第3話 ため息と誓い

 お風呂から上がった深雪は、ピンクのパジャマに着替えて自分の部屋に戻った。机の上には、今日図書館で借りた『西洋マナー入門』と『貴族のたしなみ』が積まれている。

 深雪は鏡の前に座り、濡れた髪をタオルで拭きながら自問自答を始めた。


 完璧なテーブルマナーを目指して、果物ナイフでハンバーグと対峙する少女。


 叫ぶ弟。


 緊急帰宅する母。


 ……どうして、こうなったのか。


 いや、理由は分かっている。全部、深雪が『令嬢になりたい』なんて無茶な夢を見てるからだ。


「でも……私は……ヒロインでも悪役でもいい……とにかく令嬢になりたいのよ」


 異世界転生して、侯爵家の娘として目覚めて、綺麗なドレスを着て、お茶会をして、舞踏会に出て――そういう生活に、憧れてしまうのだ。

 それがたとえ、現実離れしているとわかっていても。


 それに――。


 異世界転生が絶対にないとは言い切れないんだから。いつか……ある日突然、転生することがあるかもしれないんだから。


 ベッドの中で、深雪はスマホを開いてお気に入りの転生令嬢シリーズの最新話を読み始めた。やっぱりこういう話は、読むだけで心がふわっと軽くなる。

 物語の中の令嬢は、なんでもスマートにこなせて、誰からも愛されていて、完璧で――それなのに、ちょっとドジなところがあったりして、そこも可愛い。

 深雪もそんな女の子になりたいと思っているのに。


「やっぱり私、変なのかな……」


 鏡に映る自分の顔は、いたって普通の中学二年生である。特別美人でもなければ、特別不細工でもない。どこにでもいそうな、平凡な女の子。


「こんな私が令嬢なんて、無謀すぎるのかもしれない」


 拓真は驚いて怖がっていたし、香苗も、最初はキレてたけど、最終的にはちょっと心配そうだった。「もしかして、学校でうまくいってないんじゃないの?」「友だちとケンカした?」って。


 深雪がいじめにでも遭ってるんじゃないか、って、心配させてしまったのは、本当に申し訳ないことをしちゃったな、と思う。


 でも違う。上手くいっていないとか、誰かとケンカしたとか、そういうのじゃない。ただ、もっと素敵な私になりたいだけなのに。


「……上品で、優雅で、知的で……」


 そんな自分になれたら、きっと今の自分をもっと好きになれると思った。

 なんの取り柄もない、ごく普通の平凡な私じゃなくて、なんでもできて、みんなに認められて褒められて……。

 そして、誰よりも素敵な王子様に愛される。


 でも現実は、果物ナイフでハンバーグに苦戦して、拓真に「包丁でご飯食べてる」と叫ばれるような、自分。


 それの、どこが令嬢なのか……。


 ちょっとドジなところがあるなんて、そんな可愛らしい失敗じゃない。あそこまでいくと、もう笑うしかない。


「ああ、もう……なんで私はこんなにダメなのよ……」


 それでも、布団の中でじっとしていると、だんだん気持ちが落ち着いてきた。そして、いつものように妄想の世界が頭の中に広がり始める。


 薄紫の絨毯が敷かれた、豪華な食堂。天井にはシャンデリアが輝き、テーブルには純白のクロスがかけられている。銀の食器が美しく並べられ、キャンドルの炎が優雅に揺れている。

 そのテーブルの向かい側には――金髪で青い瞳をした、理想の王子様が座っていた。


『深雪姫、お食事の作法でお困りのようですね』


 王子様は優しく微笑みながら、手に持ったナイフとフォークを華麗に操る。一口大に切られたステーキが、まるで芸術作品のように美しい。


『お手本をお見せしましょう。まず、ナイフは右手でこのように持ちます』


「まあ、アルバート様。ありがとうございます』


 想像の中の深雪――レディ・ミユキは、上品に微笑みながら王子様の手つきを見つめている。深紅のドレスに身を包み、真珠のネックレスがゆらゆらと揺れて――。


「ふふ……」


 深雪は毛布の中で小さく笑った。現実はうまくいかなくても、妄想の中では完璧な令嬢になれる。それだけでも、少し心が軽くなった。


「やっぱり私は、絶対に諦めませんわ」


 毛布から顔を出して、月明かりが差し込む天井を見つめる。

 今日は失敗したけれど、それは最初の一歩にすぎない。本当の令嬢だって、最初からすべて完璧だったわけではないはず。きっと、たくさんの練習を重ねて、優雅な立ち居振る舞いを身につけたのだろう。


「明日はもっと優雅に食べてみせるわ。令嬢生活、まだ始まったばかりだもの」


 深雪は小さくつぶやきながら、枕に頭を乗せた。

 ベッドの脇、窓際に吊るしたブラウスが揺れる。肉汁は染みになることなく綺麗に落ちて、ホッとする。まさか肉汁の染み付きのまま、学校へ行くわけにはいかないんだから。


 失敗はしたけれど、それでも。


「やめられないんだよなぁ、令嬢修行。どうしても憧れちゃうんだもん」


 深雪はくすっと笑い、枕に頬を埋めた。布団の中がほんのり暖かい。たぶん、私は誰かに認めてもらいたいのかもしれない。特別になりたいのかもしれない。

 夢をバカにされても、笑われても、無理だって言われても、それでも、転生して令嬢になりたいなんて、本気で願ってる自分を、諦めたくなかった。


 閉じた目の奥に、再びあの妄想の世界が広がる。


 白い大理石の床。シャンデリアの光がキラキラと舞っている。深雪は真紅のドレスに身を包み、舞踏会の中央に立っていた。手を差し伸べてくるのは、優しそうな王子様。


『深雪姫、あなたと踊るために、僕はここに来ました』


 とびきりの笑顔で言われたその瞬間、深雪は頷いて、王子の手をとる。

 ワルツのリズムが鳴り響き、ドレスの裾がふわりと広がる。周りで見ている他の令嬢たちや貴族の人々……。

 羨望の眼差しを一身に受けながら、王子様と見つめ合って華麗に踊る。


『素晴らしいダンスですね、深雪姫』


『深雪姫の美しさは、まさに天使のようです』


 そんな賞賛の言葉が深雪の耳に届いてきて、恥ずかしさを感じながらも幸せな気持ちが溢れてくる。想像上の王子さまとの会話も弾んで、気分はすっかり貴族の舞踏会である。


 妄想の中で踊りながら、ふと、今日音楽室で淳也と目が合ったときのことを思い出す。あのとき、なぜか胸がドキドキした。淳也はいつも静かで、あまり目立たない男子だけれど、なんとなく、他の男子とは違う雰囲気を持っている気がする。


「まあ、でも、私が令嬢になったら、きっと王子様みたいな人が現れるのよね。名取くんは……普通の男子だし」


 なのに、なぜか淳也の顔が頭から離れない。真面目そうな目と、たまに見せる優しい笑顔。テニス部で鍛えた体は、意外にたくましい。

 深雪は枕に顔を埋めた。


「うーん……よくわからないな」


 恋愛のことはよくわからないけれど、令嬢への憧れは確かだった。明日からも、きっと新しい挑戦が待っている。

 深雪は薄っすらと眠気を感じながら、心の中で誓った。


 どんなに失敗しても、どんなに笑われても、いつか必ず、本当の令嬢になってみせる。

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