廊下

 こんなことがあった。

 深夜。自宅で動画を見ていたら、急に炭酸が飲みたくなった。冷蔵庫を開けてみたが、そもそも飲み物が何一つない。買い置きを切らしていた。ここしばらく、仕事帰りに買い物にいく余裕がなく、配送を頼もうと思っていたのに忘れていたのだ。近くの自動販売機に行こう。ため息をつきながら玄関へ向かう。

 靴を履きながら玄関の鍵を開け、ドアノブを掴んで押し込もうとしたが、やけに重たくて開かない。そういえば換気扇を回しっぱなしだ。また靴を履き直すのが面倒で、悩んだ末に左足だけ脱いで、けんけんの状態で進む。下の階からクレームが来ないように、太ももの付け根、膝、足首で衝撃を殺す。着地一発目から、見事な無音。我ながら上手すぎるのではないか、などと自画自賛した。普段褒められることが少ないと、こういった人間になってしまうのかもしれない。

 ようやく玄関まで戻ってきて、結局、靴を履き直すよりも倍以上の時間をかけたのではと気づいて笑えた。玄関の縁にで座り込んで靴を履き直す。少し息が上がっていて、無駄な時間を過ごしたという変な脱力感に襲われた。思わず後ろに両手をついて天を仰ぐ。

「ん…?」

 視線の先で、チラチラと、何かが光って見えた。しばらく見ていると、ふと暗くなり、またしばらくすると、明るくなる。ドアに取り付けられた覗き窓から入る小さな光が、ゆっくりと点滅しているように見えた。

 共用廊下の蛍光灯がチラついているのだろうか。確か前から切れかけていた気もする。大家に言えば交換してもらえるだろうが、自分では連絡するのが面倒だ。他の住人もそうだろう。きっと完全に切れるまで、もしかしたら切れてしまっても、蛍光灯が新しくなることはないのかもしれない。

 この時間に他の住人と鉢合わせても気まずいと思い、ドアスコープから廊下を覗き込んだ。

 この部屋は、マンションの入り口側からすると一番奥にあり、廊下の出入り口とちょうど正対する位置にある。覗き込むと、廊下が全て見通せる。やはり照明がチカチカと細かく明滅を繰り返しており、右手側に各部屋の扉が並んでいるのが見えた。その明かりの中で、ちょうど誰かの黒い影が廊下の奥へと歩いていくのが見えた。

 タイミングが悪い。人影は、一番入り口側の突き当たりの部屋の前に立ったのが見えた。部屋に入るのを見届けたら出ようと思い、そのまま様子を伺う。だが、何故かドアの前で立ち止まったまま微動だにしない。

 鍵でも取り出しているのだろうか。そのまま見ていると、影がゆっくりともたれかかるように、ドアに両手をつけ、そのまま静かに左耳をつけてドアにぴったりと張り付いた。こちら側に顔が見えた瞬間、身体が固まってしまった。

 遠目でもわかるほど、異様に細いのがわかる。よく見れば、身を屈めるようにドアにくっついている。身体を伸ばしたら二メートルを悠に超えるのではないだろうか。そのがりがりの顔に不釣り合いなほど大きな目が、まったく瞬きをせず、二つ並んでいた。のっぺりとした質感で、鼻があるべき場所には何もない。そして顔の下半分には、耳まで裂けたように見えるほど大きく開かれた口があり、真っ赤な口内がてらてらと光っていた。笑っていた。

 首の後ろの肌がぷつぷつと泡立つのを感じる。あれは、見てはいけないものだ。そう思いながらも目を離すことができない。

 少し身を離して、影がドアに向き直り、ドアスコープの辺りに目をくっつけた。それからドアノブを掴んで、ゆっくりと下ろすのが見えた。思わず声が漏れそうになるのを堪える。

 しばらくそうしていたかと思うと、また静かにドアから離れ、こちら側を向いて進み始めた。そのまま隣の部屋の前に立つと、先ほどと同じようにぴったりとくっつく。同じようにドアノブを掴んで下ろす。開けようとしている。

 それに気づいた瞬間、心臓がどくどくと脈打つのを感じた。影は、また次の部屋の前に移動している。いつの間にか力が入って、冷えてがちがちに固まってしまっていた指先を無理やり動かして、音を立てないよう、祈るように鍵を締めた。脚に力が入らない。なんとか這って部屋に戻ろうとした時、ふっとドアスコープの明かりが消えた。そして、ドアノブが静かに、ゆっくりと動くのが見えた。

 息が止まる。何かを確かめるように、ドアノブがゆっくりと二回、三回と動いて、また元の位置に戻った。それから少しして、またドアスコープから微かな明かりが漏れてきて、ようやく息を吐くことができた。力が抜けてしまって、そのまま十分ほど座り込んでいた。

 あれからまったく覗き窓には変化がない。さすがにいなくなっただろう。少しほっとした。あれはなんだったのだろうか。立ち上がり、もう一度覗き込む。

 視界いっぱいに、大きく見開かれた目が見えた。あの影が、満面の笑みを浮かべ、部屋の目の前に佇んでいた。気づくと、手元のドアノブが動いている。

 自分の喉から、ひゅっと音が鳴ったのがわかった。思わず後ろに倒れ、尻餅をつく。視界の中で、覗き窓がまた暗くなった。ノブが、かちゃかちゃと音を立てて動く。それは、だんだんと動きが速くなっていき、がたがたと乱暴にドアが引っ張られ始め、そして突然、静かになった。終わったのか、諦めたのかと思った瞬間、かちゃん、とかぎが開く音がした。ゆっくりとドアが開いていくのが見えて、思わず叫んだ。それを最後に、ぷっつりと記憶が途切れた。暗闇。


 ハッと目を覚ますと、すっかり朝になっていて、リビングから漏れてくる光が眩しかった。起き上がって周りを見渡すが、特に何かが変わった様子もない。昨夜のことを思い返し、慌ててドアを見たが、鍵はしっかりと掛かっていた。

 疲れすぎて幻覚か、夢でも見たのだろうか。夢の中とはいえ、身体の芯に怖れが残っているような気がして、無理やり笑ってみる。

 喉が渇いた。靴を履いたまま倒れていたことに気づく。このまま自販機で飲み物を買ってこようと思い、玄関を出る。振り返って鍵を掛けようとして、ドアを見て背筋が凍った。

 ドアには、赤黒いような、細長い指で引っ掻いたような跡が残っていた。いた。あの影は、確かにいたのだ。

 すぐに近場でウィークリーマンションを借りて、引越しの手配をした。

 その日以来、あの部屋には一度も戻っていない。

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