卒業式

和希

卒業式

 空気が冷たい雪解けの講堂に、校長先生の声がマイク越しに響く。


 今日、わたしたちはこの学校を卒業する。


 これまで、時の流れが鉛のように重たく感じる日もあった。

 それなのに、改めて三年という月日をふり返ってみると、案外あっという間だった気もしてくる。


 卒業式に臨み、祝辞にじっと耳を傾けながら、ちらりと前のほうの座席を見やる。


 視線の先にいるのは、わたしのひそかな想い人。

 彼の姿に目を細めながら、胸の奥でそっと噛みしめる。

 もしあなたと出会っていなかったら、今日という日を迎えてはいなかったかもしれない、と。



――いっそ消えてしまいたい。



 少しも優しくないこの世界で、わたしは何度もそう願った。


 人はみな自分勝手でわがままな、エゴの塊。

 なかなか馴染めない教室で、『友達』という名の重い鎖につながれて、造花のような偽りの微笑ばかりが上手になっていく。


 たくさんの理不尽が横行する世の中で、いつしかわたしは、大人になるとは傷つくことだと教わった。

 友達の顔色をうかがい、ふり回されてもじっと耐え、自分を犠牲にしてでも相手に寄り添う。

 そんなありふれた日常に心はすり減り、それでいて、わたしの苦しみには誰も気づいてはくれない。



――みんな消えてしまえばいいのに。



 憂鬱な気持ちに支配されて、そう毒づいた夜もあった。

 けれども、そんな暗い闇に閉ざされたわたしの心に、あなたは光を灯してくれた。


 友達から押しつけられた掃除当番を断りきれずに引き受けてしまった放課後。

 沈んだ気持ちで一人教室をきれいにしていると、


「大丈夫? 手伝おうか?」


 あなたはわたしの返事も待たず、一緒になって黒板を消してくれた。


「あ、ありがとう」

「別に。当たり前のことをしただけだから」


 あまり多くを語らない、誠実なその横顔がかっこよくて。

 その日から、わたしの目はしぜんとあなたを追いかけるようになっていた。


「じゃあ、またね」

「ああ、また明日」


 どんなに短い言葉でも、あなたと会話を交わせたらそれだけで心が弾んで。

 小さくふった手が急に恥ずかしくなって、あわてて引っこめたりもした。


 月日を重ねるごとに近づいていく、ふたりの距離。

 けれども、けっして交わることはなく、廊下を並んで歩くのが精いっぱいで、でも、それだけでも甘い気持ちに満たされた。

 そんないじらしくてもどかしいわたしの純愛を、人は笑うでしょうか。


 あなたはわたしの青春そのもの。

 どんなに苦手な体育祭も、気が滅入る文化祭も、あなたがいたから楽しめた。


 それから、わたしたちはいくつもの「またね」をくり返し、ついに今日という日を迎えた。


 けれども、卒業してしまったら、それも終わり。

 わたしたちに「またね」はない。

 次に交わす言葉は、「さようなら」の一言だけ。

 その事実に、胸が締めつけられそうになる。



――あなただけは消えないで。



 ずっとあなたのそばにいたかった。

 あなたのそばで、ずっと笑っていたかった。


 でも、そんな切なる願いも、わたしの一方的なエゴに過ぎないって分かるから。

 わたしは今日も報われない恋に心を痛め、儚げな笑みをこぼす。


 もし学校が社会の縮図なのだとしたら、わたしにとって、卒業して新たに踏み出す社会もまた、きっと生きづらい場所。

 それでも、世の中には、泥中に咲く蓮の花のように美しいあなたのような人もいると知れたから。

 わたしは優しかったあなたとの思い出に胸を温めながら、これからも懸命に生きていくのでしょう。



――ありがとう。大好きだよ。



 そう伝えられる勇気があれば、どれほどよかっただろう。

 想いを伝えることは今のわたしにはむずかしい。

 だから、せめてもの祈りをこめて、あなたの後ろ姿をじっと見つめる。


 卒業しても、どうか忘れないでいて。

 あなたが生きていてくれる。

 それだけで救われる人がいるってことを――。




 やがて卒業式が終わり、教室での話も済むと、わたしは卒業証書の入った筒を片手に席を立った。


 さようなら、わたしの青春。


 わたしはにぎわう教室をそっと離れ、昇降口に向かって廊下を歩き出した。

 すると突然、背中から声をかけられた。


「待ってくれ」


 ふり返って、あっ、と驚く。

 声の主は、わたしのひそかな想い人。

 頬はほのかに赤く色づき、目には真剣なかがやきがあった。


「帰る前に、少し時間をくれないか。君に伝えたいことがあるんだ」

「……う、うん。実はわたしも話したいって思ってた」


 お互い照れくさそうな顔を見合わせ、くすっと笑い合う。

 しぜんとこぼれた、純粋なきれいな笑顔。

 ホッとしたような、むずがゆいような、温かい気持ちに心が柔らかく解けていく。


「教室に荷物を取って来るから、先に行って待っていてくれ。すぐに追いつく」

「うん、わかった。じゃあ、またあとでね」


 わたしたちは昇降口の先で落ち合う約束をして、ひとたび別れた。


 一足先にローファーに履きかえ、外に出て、卒業式の空を見上げる。


 明日へと続く青空はどこまでも高く澄んで、まぶしく晴れわたっていた。




【 完 】

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卒業式 和希 @Sikuramen_P

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