憧れの令嬢生活をつつがなく送るために必要なことはなんですか?
釜瑪秋摩
令嬢への第一歩は食事から?
第1話 異世界転生と令嬢への憧れ
放課後の図書室は、夕陽が窓から斜めに差し込んで、埃が金色に踊っている。窓際の席で、
『侯爵令嬢エリザベータの華麗なる転生譚』
今月のお気に入りで、もう三回目の読み返しである。
『まあ、アルバート様。そのようなお言葉をいただけるなんて、わたくし、感激ですわ』
本の中の令嬢エリザベータが、金髪の王子様にエスコートされながら舞踏会の会場を歩いている。深雪は無意識に小さくため息をついた。
「いいなあ……私も転生して、こんな風にドレスを着てみたいなあ……」
ふわりと広がるシルクのドレス、宝石をちりばめたティアラ、そしてなにより、品格と優雅さに満ち溢れた立ち居振る舞い。想像するだけで胸がときめく。
深雪は本を胸に抱きしめながら、妄想の世界に没入していく。
金色に装飾された馬車が、石畳の道をゆっくりと進んでいる。車内では、お付きのメイドが深雪――いや、レディ・ミユキの髪を丁寧にセットしてくれているのだ。
『お嬢様、今日のパーティーでは、どちらのドレスをお召しになりますか?』
『そうですね、ブルーのシルクが素敵かしら。あ、でもピンクのサテンも捨てがたいですわね』
優雅に微笑みながら、レディ・ミユキは扇子をひらり、と回す。
「深雪〜、なにニヤニヤしてるの?」
突然の声に、深雪はハッと現実に引き戻された。声の主は、同じ合唱部で親友の
深雪は慌てて本を閉じながら答えた。
「あ、明美、楓、遅かったね。っていうか別に、ニヤニヤなんてしてないから」
「してたよ~! 楓が見てたもんね~。また異世界の本読んでるでしょ? 表紙隠してるけど、バレバレだよ~」
楓が舌足らずな口調でクスクス笑う。
実際、深雪は念入りにブックカバーを装着していたのだが、楓の観察眼は鋭かった。
深雪と楓のやり取りを見ていた明美が肩をすくめる。
「まあ、いいじゃない。私だって異世界転生もの、けっこう好きだし。で、今度はなにに転生する話?」
「侯爵令嬢! もう、本当に素敵なの。毎晩舞踏会があって、王子様や公爵様がダンスに誘ってくれるのよ。それで主人公は完璧なマナーでね――」
目を輝かせた深雪の口調に熱がこもったとき……。
「はあ~い、そこまで」
三人の会話を遮ったのは、クラスで一番目立つグループのリーダー格、
「また異世界? いい加減にやめたら? 子どもっぽい。中学二年生にもなって、まだそんなことに夢中になってるの?」
深雪の頬が少し赤くなる。緋香里に否定されるのは、いつものことだけれど、やはり傷つく。深雪の気持ちを察したかのように、明美が緋香里に食って掛かった。
「子どもっぽくなんてないじゃん。読書は立派な趣味でしょ?」
「まあ、そうかもしれないけど。でも現実逃避もほどほどにね~」
緋香里は肩をすくめながら、友人の
「深雪、気にしない気にしない。黒島さん、悪い人じゃないんだけどね。ただ、ちょっと価値観が違うだけだよ」
「そうそう。楓は深雪の夢、素敵だと思うよ~。楓も、お姫様になってみたい~」
深雪は二人の優しさに少し元気を取り戻したが、心の奥では静かな決意を燃やしていた。
(いいもん、今に見てなさい。私は絶対、上品な令嬢になってみせるんだから!)
部活が始まる時間になり、深雪と明美は合唱部が活動をしている音楽室に向かった。楓は書道部だから、途中で別れる。今日は文化祭に向けた新しい楽曲の練習である。
「はい、みなさん、発声練習から始めましょう」
顧問の先生の声が響く。
「あ~あ~あ~」
深雪も他の部員と一緒に声を出すが、頭の中では全く別のことを考えていた。
優雅な令嬢が、金縁のピアノフォルテの前に座っている。白いレースのドレスに身を包み、細い指で美しいメロディーを奏でながら、天使のような歌声を響かせる。
「迫田さん、少し音程が不安定ですよ」
先生の注意で、また現実に戻される。
「す、すみません」
部活が終わると、部員たちは楽しそうに雑談を始めた。深雪と明美は、帰り支度を急いだ。昇降口で楓と待ち合わせているから。
「ねえ、今度の合唱コンクール、衣装はどうしようか? 普通の制服じゃつまらないよね」
明美の言葉に深雪の目が再び輝きだす。
「そうそう! ロングドレスで出られないかな? クラシックで、上品な――」
「それ絶対、先生に怒られるやつじゃん」
「そうかな? でも、令嬢らしい格好をすれば、歌声ももっと――」
「深雪」
「ん?」
明美が苦笑いを浮かべる。
「あのね、ちょっと現実的に考えよう?」
そのとき、音楽室のドアの向こうから、男子の声が聞こえてきた。
「おつかれさま」
テニス部の練習を終えた生徒たちが、部室に向かう途中らしい。その中に、深雪のクラスメイトである
淳也は音楽室の前を通り過かるとき、少しだけ中を覗いた。深雪と目が合ったような気がしたが、すぐに彼は友だちと一緒に廊下を歩いていってしまう。
「あれ? どうしたの?」
「え? なにが?」
「なんか深雪、顔赤くない?」
「そ、そんなことないよ! ちょっと暑いだけ」
深雪は慌てて手で頬を隠した。
実際のところ、深雪自身もなぜドキドキしたのかよくわからなかった。淳也はクラスでも目立たないタイプの男子で、特別、なにか話をしたことがあるわけでもない。でも、なんとなく、淳也の視線を感じると、心臓の鼓動が少し早くなるのは事実だった。
昇降口で楓が待っているのが見えて、二人で手を振る。
「お待たせ、遅くなってごめんね」
「ううん。楓も今来たところ~」
三人並んで歩きながら、深雪はまた異世界の妄想へと旅立つ。
「それより、やっぱり私、本格的に令嬢のお勉強を始めようかな」
「ん? 令嬢のお勉強? なにそれ?」
「食事のマナーとか、ダンスとか、そういうの。いつか転生したときのために、準備しておくのが未来の令嬢の務めですもの!」
明美と楓は深雪の決意を聞いて、クスクス笑った。
「深雪って、本当に一途だよね」
「でも、がんばって~。楓も応援するから~」
薄暗くなった通学路を歩きながら、深雪は心の中で誓った。
(絶対に諦めない。私はいつか、本当の令嬢になってみせる!)
途中の分かれ道で、明美と楓と別れ、深雪は一人で明日からの『異世界転生計画』を組み立てていた。
まずは基本中の基本、食事のマナーから始めよう。ナイフとフォークの使い方、お茶の飲み方、椅子の座り方……覚えることは山ほどある。
「でも大丈夫。私にはやる気と情熱がありますのよ! 私だっていつか転生するかもしれない。そのときのために準備しておくのが、未来の令嬢の務めなのです!」
歩きながら小さくつぶやく深雪。その横顔には、確かな決意が宿っていた。
家に帰ったら、さっそく令嬢の勉強を始めよう。インターネットで調べれば、きっと参考になる情報が見つかるはずだ。
そんなことを考えながら歩いていると、後ろから聞き覚えのある声がした。
「迫田さん」
振り返ると、淳也が少し離れたところに立っている。
「あ、名取くん……」
「一緒に帰らない? 方向、同じだし」
淳也の提案に、深雪は少しドキッとする。でも、すぐに首を振った。
「ありがとう。でも今日は急いでるから……」
そう言って深雪は小走りで去っていく。淳也はその後ろ姿をじっと見つめていた。彼の表情には、なにかを心配するような影が差している。
最近の深雪の様子が、どこか変だと感じていたのだ。図書室で読んでいる本といい、時々見せる遠い目といい……。
「大丈夫かな……」
淳也は小さくつぶやいて、ゆっくりと歩き始めた。
一方、家路を急ぐ深雪の心は期待に満ちている。今日から始まる令嬢への第一歩。まずは基本的な食事マナーから習得するのだ。
「ふふふ、楽しみ」
夕闇が迫る中、深雪の足取りは軽やかだった。彼女の令嬢への挑戦は、今まさに始まろうとしていた。
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