海月と鳥のカーテンコール
水母すい
一 君は空を翔ぶ
「私、今からここを飛び降ります」
彼女に連れられて来た屋上には生温い風が吹いており、柵越しに街の景色を一望することができた。ただしその広大な景色も、この街を嫌う僕にとっては閉鎖的で鬱屈としたものでしかなかったが。
「お好きにどうぞ」
先ほどの小鳥遊さんの宣言に、僕はそう返した。
小鳥遊さんは今後ろ手で柵を掴んでおり、手を離せば校庭へ真っ逆さまという状況だった。要するに飛び降り自殺を図ろうとしているわけだ。なぜ僕がこんな事態に直面しているのかについては少し考えたが、特にそれを止めようとは思わなかった。
黙り込む僕に、小鳥遊さんが振り向く。
「止めないんですか?」
「逆に訊くけど、止めて欲しいの?」
「いえ、まったく。ただ……
それなら尚更どうして僕を連れて来たんだ、と思った。
小鳥遊さんはたまにこうして僕を連れて行動を起こすことがあるが、そのほとんどには特に理由がない。僕がそこにいる意味もなければ、彼女が僕を選ぶ必然性もない。ただ気づけば、僕たちは自然と一緒にいる。それはそれである意味での必然と言えるのかもしれない。
そもそもの話、小鳥遊さんと僕は友達ではない。もちろん、恋人でも親族でもない。あえて僕と彼女の共通点を挙げるとすれば、高校でのクラスが同じということくらいだろう。ではなぜそんな僕たちが一緒にいることが多いのかと聞かれたら、答えは単純だ。
小鳥遊さんの誘いを、僕が断らないというだけの話なのだから。
「内海くんって、本当に消極的な人ですよね。自分の意思が希薄というか」
真っ向から人間性を否定され、内心少し傷ついた。
しかし、彼女の批判はどうしようもなく的を射ている。
簡潔に言うと、僕には意思というものがない。
これといってプライドもないし、貫き通したい信念もない。だから人生における選択を迫られたとき、いつも決まって「どちらでもいい」という結論に至ってしまう。自分で選択することを放棄して、最終的には他人の判断に委ねてしまう。それは例えるなら、潮の流れに身を任せて泳ぐ
生まれたときからずっと無意思だったというわけではない。少なくとも幼少期の僕は自分なりに物事を考え、意思を持って選択する人間だった。ただその選択の結果、僕の人生は悪い方向に空回りをし続け、いつしか他人に委ねることが最善だと考えるようになっていったのだ。その意味では僕は、失敗から学んだ人間であると言ってもいい。
「自分の意思で何かを選んだって空回るだけだ。それなら他人の意見に流された方がマシだし、その方が後悔も責任も少なくて済む。今だって小鳥遊さんの自殺を止めることを選んだとしても、あとで『選ばなければよかった』と悔やむことになるかもしれないと思ってる」
「なるほど。要するに、内海くんは自分で選択する責任から逃げたいというわけですね」
「ああ、逃げたいよ。できるなら何も考えずに生きていたいし、導いてくれる人がいるから迷わずついて行く。もし死んだ後に何かに生まれ変われるなら、来世は
そう一息に言い切って、僕は小鳥遊さんの言葉を待った。彼女は依然として柵から手を離していない。飛び降りる勇気がないと言うよりは、僕との会話のほうに興味を見出しているようにも見えた。
温かい日差しの下、どこかで鳥が鳴く。
そして小鳥遊さんは不意にこう言った。
「じゃあ、私は鳥になりたいです」
いきなり何を言い出すんだと一瞬思ったが、文脈的に僕のした来世の話に乗っかっての発言ということはすぐにわかった。真っ直ぐに青い空を見据えたまま、小鳥遊さんは言葉を接ぐ。
「今すぐにでも鳥になって、この最悪な人生から逃げ出したいです。バイトからも母親からもこの街からも……私の人生に付けられた枷をすべてぶち壊して、自由にこの空を飛び回りたい。もしそれが叶うなら、こんな命喜んで捨ててやります」
今から死のうとしている人間の言葉にしては、それは妙に説得力があるように感じた。おそらく彼女にとって鳥は自由の象徴であり、この広い空は憧れの対象なのだ。そう考えると、柵の向こうに立つ小鳥遊さんの姿は、果てしない空へ飛び立つことを夢見る雛鳥のようにも見えてくる。ただ、それでも震えながら柵を掴み続ける小鳥遊さんの右腕にはまた、青黒い痣が増えていた。
彼女、
その大元の原因は彼女の母の現在の恋人にあると聞いた気がするが、詳しくは僕も知らない。ただ、それでも彼女は自分だけの自由を勝ち取るためにバイトを続け、親元からの自立を目指しているのだという。他者に依存してばかりの僕とはえらい違いだ。
心根の強い彼女の生き様を見ていると、本当に死ぬべきは僕なんじゃないかと思えてくる。
「小鳥遊さんは名前の中に鳥がいるくらいだから、多分なれると思うよ。神様がよほど意地悪じゃなければ」
「それはどうも。でも私、こんな苗字なのに周りに『鷹』が多すぎて全然遊んでいられないんですよね。小鳥遊失格です」
よくもまあそんな体勢で冗談を言う余裕があるものだ、と半ば感心してしまう。しかしそれは裏を返せばこの飛び降り自体も冗談であるということにもなりかねないが、彼女の決心のほどは未だ掴めないままだった。
もし本当に強く死を望んでいるのなら、他者からの妨害を受けないように一人で実行しそうなものだ。しかしそれもまた裏を返せば、「内海ならば妨害をしてくることもないだろう」という信頼からくるものかもしれない。どの道、小鳥遊さんがここに僕を連れて来たのは何かしら意味がありそうだ。
「それで、今日は本当に死ぬつもり?」
柵に背を預けたまま、僕は思いきって訊ねてみた。
小鳥遊さんは一度こちらに振り向くと、少し間を置いてから口を開く。
「正直なところ、今回のこれは興味本位ですね。こうして一度死の淵に立ってみることで、自分が今どれだけ本気で生きようとしているのかわかるんじゃないかと思ったので。それと……私の行動に対して、内海くんがどんな反応をするのか見てみたかったというのもあります」
「そう。じゃあこれで満足した?」
「はい。思ったよりもつまらない反応でした」
連れてこられた上に文句まで言われて少し不服だったが、彼女にその気がないことを知って安心している自分がいた。それも単に、本当に小鳥遊さんが飛び降りたら一緒にいた僕の責任が問われるから、と言ったらそれまでだが。
「気が済んだなら戻ろう。誰か来たら面倒だ」
「内海くんでも面倒事は避けたいんですね」
からかうように小鳥遊さんは微笑み、表情を弛緩させる。もしかすると彼女は本当に、僕に自殺まがいの行為を止めてほしかっただけなのかもしれない。柵の上部に手をかけ、小鳥遊さんはまたそれをよじ登ろうとしていた。
そして丁度その時——近くに停まっていたカラスが鳴き声を上げ、飛び立った。
「わっ——」
柵を掴む小鳥遊さんの手を離させたのは、僕との会話で生まれた気の緩みか、はたまた単なる恐怖心か。どちらにせよ彼女の体はバランスを失い、宙空に投げ出された。それはほんの一瞬の出来事だった。
小鳥遊さんが飛び降りる。落ちて、死ぬ。
その結果自体、さっきまで全く深刻に考えていなかった。本当に本心から勝手にしてくれとさえ思っていた。けれど僕はその瞬間、まるで見えない何かに突き動かされたように必死で手を伸ばしていた。
柵越しに、僕の手が小鳥遊さんの腕を掴む。
彼女は本気で驚いたように、青ざめた顔で僕をみていた。
「馬鹿だよ、君は」
お互い心拍が落ち着いてきたあたりで、僕は言った。
なんとか柵の内側に戻ってきた小鳥遊さんは両膝を抱え、意味もなく足元の一点をじっと見つめている。軽口を叩く余裕もないあたり、さっきの体験は相当応えたのだろう。
「そうですね。私は大馬鹿です」
やっとのことで小鳥遊さんはその一言を絞り出した。
そしてすぐ僕の方を向いて、言葉を続けた。
「でも、さっきの内海くんもらしくないです。内海くんのあんなに焦った顔、私はじめて見ました。やっぱり自分の前で人が死ぬのは嫌だったんですか?」
「助けてもらっておいて出る言葉がそれなのか……」
「お礼が欲しいなら、言ってくれれば考えます。でも今は少し、内海くんの行動に驚くだけの時間がほしくて。クラゲになりたいだの何だの言っていたあの内海くんが、まさか私を助けることを選ぶとは思ってませんでしたから」
小鳥遊さんの驚きは、実のところ僕の驚きでもあった。
あれほどまでに全てにおいて無関心で無意思だった僕が、小鳥遊さんを助けるために行動を起こすなんて思ってもいなかった。「死んで鳥になりたいと願っているのなら、好きにさせればいい」とさえ思っていた僕が。
選択の責任から逃げたいと思いながらも、僕はまた自分で選んでしまった。この選択の結果、先に何が待っているのかすらもよく考えずに。反射的に、本能的に、例外的に、責任を背負うことを選んだ。
「僕は多分、
「人間なんて、みんな本当はそんなものですよ。内海くんも普通の一貫性のない人間だったということです」
一貫性のない人間。
そんな言葉は、すんなりと僕の体に馴染んでいった。僕も僕で、無意思を貫き通せるような異常性は持ち合わせていなかったということだ。
「……けど私は、内海くんはクラゲになれると思ってます」
その場から立ち上がり、小鳥遊さんは言った。どうしてそう思うんだ——という僕の視線での問いかけに応じるように、彼女はこちらに振り向いて答える。
「あなたの名前にも、
唐突にフルネームで呼ばれ、少しどきりとした。
変な理屈だ、と一瞬思ったが、それは先ほどの僕の言葉をなぞったものだと気づいてさらに可笑しくなった。一人笑みを浮かべたことを訝しがられつつ、僕は小鳥遊さんに続いて教室に戻っていく。
小鳥遊さんが翔ぼうとした空は、まだ青く澄み渡っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます