが、反対側の手で口元を隠すように覆うから照れてるのかな。って。


 そう思ったら釣られるように僕の顔も熱を帯びるだから僕まで顔を逸らしてしまった。


「叶芽」

「また来年も、りんご飴買いに行く?」


「うん。でも次は二つ食べたい......」


「じゃあ二つと言わずお腹いっぱいなるまで買ってあげるよ」


「いいの?! やったぁ~!」


 叶芽が嬉しそうにふにゃりと笑い、手を繋いだまま祭り会場を後にしようと歩き出す。


 あぁ。こんなに幸せそうな顔見てしまったら今すぐにでも祭り会場に戻って、それこそ十個でも二十個でも買ってあげたくなってしまう。


 恋とは不思議で複雑で、楽しくも辛くて苦しくて。

 でも、きっと、それ以上に僕たちを幸せにしてくれるモノだから。


 叶芽の本当に気持ちに二人が気づくまで、あと――。

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恋する君に恋をした。 むつき。 @KurosakiSirokuro

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