暗号倶楽部と嘆きのパズル

ばんぶう

第1話 持ち込まれた依頼

薄暗い部室の窓から差し込む夕陽が、茜色の光を机の上に落としていた。

霧島葵は古びたデスクに向かい、部活動報告書の最後の一文を書き終えると、静かにPCの電源を落とした。


「よし、これで今日の活動報告は終わり」


葵は疲れた顔に清々しい笑顔を浮かべようとしたが、その瞳の奥には隠しきれない疲労が滲んでいた。

暗号倶楽部のメンバーだった満島沙也加の失踪から既に三ヶ月が経過していた。

幼馴染で沙也加の恋人だった桜井陸は、彼女の突然の失踪に打ちのめされ、部長の座を降りて暗号倶楽部と距離を置くようになっていた。

葵は、陸から半ば無理やり部長の座を引き継がされ、崩壊寸前の暗号倶楽部を支えていた。


窓の外では、まだ熱気を帯びた夏の終わりの風が、少し大きくなってきた銀杏の実を揺らしている。

沙也加が姿を消した春の終わりから、学園は少しずつ色を変えていっている。

だけど、暗号倶楽部に落ちた影は、季節が変わっても消えることはなかった。


「葵、また一人で残ってるの?」


教室の扉が開き、長い黒髪を後ろでまとめ、メガネを掛けた葉月が顔を覗かせた。


彼女は葵と同じ暗号倶楽部のメンバーで、学園でも屈指のリーダーシップと明晰な頭脳を持ち、次期生徒会長選の最有力候補として名前が挙がっていた。


「資料整理してただけだよ」


と葵は言い訳めいた返事をした。


葉月は心配そうに眉を寄せた。


「無理しないでね。私も選挙準備で忙しくなるから、あまり手伝えなくて・・・」


「大丈夫だよ」


葵は微笑んだが、その笑顔が強がりからきているものだと、葉月は見抜いていた。


「落ち着いたらまた顔出すから」


葉月が部室を去ると、再び静寂が戻ってきた。

葵は窓際に立ち、沈む夕日に照らされた校庭を見下ろした。

かつてこの部屋には七人の部員がいた。しかし今、その数は五人に減り、実際に活動しているのは葵と葉月の二人だけだった。



――暗号倶楽部ーー


創立から150年近い歴史を誇る彩雲学園では、毎年「七不思議探検」という伝統行事が催される。これは、生徒会が主催する新入生歓迎イベントで、在校生が学園に伝わる七不思議にちなんだ謎を考案し、新入生たちはグループを組んでその解明に挑む。こうして参加者同士が交流を深めながら、学園を深く知るための催しである。


暗号倶楽部は、もともとこの「七不思議探検」に寄せられる暗号を管理・運営する実行委員会だった。しかし、次第に集まる暗号の中に、単なる謎解きを超え、不可解な符号、奇妙な事件の手がかり、さらには誰にも打ち明けられない秘密までも寄せられるようになった。委員たちはその謎に魅せられて解明に情熱を注ぐようになっていった。


その後、バブル期に卒業生 —地元出身で現世界的企業クォンタリープを創設した元社長らを中心としたグループと言われている— からの多額の支援を受け、正式に「暗号倶楽部」として独立。OBたちは運営ルールや規律の策定にも深く関与し、学園の伝統と現代の感性が融合した独自のルールが作られた。以来、暗号倶楽部は学園の表舞台から姿を消し、静かに、しかし着実にその活動を続けてきた。


暗号倶楽部の存在を知る者はごく僅かで、メンバーは定められた7名(通常は特待生2名と一般生徒5名)で構成される。彼らは単なる成績や推薦ではなく、いわゆるギフテッド —普通の生徒にはない特殊な才能を持つ者たち— の中から選ばれる。

卒業する部員は自身の経験と見識をもとに次の候補者を選び、象徴として部室の鍵を託す。

鍵を受け継いだ者だけが、旧校舎奥の部室の鍵を開き、その先に隠された秘密の部屋へと足を踏み入れることが許される。


この隠された空間で、暗号倶楽部は学園に渦巻く数々の謎や、生徒たちの運命を左右する真実を、静かにしかし確実に解き明かしてきた。


――



葵は沙也加が失踪する前にくれたペンダントを、物思いに耽りながら見つめていた。

その輝きの中に、沙也加の澄んだ笑顔が鮮やかに蘇る。


天才的頭脳を持つ特待生だった満島沙也加と桜井陸の二人は、暗号倶楽部活動を通じて自然と惹かれ合い、やがて恋人同士となった。

葵は幼い頃から陸に想いを寄せていたが、同時に沙也加への深い友情も抱いていた。


「沙也加なら仕方ない」葵はそう自分に言い聞かせ、二人の関係を祝福していた。


それなのに — あの日を境に、すべてが一変した。


沙也加は何の予兆もなく姿を消した。

残されたのは、解読できない不可解な暗号と、埋められない喪失感だけだった。



窓の外では、新しい風が木々を揺らし始めていた。

沈みゆく夕陽が葵の細い背中に長い影を落とし、その輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。


葵の思考は、部室の扉が控えめにノックされた音で中断された。


「失礼します。霧島葵さんはこちらですか?」


ドアの向こうから聞こえる声は、柔らかいながらも芯のある響きを持っていた。

葵は、本来誰も知らないはずの暗号倶楽部の部室の場所と自分の名前を呼ばれ、一瞬身構えた。


「どちら様ですか?」


葵はドアに近づきながら応じた。


「葉山蓮と申します。選挙管理委員をしています。」


生徒会関係者だとわかり、葵は安堵の息を吐きながらドアを開けた。


ドアの向こうに立っていたのは、見知らぬ男子生徒だった。

すらりとした細身で一見女性かと思うような整った顔立ち、そして何より印象的だったのはその凛とした碧眼。制服の着こなし方や立ち姿にも洗練された雰囲気が漂っていた。


「ああ、これが例の転校生か・・・」葵は心のなかでつぶやいた。


夏休み明けの中途半端な時期に特待生として転入してきた彼は、そのミステリアスな雰囲気も相まって学園内で密かな話題になっていた。不思議と他の生徒たちから距離を置かれているようにも見えたが、それは彼自身が人との関わりを避けているようにも思えた。


「学園長からの書簡です。お読みください」


そう言うと、彼は学園長の印が鮮やかに押された封書を差し出した。葵が受け取ると、彼は軽く一礼し、立ち去ろうとした。


「待って」


葵は思わず声をかけた。


「なぜ学園長が?」


蓮は僅かに振り返り、


「それは僕にはわかりませんので、中身を確認してください」


と葵の言葉を遮るように言うと、廊下の薄暗がりへと消えていった。

その姿は、まるで影絵のように儚く見えた。


葵は「なぜ学園長があなたを使いとしてよこしたのか」と尋ねるつもりだったが、蓮は意図的に質問をはぐらかしたようにも思えた。単なる誤解か、それとも何か隠し事があるのか、葵には判断できなかった。


葵は揺れる思考を抑えながら、封を切った。中には、学園長の署名入り書簡と、一枚の写真が収められていた。


---


暗号倶楽部へ


 現在、本学園内で奇妙な現象が発生していることはご存知だろう。生徒会選挙に合わせるかのように、学園内の様々な場所で未完成の数式が突如浮かび上がる現象が確認されている。


 一部の生徒たちの間で学園の七不思議にあやかって「嘆きのパズル」と呼ばれ、生徒会や学園に関わる不正の証拠を訴えたものではないかという噂がSNS上で広がりつつある。事態を重く見た私は、貴倶楽部の知見を借りたいと考えている。


 懸念しているのは、これらの数式が単なるいたずらではなく、何らかの暗号メッセージである可能性だ。その場合、6月に発生した満島沙也加の失踪事件との関連性も否定できないと考えている。


 貴倶楽部の知識をもって、この事態の解明に協力願いたい。生徒の安全を第一に考え、この件は極秘裏に進めてほしい。 


学園長 神宮 貴一郎


-—


葵が同封されていた写真を手に取る。

写真は学園内で発見された数式の一部を撮影したものだった。

そこには薄暗い中で青白く輝く不完全な数式や文章の断片が写っていた。

写真を裏返すと、


”特殊な光で文字が浮かび上がるものがある”


と走り書きがされていた。


葵は、なぜ書簡にこの重要な情報が含まれていないのだろうとぼんやり思いながら、じっと写真を見つめていた。すると、この浮かび上がっている数式と文字列がどこかで見たような感覚が湧き上がってきた。突然、葵はハッとした。


「これ、沙也加が失踪する直前に取り組んでいた暗号に似ている気がする・・・」


葵には特殊な能力があった。見たものを画像として完全記憶できる能力だ。過去の記憶を頭の中で検索し、照らし合わせると、葵はさらに確信を強めた。


「似てる・・・いや、ほぼ同じ?・・・まさか・・・」


葵の脳裏を、沙也加の最後の言葉が駆け巡った。


「私、面白いものを見つけたの。この学園に隠された秘密かもしれない・・・解明できたら教えてあげるね」


その翌日、沙也加は姿を消した。


そして今、目の前には似たような暗号が・・・。

偶然とは思えなかった。


葵は窓の外を見た。校庭には選挙ポスターが並び、葉月の笑顔が風に揺れていた。


生徒会選挙、暗号、そして沙也加の失踪・・・


すべてが繋がっているような気がした。


「沙也加・・・あなた何を見つけたの?」


葵は決意を固めた。

暗号倶楽部を再び活性化させ、この謎を解き明かさなければならない。

そのためには、まず陸の力が必要だった。


彼女はスマホを取り出し、長らく暗号倶楽部から遠ざかっている幼なじみの桜井陸に、メッセージを送った。


「陸、話があるの。沙也加のことで・・・新しい手がかりがあるかもしれない」


送信ボタンを押した瞬間、部室の電灯が一瞬ちらついた。

葵は不安を感じながらも、窓の外に広がる夕闇の空を見上げた。


どこかで、沙也加は生きているはずだ。

そして、彼女は何かを私たちに伝えようとしている——。


葵はその確信を胸に、再び写真を見つめた。

薄暗い写真の中で、青白く光る数式の断片が、まるで誰かの叫びのように見えた。

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