空の巣
@katosan
第1話
高校から数百メートル離れた場所にあるコンビニの一角、駐車場に張り付くように設置された簡易な喫煙所、プラスチック製の青いベンチと、灰皿が埋め込まれた腰ほどの高さのテーブル、その周りにスーツの男たちが煙草をくゆらせている。
私は、ベンチから少し離れた灰皿からは離れ過ぎない位置で電子タバコをくわえた。話しかけられたくないが、ルールは守っているという位置取りだった。そんな私をいぶすように、紙タバコをふかす親たちの煙が風に乗って体に当たって消えていく。久しぶりに着た仕事用ではないスーツは埃臭いから、むしろちょうどよい。きつく締めすぎたネクタイを、型崩れを恐れて緩ませられないままいる。私は、長丁場の卒業式を前に「最後の一服」と心の中で唱えた。
「やっぱり寒いなぁ、今日は」一人の男が、ベンチで肩をすぼめながら言った。吐き出した息は寒さと煙でやたらと白い。黒いスーツを着ているから、なおさら白く映えている。
「なんで上着きてないのよ」灰皿の横に立つ男が笑いながら言った。短くなったタバコを大事そうに吸い、すでに緩んでいたネクタイをさらに下げた。
「場所取りで置いてきちゃった」
「あ、ずるっ」二人は息に煙を混ぜて笑った。
私はその会話を左耳で聞きながら、聞こえないふりを続けた。体育館の座席を確保していないことへの動揺も人知れず隠した。
「あら、渡辺さんおはようございます」コンビニから出てきた女は、あいさつをしながら灰皿に向かってきた。朝日を反射するほどきらびやかな着物を身にまとっている。女は電子タバコに真っ赤な唇をつけてスーと音を立てて吸った。
「立花さんすごい着物ですね」ベンチの男が言った。
「当たり前。うちの子、高校出たら就職なのよ。これが最後の卒業式なの。平凡な格好じゃいられないわ、メイクも美容院でやってもらったの。でも、メイクしてもらってる時から泣きそうで、帰りは絶対ダメだわ、見せられない」そう言うと、また込み上げたのか、天を仰いで手のひらで顔を扇いだ。
「家の中からこんな感じなの。別にメイク崩れてもいいのにね、親のための式じゃないんだから」灰皿の横にいる男が呆れた顔をすると、着物の女はその肩を小突いた。
「ははは、まだ泣くには早いですよ。あと夫婦喧嘩やめてください」とベンチの男は乾いた空気に乾いた笑を響かせた。「まあ、子どものための式とは思いつつ、親のためみたいなところもありますよ」
「まあ確かにそうか…」灰皿の横に立つ男が、タバコを軽く指先で弾き、灰を落としながら小さく同意した。
ベンチの男は、反動をつけてひょいと立ち上がり、短くなったタバコを灰皿の端に押し当てた。火が一瞬赤く弾けた。着物の女はその火を見て着物の袖を少し捲った。彼は2本目に火をつけてまたベンチに腰かけた。
冷たい風が定期的に強く吹いていた。その風に乗って飛んできた桜の花びらを、私は革靴の先で訳もなく踏みつけた。
全員がタバコに口をつけたタイミングで一瞬静寂になると、そのまま、きっかけもなく静寂が続き、全員が二吸い目に入った。ベンチの男は、細長く煙を吐きながら缶コーヒーのタブをカチカチと爪で鳴らしている。
タブの音にちらっと視線を向けると、私とベンチの男の目が合った。「しまった」と思ったのもつかの間「卒業式ですか」と男は私に声をかけた。全員の視線が私に集まったのを横目に感じて逃げられないことを悟った。
「…ええ、そうです」思ったよりも喉元に言葉が引っかかった。
男は人影を見つけた鯉のように嬉しそうに口を開けてベンチから背中を離した。「やっぱそうですよね、そうじゃないかなと思ってたんですよ、何組の?」
「えっと…何組だっけな」私は知らないくせに思い出すふりをして、痒くなったうなじを指で掻いた。
「え、忘れないでくださいよ!」男はわざとらしく大げさに言った。「後ろの方のクラスだといいですよね。よく見えていいですよ」
「ああ、そうですか、そうですよね。あまり勝手がわかってなくて」
「行事にあまり参加してこなかったですか?」
「ええ」
「そうですか…じゃあびっくりしますよ、いつの間に大きくなったなぁて絶対思いますから」
「そういうものですか」
「背景が家から学校に変わるだけなのに、妙にそう感じると思いますよ」彼は3つ以上年下に見えるが、得意げに私にそう言った。
子供が大きくなっていることに気が付かないのは毎日会っているからだろう。私の場合、背景が家でも十分に気が付く。私は適当に相づちを打って、視線を落とし、つま先に囚われたままだった桜から足を離した。桜はアスファルトを10cmほど這った後、強めの風に乗ってどこかに飛んで行った。
灰皿の横に立っていた男は、タバコを灰皿に押し付けると、ポケットの小銭を鳴らしながらコンビニの中に入っていった。着物の女は男の腕に体を寄せてその横を付いて行った。
ベンチに座る男は、私がエサをくれないとわかったのか、背もたれに深く座って足を組んでいる。
「実は最近離婚しまして、だから私が卒業式に!」など言えば彼はまた口を開けてこちらに来るだろうか。私は子供だけでなく親たちとの接し方も知らない。
男がタバコの灰を皿に弾いたタイミングで、私は電子タバコを閉まって「じゃあお先に」と言って、できるだけの笑顔を置いて、その場を去った。
『入場』
冷えた体育館にはストーブの唸り声と吹奏楽部のチューニングと親の雑談が交じり合っている。時計はそろそろ開始時間を指そうとしている。スーツについたタバコの匂いをかき消すほどの香水の匂いが親の席に漂っている。
入口で渡された次第には「旅立ちの日」と大きく書かれている。私は次第を折りたたんでポケットに入れ、そのままポケットの中に手を潜らせて太ももで暖を取った。
「卒業生が入場します。拍手でお迎えください」
アナウンスと同時に指揮者が指揮棒を高らかに上げた。演奏が始まると生徒が入場し始めた。指揮者の規則正しいリズムに合わせて演奏は続く。規則正しい2列が親で埋め尽くされた中を、規則正しい歩幅で歩いていく。拍手が起こる中、私はせっかく温まってきた手が名残惜しくてしばらくポケットに手を入れたままその列を見ていた。「ちょっといいですか」と隣の夫婦がカメラを列に向けている間、私は背中を丸めた。
クラスごとに並べられたパイプ椅子にクラスの全員が辿り着くと、タイミングを合わせて座る。ブワッと空気を含んで女子生徒のスカートが膨らんだ。
私は高校の卒業式には出ていない。しかし、あの日の体育館も寒かっただろう。こんなに立派なストーブはなかったと思う。香水の匂いは、もっと粗悪で、匂いよりも香水をつけていることに浸っている大人が多かったんじゃないか、と思う。記憶の輪郭はぼやけている。学校そのものから離れていた。まともに通っていなかった。この会場のすべてが他人事のように感じられる。それでも、ふとした瞬間に結び付く記憶だけはうっとうしいほど鮮明に頭に浮かぶ。
30年前の卒業式当日「そろそろ始まるころか」と布団の中で、私は天井の木目を見ながら思った。病院に行けば病名が付くような状態だったと思う。父を亡くし、母一人の労働で賄われていた家庭に、「なんか体調悪い」という理由で病院に行く習慣はなかった。だから病名は知らない。
母からの期待は、両親以上のものがあった。一人でも育て上げられるというプライドか、それとも父への愛か、未熟だった私には前者にしか感じられなかった。憎たらしいとすら思っていた。その感情に蓋をし続けた結果、知らないうちに脳と体が分離したような感覚になっていった。
「学校に行かなくてもいい」と言ってくれる大人は周りに一人もいなかった。「行きなさい」と言ってくれる人もだんだんといなくなっていった。自分だけが自分を慰めていた。自分以外の温度を感じなくなっていった。布団の中にいないと寒くて仕方がなかった。
卒業式の日、粗悪な香水の匂いで、私は母が枕元に立っていることに気が付いた。私は瞼を震わせながら薄目でそれを見ていた。めかしこんだ母は、やたらと白い顔で私を見ていた。乾いた眼だった。寝たふりを続け布団から出ない私に、母は「行ってきます」と言って、私のいない卒業式に出席した。
その時、最後の一人がいなくなった気がした。もう自分に感情を向けなくなった母に、手放された感覚があったからだ。あの日は、ある意味私にとって旅立ちの日であったことに違いなかった。
最後のクラスの生徒が入場し始めた。すると息子はすぐに顔を出した。まっすぐ自分の向かう椅子の方だけを見ている。他の生徒は、首は動かさず目だけで自分の親を探している。息子はみんなよりも少し早い足取りでまっすぐと進んでいった。
クラスが揃うと一斉に座った。演奏が終わり、体育館にはストーブの音だけが残った。
これが、私の母が見たかった風景なのだろうと、私は息子の背中をじっと見ながら思っていた。
『開会の言葉』
教員の席から小太りの校長が立ち上がり、縁台に向かった。そして、縁台の横に置かれた花の勢いに負けそうになりながら、校長はマイクに口を近づけた。「ええ、これより第51回○○高等学校卒業式を始めます」
拍手が収まると、「校歌合唱」の号令で生徒が一斉に立ち上がり保護者側に振り向いた。指揮者が台に上り、指揮棒を上げると集団は指揮者へと体を向ける。息子は集団から少しずれて、けだるそうに顔を上げた。
指揮棒がキビキビと動き始めると、ピアノの音が軽やかに響き、生徒の分厚い声が体育館を包んだ。「♪青い空に夢を抱き…」
その光景は清潔だった。校歌が、上澄みだけをくみ取ったような、なんの濁りもなく、ただ何の味もしない歌詞だからかもしれない。
ただ、そんな歌でも束になった声に、心動かされ、肩を震わせる親がちらほらとすでに出てきた。
わからない。
ここで泣けば父親らしいか。私に父はいない。正確には、私の記憶に父はいない。父が死んだのは私が2歳の時だ。父がどういう存在なのか知らない。どうしてあげられる存在なのか知らない。手本がない。
私も周りを見習って、視線を膝に落とせば、はたから見れば涙をこらえる父親に見えるだろうか。
なぜだかこの集団の中で、擬態しているかのような、妙な緊張感で脇が濡れてきた。
『卒業証書授与』
私は、気が付けばコンビニにいた。最後のクラスまではまだ時間がある、と思う。青いベンチに座り、電子タバコをくわえた。妙な汗はようやく落ち着いた。この汗のかき方には覚えがある。昔、一度だけ授業参観に行ったことがあった。
個性的な文字が張り付けられた教室の壁際には、子どもの姿を見守る親たちがずらりと並んでいた。微笑みながら手を小さく振る母親たち、やや緊張した表情で腕を組む父親たちの中に、私も混ざり、ぎこちない気持ちで息子の背中を探した。「いたいた」と妻が左端を指さした。その先にはやけに小さく丸まった背中があった。
「出席を取ります」担任が言うと教室は静まって、ア行から点呼が始まった。
「今井あかりさん」
「はい!」
「江島裕さん」
「はい!」
子供たちは手を上げて、リズムよく返事をしていく。
「小田浩平さん」
「はい!」
「笠松美咲さん」
「はい!」
点呼が進んでいくにつれ、教室は何かを待ち望んでいるようにざわつき始めた。
「木山勝さん」
すると男の子が立ち上がって、変なポーズを取った。「はーい元気でーす」
それはとにかく変なポーズで、一瞬しんとした教室が、波のように子供たちの笑いで埋め尽くされた。数人は腹を抱えて机を叩いている。きっとそれはクラスの中で流行っていたポーズで、彼はそのポーズの発案者で、クラスのみんながそのポーズを待っていた。そんな笑い声だった。
先生も注意するそぶりを見せながら笑っていた。ちらちらと親の方を見ながら、クラスの仲睦まじさをどうだと見せつける様な、そんな表情だった。私は息子を憐れむような眼で見てしまっていた。君の背中は、笑い転げる集団の中でさらに小さく丸まっていた。先生は和気あいあいとした雰囲気を悠々と親に見せつけた後、満を持して点呼に戻ろうとしたが、名前を見失ったのか、数秒指で出席簿をなぞった。
「あ、河野航さん」息子の名前が呼ばれた。笑い声の残りかすのような声で呼んだ。私は背筋が痒くなって思わず腕を背中に回した。先生の声が教室に響く。先ほどと打って変わって何の波もたたない。ツンと糸が張っているようだった。返事が返って来ない教室にもう一度息子の名前が響いた。クラス全員の注目が息子に向かい、私は自然と息を止めていた。
息子は「はい」が言えずに、耳を真っ赤にして机に突っ伏した。周囲の大人はざわざわと微笑ましくその様子を見た。子供たちはざわざわと馬鹿にしたようにその様子を見ていた。
「緊張してるのかな…じゃあ次!佐藤里香さん」さきほど得た名声を取りこぼしたくないのか、先生は軽く流して次の名前を呼んだ。先生の顔には一瞬のいら立ちが浮かんだように、私には見えた。
妻は隣の夫婦から話かけられ、少しはにかんで息子の様子を見ていた。しかし、私が教室を出ようとしたときには「どこいくの」と私の腕を強く掴んだ。妻の指は、私の腕に深く入り込んだ。私は「タバコ」と答えて教室を出た。
赤くなった君の耳に、私の過去と君の未来が見えた気がした。
「あら、また会いましたね」喫煙所のベンチに座る私に、今朝、同じところに座っていた男が近づいてくる。胸ポケットからタバコの箱を出しながら男は首で軽く会釈した。私は、会釈し返して席を譲ろうと膝に手を置いた。
「ああ、いっすよ座ってて」男はそういうと灰皿のあるテーブルに肘をついて、タバコに火をつけた。「いやあ、我慢できなかったですか?無理ですよね?僕もですよ」男はタバコをくわえながら言った。私は、まあ、と声と息の中間ぐらいの音を出して同意した。
「時間があったので」と私が言うと男は腕を軽く捲って時計を見た。「うちの子は7組なんで…うちもまだまだなんですよ。どうも退屈でね、あの他人の子が名前呼ばれるだけの時間がね。たまにふざけるやつとかいるでしょ、しょうもない。誰のための式かわかってないんだよなあ」
「そうですね」私は白い息を吐いて軽く笑った。夏の電子タバコの薄い煙よりも迫力のある息が出た。
「今朝も言いましたけどね、僕は、卒業式は親のためにあると思いますよ」
「まあなんとなくわかります」
「本当に思ってます?」
空返事に付け込まれて、私はむせた。
「大丈夫ですか…」
私はむせながら首を縦に振った。顔に血が上って赤くなっているのがわかる。
男は私の顔を見て、何か思い出そうとしていたので、息を整えて「河野です」と言うと「河野さん…」と続けた。「河野さん今までまったく行事参加しなかったんですか?」
「まあほとんど」
「じゃあ奥さんが?」
「そうです」
「じゃあ今日は奥さんと…」
「いや…」口ごもる私の表情を見て、「そうですか…」と彼はすっと引いて、心地のいいほど大人の距離感を保った。彼はタバコを深く吸って、ゆっくりと煙を頬に含ませた。ゆっくりとその煙を口の中で遊ばせた後、煙を出し切るついでのように「うちは妻がようやく来てくれましたよ」と付け加えた。
「え」と聞き返す私に男はニタっと笑って「珍しいでしょ?」とまた大人の距離感を取った。
コンビニの店内音が、扉が開くと漏れ聞こえた。店員が出てきて、外付けのゴミ箱の掃除を始めた。二人はしばらく、ぼうとその様子を眺めていた。風が吹くたびに、薄着の制服を着た店員は肩を震わせ、口を手で覆って息をかけた。ゴミ箱を触った手だということに気が付いたのか、すぐに手を顔から離して、脇の下に挟んだ。
「奥さんも忙しかったんですね」と私が口を開くと、彼は短くなったタバコを大事そうにつまんで口から離し、私に視線を向けた。何か喉元まで押し寄せたのか、喉仏が大きく動いた。が、ニコッと笑って「ですね」と言った。
ゴミを集めていた店員はごみ袋を担いでどこかに消えた。
「そろそろ行った方がよさそうです、妻から連絡来ました」男は言った。私は電子タバコを胸ポケットにしまってベンチから立った。立ち眩む視界が戻るのを、目を閉じて数秒待った。目を開いた時には少し先に行っていた男の後を小走りで追った。
体育館はあたたかく酸素の薄い場所になっていた。隣の席の女性は化粧も相まってかやけに頬が赤い。急ぎで戻った私の頬もおそらく赤い。
クラスは7組まで進み、クラスの代表が名前を呼ばれると、立ち上がって壇上へと向かう。証書を受け取る際に校長に何か言われたのか、小さく会釈して振り返った。代表生徒が階段を降りると、他の生徒の名前が呼ばれ始め、名前が呼ばれるとその場に立ち、クラス全員が呼ばれるのを立ったまま待つ。親の席では誰かの名前が呼ばれるたびに、椅子に座り直す音がしていた。
さっきまで隣でタバコをふかしていた男は自分の娘が呼ばれたのか、肩を震わせているように見えた。
クラス全員の名前が呼び終わると、一拍置いて、一斉に座った。
8組に入った。一人の女生徒が立ち上がり、まっすぐ壇上へ向かう。女生徒は壇上の中央へ向かう途中、何度かクラスの方へ目配せして、上がりそうになる口角を抑え込むように唇を少しすぼめている。校長が差し出す証書を受け取り、振り返って、こらえきれなかったのか、口角が動いた。階段に脚を下ろすと、次々と名前が呼ばれ始めた。生徒たちは皆「はい」と返事をして立ち上がる。リズムよく立ち上がっていく。
「上野明人」「はい!」
「大野りこ」「はい!」
「織田俊平」「はい!」
生徒の名前が続く中、徐々に一部の生徒の首がある生徒に向かって、ちらちらと動き始めたのがわかった。そして何かを待ち望むようにざわつき始めた。
ああ、やな感じだ。
「木山勝」
男子生徒が立ち上がって、変なポーズを取った。「はーい元気でーす」
それはとにかく変なポーズで、体育館はしんと静まった。勢い良く立ち上がった太ももの裏に押されてパイプ椅子がバタンと音を立てて倒れた。一瞬しんとした体育館にパラパラとあざけるような笑いが起きた。それは、この冷たい、しんとした空気の中で赤らむ彼の顔を待ち望んでいたような笑い声だった。彼は顔に血を上らせたまま、パイプ椅子を拾い上げた。
先生は平静を装いながら、口角の上がった口元を隠すように手で覆って咳払いした。クラスの仲睦まじさの一部に自分がいるということへの喜びを隠せない、そんな表情だった。
先生は目を離した名簿から次の名前を探して指を滑らせている。
私は背中に腕を回して掻いた。
「えぇ、河野航」惰性で付け加えられたように、息子の名前は呼ばれた。
まばらな笑いも、パイプ椅子を引く音も止み、体育館はしんとしていた。私は、椅子から少し腰を浮かせて、胸ポケットに指を入れてタバコを探した。左胸が強く鼓動しているのがわかった。
「河野航」先生はもう一度呼んだ。
「はい」列の中ほどでスッと立ち上がった息子の姿が見えた。
『祝辞』
「おめでとうございます」
「え?」突然、コンビニ店員に告げられ、私は会計を終えた缶コーヒーを取り損ねて倒した。缶はレジ台の上をゆっくりと弧を描いて転がり、最終的に店員の手の中に吸い込まれた。
店員は缶を私に渡した手で、私の左胸を指さした。私は自分の左胸に花飾りがついていることに気が付いた。「ご卒業おめでとう」が垂れ下がっている。
「あ、どうも」
「このコンビニはあそこの高校の生徒さんで成り立っているようなものですからね。卒業式は私も名残惜しいですよ…金蔓が減りますから」と店員は笑った。「今日はお父さんのおかげで成り立ってますね、何度もありがとうございます。全然いいですよ、喫煙所だけ使ってもらっても」
「いやそういうわけには」喫煙所を使うたびに買ったガムはポケットの中に溜まっている。「こちらこそ助けられてますよ」と私が言うと「ん?」と店員が不思議そうに首を傾げたので、私は「なんでもないです」と手を顔の前で数回振った。
自動ドアを出ると「あらたした~」と気の抜けたお礼が背中に届いた。
私は、ドアを出るとそのままベンチに座り缶コーヒーを太ももの横に置いて電子タバコをくわえた。朝よりも暖まった風が通り抜け、「ご卒業おめでとう」が揺れた。
ベンチに深く腰掛けて空を見ると、距離感が鈍るほど青い空に、汚いカラスが横切った。
やけに力の抜けた体は硬いベンチに溶けるようにもたれ続けた。吐いた息はさほど白くならない。視界はぼんやりとしたままカラスの行方を眺めていた。
空を見上げたままいると、逆さまの視界の端に、パラパラと下校し始めた学生が見えた。学級会を終えてクラスは解散になり、最後の帰路につき始めているのだろう。肩を組みながら、わざとらしくはしゃぐ声がする。筒を鳴らす音がする。その音に気を取られているうちに、私はカラスの行方を見失った。
下校する生徒は、段々と増え始め、次第に長い列になり、その列がまた、まばらになり、そして途切れた。
急にしんとした。車通りもぱたりと止んだ。だから、アスファルトの細かい砂利が靴とこすれる音がよく聞こえる。遠くから近づいてくるのがわかった。
喫煙所の横を通りかけて、人影が止まった。私はベンチにもたれたまま首を向けた。私と同じく左胸に飾りのついた息子が筒を片手に立っている。胸元の飾りは、風で私と同じ方向に揺れた。
息子が大きめに一歩こちらに踏み出したので、私は座り直してタバコを消した。「近づくと体に悪い…」慌てて声を出したせいで、唾と一緒に、その言葉の後に続くべき何かを飲み込んでしまった。
息子は踏み出した足を引っ込めてから、踵を揃え「ありがとうございました」と頭を下げた。私はベンチに座ったまま、息子のつむじを見ていた。いくつも浮かんだ言葉を飲み込んだ。
息子は頭を上げると、目も合わせず体の向きを変えて、喫煙所から離れていった。私は自然と立ち上がった。立ち眩みでぼんやりするなか「大きくなったな」と思った。ズボンの丈は短く、靴下が歩く度に見えた。ボタンが一つ無かった。
離れていく背中に何と声をかければいいのかわかった気がしたが、何も言わなかった。
ただ、未だに母の作った巣の中にいる私は、君のために父親になればよかったなと強く思った。
空の巣 @katosan
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