『鏡の檻で眠る女』
ソコニ
第一章「映り込む影」
プロローグ 「映り込む瞳」
全ての始まりは、一枚の古い写真だった。
埃を被った段ボールの中から出てきたそれは、二十三年前の記念写真。神社の境内で撮られた、私の五歳の誕生日の一枚。両親と笑顔で写る幼い私の後ろに、大きな鏡が写り込んでいる。
初めはそれだけの写真だと思った。
しかし、よく見ると気づく。鏡の中の私は、カメラの方を向いていない。真っ直ぐこちらを見つめている。そして、その瞳の奥に、何か別のものが映り込んでいる。
私は写真を手放すことができなくなった。夜な夜な、鏡の中の自分の瞳を覗き込む。その度に、瞳の中の景色が少しずつ変わっていく。まるで、何かを見せたがっているかのように。
そして、ある夜のこと。
私は気づいてしまった。鏡の中の私が、本当は"私"ではないということに。
第一章「映り込む影」
鏡子が最初に違和感を覚えたのは、あの深夜の化粧台だった。映り込んだ自分の右手が、わずかにだけ遅れて動いたような気がした。慌てて目を凝らすと、確かに指先が意思を持ったかのように蠢いていた。
「気のせいよ」
そう言い聞かせるように呟いて、鏡子は化粧台から離れた。しかし後ろ髪を引かれるように、もう一度覗き込んでしまう。そこには自分の姿があったはずなのに、なぜか首から下が真っ黒な影のように歪んでいた。
鏡子が息を呑む瞬間、鏡の中の影が不気味な笑みを浮かべた。それは紛れもなく鏡子自身の顔なのに、どこか邪悪な意思を感じさせる表情だった。
「やっと気づいてくれたのね」
鏡の中の自分が口を開く。声は確かに自分のものなのに、どこか冷たく響いた。
「私たちはずっとあなたを待っていたの」
鏡子が後ずさりしようとした瞬間、鏡面から無数の腕が伸び出し、彼女の体を掴んだ。冷たく細い指が首に巻き付き、鏡の中へと引きずり込もうとする。
「いや...!」
悲鳴を上げる間もなく、鏡子の意識は闇の中へと沈んでいった。
*
「きっと夢よ」
朝、目覚めた時にそう思った。しかし、首筋に残る痣が、昨夜の出来事が夢ではなかったことを物語っていた。化粧台の前に立つ勇気が出ない。スマートフォンの画面に映る自分の顔で身だしなみを整えた。
玄関を出ようとした時、階段の踊り場に設置された大きな鏡が目に入る。普段なら何気なく通り過ぎる場所だが、今朝は足が竦んだ。
「おはようございます」
背後から声がして、鏡子は小さく悲鳴を上げた。振り返ると、管理人の藤堂さんが立っていた。いつもは穏やかな表情の老女が、今朝は妙に険しい顔をしている。
「あの...」
「気をつけなさい」
藤堂さんは鏡子の腕を掴み、耳元で囁いた。
「鏡を見過ぎると、魂を奪われますよ」
その言葉に鏡子は背筋が凍る思いがした。藤堂さんは何か言いかけたが、急に口を噤んで階段を下りていった。
会社に着くと、同僚の佐伯が心配そうに声をかけてきた。
「鏡子さん、顔色悪いけど大丈夫?」
「ええ、ちょっと寝不足で...」
デスクに座り、パソコンの画面を立ち上げる。ブラックアウトした画面に、一瞬だけ見知らぬ笑顔が映り込んだ気がした。慌てて目を逸らすと、隣の佐伯が不思議そうな顔で鏡子を見ていた。
「何かあったの?」
「いいえ、何も...」
その時、会議室の呼び出しがあった。立ち上がろうとした瞬間、会議室のガラス窓に映る自分の姿が、こちらを見つめ返しているような錯覚に襲われた。映り込んだ顔が、ゆっくりと歪んだ笑みを浮かべる。
「鏡子さん?」
佐伯の声で我に返った時には、映り込みは普通の影に戻っていた。しかし鏡子には分かっていた。あの化粧台で見た「もう一人の自分」が、確実に近づいてきているということを。
会議室のドアを開けた瞬間、鏡子は凍りついた。壁一面が鏡張りになっている。普段は気にも留めない光景が、今は恐怖そのものに思えた。鏡の中の無数の自分が、全員こちらを見つめている。その中のどれかが、本当の自分ではない何かかもしれない。
会議が始まっても、鏡子の意識は常に背後の鏡に引きつけられていた。ときおり、映り込んだ自分の姿が、誰にも気づかれないように不気味な笑みを浮かべているような気がする。
「鏡子さん、この企画についてどう思いますか?」
上司の質問に慌てて振り向いた時、背後の鏡に映る自分の顔が、こちらを指差して笑っているのが見えた。誰も気づいていない。この恐怖は、自分にしか見えていないのだ。
会議が終わり、鏡子は急いでトイレに駆け込んだ。洗面台の鏡を見ないように必死で目を逸らす。しかし、水を流す音に混ざって、どこからか笑い声が聞こえてくる。恐る恐る鏡を見上げると、そこには自分の顔が、首だけ百八十度回転した状態で映っていた。
「今夜、迎えに行くわ」
鏡の中の自分が囁く。その声は氷のように冷たく、心の奥底まで凍りつかせるものだった。
トイレから出ると、廊下の窓ガラスに無数の影が映り込んでいた。全て鏡子の姿だ。歩くたびに、影たちが少しずつ動きを変える。まるで意思を持った存在のように、彼女の動きを真似ているのだ。
「誰か...誰かいませんか?」
声が震える。返事はない。オフィスフロアには人気がなかった。会議が終わってすぐだったはずなのに、同僚たちの姿が見当たらない。
窓に映る影の一つが、ゆっくりとこちらを振り返った。他の影は依然として前を向いたままだ。振り返った影だけが、鏡子に向かって手を伸ばしてくる。ガラスの向こうから、黒い指が這い出してきた。
鏡子は悲鳴を上げて走り出した。エレベーターに飛び込もうとした瞬間、扉に映る自分の姿と目が合う。その瞬間、映り込んだ姿が口を開いた。
「逃げられないわ」
慌ててエレベーターを避け、非常階段へ向かう。階段を駆け下りながら、手すりに映る自分の姿が増殖していくのが見えた。どの影も歪んだ笑みを浮かべている。
「やめて...やめて!」
必死で目を逸らしながら走り続けた。ようやくビルを出ると、夕暮れの街が目に入る。しかし安堵する間もなく、路上の水たまりや店のショーウィンドウ、車のボディ、至る所に自分の姿が映り込んでいることに気がついた。全ての映り込みが、少しずつ違う動きをしている。
携帯電話が鳴る。画面に母の名前が表示されている。しかし、スクリーンに映る自分の顔が、ゆっくりと歪んだ笑みを浮かべた。電話に出る勇気が出ない。
「もう、終わりにしましょう」
背後から声がして、振り返ると佐伯が立っていた。しかし、その表情は普段の彼女のものではない。鏡の中で見た、あの不気味な笑みを浮かべている。
「あなたも...?」
「私たちは皆、あなたを待っていたの」
佐伯の声が、どこか空虚に響く。彼女の後ろに、次々と人影が現れた。会社の同僚たち、通りすがりの人々、全員が同じ笑みを浮かべている。その瞳は、どこか濁っていた。
「違う...これは現実じゃない...」
鏡子は路地に逃げ込んだ。しかし、路地の奥には大きな鏡が置かれていた。古びた全身鏡。おそらく誰かが捨てていったものだろう。その鏡に映る自分の姿が、ゆっくりと前に歩み出てきた。
「さあ、本当の場所に帰りましょう」
鏡の中の自分が手を差し伸べる。後ろを振り返ると、佐伯たちが路地を埋め尽くしていた。逃げ場はない。
その時、鏡子の記憶の片隅で、何かが蘇った。五歳の頃、古い神社で見た大きな鏡のこと。そして、その鏡に吸い込まれそうになった瞬間のこと。
あの時、確かに誰かが自分を助けてくれた。母だったか、それとも巫女さんだったか。記憶が曖昧だ。しかし、一つだけはっきりと覚えている。鏡の中から聞こえた声が、今の自分とそっくりだったということを。
「思い出したの?」
鏡の中の存在が嘲るように笑う。その姿は、もはや鏡子の完璧なコピーではなかった。顔は歪み、首は不自然な角度に曲がり、指は異常に長く伸びている。
「あの時、あなたは逃げた。でも、今度は違う」
路地の入り口を埋め尽くす人々が、ゆっくりと近づいてくる。全員の顔が、徐々に歪んでいく。人の形を留めているのは、輪郭だけだった。
記憶が途切れた瞬間、鏡の中の存在が腕を伸ばし、鏡子の首を掴んだ。冷たい感触が、徐々に体中に広がっていく。まるで、魂が凍りついていくような感覚。
「お帰りなさい」
意識が遠のく中、鏡子は気づいた。自分はずっと、何かに騙されていたのだと。しかし、それが何なのか理解する前に、世界が闇に包まれた。
*
目を覚ますと、鏡子は自分の部屋のベッドで横たわっていた。夜が明けている。慌てて起き上がり、部屋の様子を確認する。全てが普通だった。
「夢...だったの?」
安堵の息をつきながら、習慣的に化粧台の前に座る。そこで、鏡子は凍りついた。鏡に映る自分の姿が、艶やかな笑みを浮かべている。しかし、鏡子自身は笑っていなかった。
「これで私の番よ」
鏡の中の自分がそう言った瞬間、鏡子の体が動かなくなった。ただ、目だけは動く。鏡の中の自分が、ゆっくりと実体化していくのが見えた。そして鏡の外に出てきた存在は、鏡子の椅子に座る体を愛おしそうに撫でた。
「二十三年間、ご苦労様。これからは、私が外の世界を楽しませてもらうわ」
鏡の中に閉じ込められた鏡子は、叫ぼうとしても声が出ない。ただ、自分の体を乗っ取った存在が、化粧台から立ち上がり、颯爽と会社に向かう支度を始めるのを、永遠に見つめることしかできなかった。
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