夢遊蝶花

しぼりたて柑橘類

青いパンジーと私

 ほんの出来心だった。


 その昔、『桜の木の下には死体が埋まっている』と聞いたことがある。

ならば、青のパンジーの根元には何が埋まっているのだろう。鮮血の赤ですら桜色まで薄まるのに、パンジーの青は薄まってなお藍より青い。根本には花を青々と彩る原液があるに違いない。

 

 ある春の日、好奇心に苛まれた私は庭先のパンジーを前に思考を止めてしまった。毒々しい青に鮮烈する黄のたった一点。シュミラクラ現象すら成立しえない自然の造形が、人の顔に見えてしょうがなかった。好意的に微笑む女の顔ではなく、不満に膨れる男の顔。とりわけ、むさくるしく太った正面の顔に見えてならなかった。これほど醜い花が目の前に存在するのは、大罪なのではなかろうか。次第に体の内からふつふつと湧き上がってきた。そこで、私は閃いた。役得と善行を同時に為す術を。

つぶさに根元を掴む。そしてパンジーを引き上げる。

 

 ずるり、とたやすく抜けたパンジーの根には、イカが絡みついていた。平べったいその形は、確かコウイカだ。のっぺりした胴に、冬虫夏草めいてパンジーが寄生していたのだ。


 なるほど、イカの血を直で吸いあげているのならこの青さも頷ける。薄まることなく顔まで血液が運搬されるのだ。

私は納得すると同時に、安堵した。こんなに青々としているくせに、あの文句のとおり人間が埋まっていたらどうしたものだろうと不安で仕方なかったのだ。人にはこんな冷血は流れていない。

しかし、埋まっていたのはイカだった。胸を撫で下ろしつつひとしきり全体を眺め、満足した。

 

 私は花壇のブロック塀をまな板に見立てて、移植ベラでイカの身をさばいた。イカに罪はないが、上から生える青々したパンジーを二度と生かしてはならない。身を刻み、肝を抜き取り、花弁を念入りにすり潰す。忌々しい花は足先を残して、青いシミになった。


 あとは、細く白い足を残すのみ。手をかけた瞬間、足先がひとりでに持ち上がった。驚いた私は身を引いた。人の指のように二度折れ曲がり、伸縮を続ける。どうやら私の後ろを指しているようだった。


 振り返った先には、無数のパンジーが密集していた。

絨毯のように一面敷き詰められた青い顔の群生が、風にそよいでひしめき合う。

見ているだけで憤死しそうだった私は、次々にそれらを毟っては引きちぎり、何度も足で踏みつける。青臭さが鼻を衝いても、心のざわめきは収まらない。むしろ、さざ波が特定の指向性をもって逆巻き、離岸流と化すが如く。不安は息巻いていた。

なぜこうも波風が立つことがあろうか、私は今良いことをしている。諸悪の根源は着々と数と原型を失っている。ならば私の肩を震わせ、破壊へと向かわせる強い情動はいったい何なのか。


 不安だ。


 この花壇から外れた芝生の下には、無数のイカが埋まっている。きっとそうだ。それ以外あるものか。どうしてこれに気が付かなかったのだろう。真の悪は悪たる顔を覗かせている花ではなく、その根本に埋まるイカではないか。

であればいくら憎い花を切り落とそうが、大量の茎は滋養を吸い取って青々とした大輪を咲かせることだろう。なんとしてでも根絶やしにせねばなるまい。


 私は庭に転がっていたスコップで地面を掘り返した。土まみれのパンジーに連なって、イカの破片が次々に現れる。


 足、腹、甲、頭、目。スコップに触れた先から崩れていっては、千切れた体が地面に散乱していく。なかなかどうしておぞましい。


 常軌を逸する青白い体もそうだが、とりわけ目玉は群を抜いて気味が悪い。転がって横一文字の瞳を私に向けると、したりと言うかのように両端を吊り下げるのだ。この怪生物は仏頂面で顔を出す花と、地面に埋まる薄笑いの軟体動物で一対を成している。実に気色が悪い。


 そうして掘り返した穴の深さが膝丈まで達したころ、スコップの先が固い何かで止まった。イカほど柔らかくもなく、ブロックほどの固さも有していない。思いっきり突けば崩せそうだが、芯のある固さを有していた。どうした訳か、一息に突いてしまうのは躊躇われた。


 スコップの先端でつつきながら、慎重に正体を品定めしていく。粘土にしては固い、木の根にしては柔らかい、幼虫にしては大きすぎ、化石にしては小さすぎる。そして繰り返しつつくうち、全体が柔らかい土の膜で覆われていることに気が付いた。そして膜に奇妙な弾力があった。先程まではその気になれば崩せると踏んでいたが、いくら力を込めてもスコップは刺さらなかったのだ。


 いったい何が埋まっているのだろうか。スコップを持つ手が、好奇心で震える。無性に全貌が知りたくなった。


 私は被さっている土を掘り返した。浮き彫りにするように周りの土を丁寧に寄せていく。すると、固い土が蚕の繭のように固まっているのだと分かった。全長は二メートル前後、本当に人が入りそうな大きさをしていて気味が悪い。しかし全貌が分かったところで、結局何もわからない。つつきまわしても壊れる様子がない。知ろうとするだけ無駄に思われた。


 興味を失った私は、土の蛹が横たわる穴から出ようとした。

ふと、聞こえる。


 湿った固い土を割って、何かが這い出てくる音が。

すかさず振り返ると、土くれの端から青いパンジーが生えていた。そのパンジーは今までに見たどんなパンジーより大きく、瑞々しく、そして太々しかった。


 この土くれの正体は分からない。しかし、たった今明確になったことが一つある。それはこの根元に埋まっているのがこの世で最も不浄で、怨嗟と悪辣の限りを腐敗させた淀みに違いないことだ。でなければ、こうも青く大きなパンジーが咲くものか。

私は忌々しい花にとびかかると、下劣な茎を握り、あらん限りの力で引いた。


 だが、抜ける気配はない。それどころか千切れる兆候すら見せないのだ。どんな下劣な手段を用いたか知らないが、葉の一枚花弁の一かけすら毟れる気配がない。不可解な土くれに凛と咲く花は、いったい何のつもりなのか。無敵の共生関係が、まったくもって許しがたい。


 私はやけになって、汚らわしい土くれに足を引っかけツタを握り直す。そして、力の限り引っ張るのだ。土くれが不壊だとするならば、根ざす花もまた不死。私が共生関係を絶たない限り、悪辣の花は咲き続ける。壊さねばならない、殺さねばなるまい。悪が悪のまま不変でいるなど、許されてなるものか。


 私は全霊をもって、パンジーを引く。手は緩めず、力は弱めず。吐き気がこみあげるほどに。力むあまり息が止まっていることなどお構いなしで、引き続けた。そして膠着してから、いくら経ったかも忘れたころ。足元で妙な動きがあった。土くれの端の方に、亀裂が入っていたのだ。


 私は一心不乱に茎を引っ張った。前後に、左右に揺らし亀裂を広げてゆく。粘土質の殻がみるみるひび割れていった。土に埋まっていた茎の先が露わになっていく。土をかぶっていた緑の茎が長々と続いている。


 さすがに不自然なほどに長い茎だ。いったいどこまで続いているのか、見当もつかない。この蔓が延々と土くれの中で続いていて、消化管のようにとぐろを巻いているのではないかとすら思う。そう思わせるほど、パンジーは強固に根を張っていた。

私は根元がどうなるのかが気になってきたが、同時に暴いてはならないような気もしてきた。土くれの中身に忌々しさを感じるからではない、何故か開けること自体にタブーを感じるのだ。言われた記憶はさっぱりないが、繰り返し約束させられていたかのように開けてはならない気がしてくる。


 私はパンジーの前に正座して、数秒ほどその太い根元を見つめた。決して割れない土くれの蛹を、内側から穿って割り出た直径二センチの茎。生き汚さを裏打ちする何かが、この根元にあるとしか考えられない。しかし斯様にもおぞましいものなど私には見当がつかない。無性に、好奇心がわいた。


 私は、土くれの裂け目に恐る恐る指を差し入れる。第二関節まで入ったところで、指先が何かに触れた。表面はビロードのように滑らかで、なぞると突っ張る感触だ。その感触を、私の指先は覚えていた。腹の底から震える感触があった。

覆いをはぎ取りたくて仕方なくなった私は、割れ目に左手を押し込んだ。そしてパンジーの茎を、右手でつかんで上に引く。こうすることで、早く根元が拝めると考えたのだ。思惑のとおり、徐々に割れ目は開き、茎の下の方に光が当たってきた。


 同時に私が感じたのは猛烈な吐き気。舌の付け根に手を突っ込まれているほどだった。パンジーの根本に近づいているからだろうか。絶えず押し寄せて、口の中は悪臭を伴う酸味で満たされる。それでも私は蛹の正体が気になり、どうしてか目を背けられない。耐え難い痺れと痛みを口の中に押しとどめて、私はパンジーの根本を掘った。


 べりっ。と音がして、殻が剥がれる。

ひとたび表皮を剥がれた蛹が、崩壊するまでほんの一瞬だった。

パンジーの根本には、私が埋まっていた。私は眠っているかのように目を閉じていたが、大口を開けて舌を出している。その舌は、茎の下から延びる白く細い根に絡みつかれていた。つまりパンジーの根本に埋まっていた青い血の正体は、おぞましい獣の正体は私だったということか。



 唖然とした私は、私の前で目を開けた。


 私は自分の舌を引っぱりながら、ひとりでに洗面台の鏡の前に立っていたのだ。しばらく固まったまま、掴んでいた舌を見て遅れて理解する。夜半に睡眠薬を飲んだ私の舌は、青かったのだ。


 腑に落ちたついでに蛇口をひねる。雑味と不快感が残る口をすすぎ、流れで顔を洗った。そんなことをしようと目は覚めない。


 だって、洗面所から出てすぐの廊下には青のパンジーが咲き乱れている。まるで青の絨毯のようだ。きっと、このパンジー一輪一輪の根には、コウイカが埋まっているに違いない。壁の中を無数のコウイカが泳いでは、すれ違いざまに光る眼で私を嘲笑している。


 なんて夢のない夢だろうか。

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