第四章「魂の入れ替わり」
真夜中の神社は、静寂に包まれていた。
偽物は、母親と化した異形の存在を伴って、古い鏡の前に立っていた。その鏡は、五十年前に影たちを封印したものだ。表面には、剥がれかけた札が何枚も貼られている。
「懐かしいわね」
偽物の声が、闇に響く。その口元が、人の限界を超えて裂けていく。
「ここで、全てが始まった」
鏡の世界で、鏡子は自分の体の変容を感じていた。手足が異常に伸び、関節が逆方向に曲がり、顔が歪んでいく。周囲では、影たちが渦を巻いている。
「もう逃げられないわ」
着物の影が告げる。その声は、無数の悲鳴が重なったように聞こえる。
「あなたの魂は、もう私たちのもの」
影たちの渦が、さらに激しくなる。その中で、鏡子は自分の意識が薄れていくのを感じた。代わりに、別の意識が浸透してくる。何千という魂の記憶。影たちの苦痛と怨念。
外の世界で、偽物が古い札を一枚ずつ剥がしていく。その度に、鏡の表面が黒く濁っていった。
「さあ、本当の姿を見せてあげる」
最後の札を剥がした瞬間、鏡の表面が完全な闇に染まる。その闇から、無数の手が伸び出してきた。歪んだ指、折れた関節、異常に長い腕。それらは全て、かつて人だった存在の残骸。
母親の姿をした異形の存在が、さらに大きく歪む。その体が溶けるように広がり、鏡の周囲を覆っていく。無数の顔が浮かび上がっては消え、手足が増殖しては溶解する。
「これが、私たちの真の力」
偽物の声が変質していく。もはや鏡子の声ではない。古く、そして底知れない何かの声。
鏡の中で、影たちの渦が臨界点に達していた。その中心で、鏡子の意識が完全に溶解しようとしている。
「いいえ...」
鏡子の意識が、かろうじて抵抗する。しかし、その声は既に人のものではなかった。幾重にも重なり合った音。まるで、無数の存在が同時に話しているかのよう。
「抵抗しても無駄よ」
着物の影が近づく。その姿は、もはや着物の形すら留めていない。無数の顔を持つ黒い塊。それぞれの顔が、別々の時代の記憶を映し出している。
「あなたの中に、私たちの全てが溶け込んでいく」
影たちの渦が、鏡子の体を貫いていく。その度に、新たな記憶が意識に流れ込む。
明治時代、新しい鏡に閉じ込められた老女の記憶。
大正時代、デパートの大鏡で魂を奪われた少女の記憶。
昭和初期、化粧台で異界に引きずり込まれた女性の記憶。
そして、現代に至るまでの無数の犠牲者たち。
それぞれの記憶が、鏡子の意識を侵食していく。自分が誰なのか、どこにいるのか、そんな基本的な認識さえ薄れていく。
外の世界では、偽物が鏡の前で両手を広げていた。その体から、黒い影が波打つように広がっていく。床を這い、壁を這い上がり、やがて神社全体を覆いつくしていく。
「見て」
偽物が笑う。その笑みは、もはや人の形を超えている。頬が裂け、顎が外れ、目が増殖していく。
「この世界も、すぐに私たちのものになる」
母親の姿をした存在が、さらに大きく歪む。その体が溶けるように広がり、神社の柱に絡みついていく。触れた場所から、木材が腐食したように黒く変色していく。
鏡の表面が、さらに濃い闇に染まる。そこから伸びる無数の手が、現実世界のものを掴んでいく。木々、石、空気そのものまでも。触れたものは全て、影の一部となっていく。
鏡子の意識の中で、最後の抵抗が行われていた。
かつて自分だった何かが、必死に記憶にしがみつく。母との思い出、日常の断片、自分という存在の核。しかし、それらは次々と闇に飲み込まれていく。
「もう、戻れないの?」
その問いかけに、影たちが応える。無数の声が重なり合い、神社全体が振動するような音。
「戻るべき場所なんて、もうないのよ」
視界が歪み始める。現実と鏡の世界の境界が、完全に崩壊しようとしていた。そこには、新たな世界が生まれようとしている。影たちの世界。永遠の闇の世界。
「私たちの世界へ、ようこそ」
着物の影が告げる。その声に合わせて、鏡子の最後の意識が溶解していく。
そして―
突如、異変が起きた。
神社の奥から、鈴の音が響く。清らかで、しかし底知れない力を秘めた音色。
「まさか...」
偽物の表情が、初めて歪んだ。恐れの感情が、その歪んだ顔に浮かぶ。
鏡の向こうで、影たちの渦が乱れ始めた。無数の悲鳴が重なり合う。苦痛に満ちた叫び。そして...
鈴の音が、闇を切り裂くように響く。
「あの音...」
偽物の顔から、笑みが消えた。その代わりに、底知れない恐怖の色が浮かぶ。
影たちの渦が、さらに激しく乱れる。無数の悲鳴が重なり合い、神社全体が振動するような轟音となる。黒い影が、まるで苦痛に身もだえるように蠢く。
「来ないで...!」
母親の姿をした異形の存在が、柱から離れようとする。しかし遅かった。
神社の奥から、一人の老巫女が歩み出てきた。その手には、古びた鈴を持っている。
「よくぞ戻ってきたな」
老巫女の声は、静かでありながら、底知れない力を秘めていた。
「お前たちの封印を解くとは」
鈴が再び鳴る。その音が、影たちを押し戻すように響く。
鏡の中で、溶解しかけていた鏡子の意識が、かすかに動く。その音が、記憶を呼び覚ましていく。
五歳の誕生日。神社で出会った巫女。そして、鈴の音。
「覚えているか?」
老巫女の声が、鏡子の意識に直接響く。
「あの日、お前は選ばれた。私たちの力を継ぐ者として」
「選ばれた...?」
鏡子の声が、かろうじて人の声を取り戻す。
「そう。影たちを封じる力を持つ血筋として」
老巫女が一歩前に出る。その姿は、徐々に光を帯びていく。
「だが、影たちはそれを恐れた。お前の力が目覚める前に、魂を奪おうとした」
偽物が後ずさる。その体が、徐々に本来の姿を現し始める。無数の顔を持つ、古い影の集合体。人の形を模しているが、どこか致命的に間違っている存在。
「私たちは...私たちは...」
影たちの声が、混乱に満ちている。
「お前たちの時代は終わった」
老巫女が鈴を振る。その音が、影たちを切り裂くように響く。
「人々の闇を映し出す鏡として存在していた時代は、もう過ぎ去った」
神社全体が、鈴の音に共鳴するように震える。
「人工の鏡に歪められ、怨念となったお前たちを、今ここで」
老巫女の声が、より強く響く。
「浄化する」
最後の鈴の音が鳴り響く。
その瞬間、世界が光に包まれた。影たちの悲鳴が、神社中に響き渡る。偽物の体が、まるでろうそくの炎のように揺らめき始める。
「いや...私たちは...まだ...」
しかし、その声は既に虚ろだった。
光の中で、鏡子の意識が徐々に自分を取り戻していく。影たちの記憶が、一つずつ剥がれ落ちていく。そして...
光の渦の中で、影たちの形が崩れていく。
無数の顔を持つ存在たちが、まるでガラスが砕けるように粉々になっていく。その破片の一つ一つに、かつての記憶が映り込んでいる。明治、大正、昭和、そして現代。様々な時代に集められた魂の断片。
「解放してあげましょう」
老巫女の声が、優しく響く。
鈴の音が、より清らかに鳴り響く。その音色に導かれるように、影たちの中から光の粒が浮かび上がり始める。それは人々の本来の魂。影たちに歪められる前の、純粋な光。
「ああ...」
母親の姿をした存在から、最初の光が放たれる。それは温かく、懐かしい光。鏡子の記憶の中にある、本来の母の姿そのもの。
次々と、影たちから光が解き放たれていく。その度に、神社の闇が薄れていく。
「お前たちの苦しみも、今ここで終わりにしよう」
老巫女の言葉に、偽物の体が大きく揺らぐ。その形が完全に崩れ、中から無数の光の粒が溢れ出す。解放された魂たちが、天に向かって昇っていく。
しかし—
突如、異変が起きた。
光の中から、一筋の濃い影が蠢く。それは影たちの中で最も古い存在。着物の影が、最後の抵抗を試みる。
「まだ...終わらない...」
その声は、もはや人の声ではなかった。何千年もの闇が凝縮したような音。
「私たちの怨念は...永遠に...」
着物の影が、鏡子に向かって伸びる。その手が、光を貫いて彼女の魂に触れようとする。
「だめ!」
老巫女が、最後の鈴を鳴らす。
その瞬間、鏡子の中で何かが目覚めた。
代々受け継がれてきた血の記憶。影たちを封じる力。それは彼女の魂の奥深くに、ずっと眠っていた。
「私は...」
鏡子の声が、清らかに響く。
「あなたたちを、救ってあげる」
その言葉と共に、鏡子の体から純粋な光が放たれる。それは影を払うのではなく、包み込むような温かな光。
「な...なぜ...」
着物の影の声が、混乱に満ちている。
「憎しみではなく、慈しみの力で」
老巫女が静かに告げる。
「それが、真の浄化」
最後の光が、着物の影を包み込む。その瞬間、影の中から一粒の光が生まれた。それは、かつて巫女だった魂の光。
全ての影が光に変わり、天に昇っていく。
神社に、静寂が戻る。
しかし、その静寂は完全ではなかった。
鏡の奥深く、まだ何かが潜んでいる。より古く、より強い何か。
老巫女は、それを感じ取っていた。
「まだ終わりではない」
その言葉が、夜明け前の闇に響く。
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